第32話 夜明け

 深海の奥深くに沈んでいる心地だった。

 音はなく、体には何の力も入っていない。


 ただ穏やかな海中を漂っている、そんな感覚。


 やがて体が徐々に上昇を始め、遂には水面に浮かび上がった。

 波一つない穏やかな海面。

 遠くの音が聞こえてくる。


 まだもう少し、揺蕩っていたかった。


 俺は海面で身を捩る。

 そうして、何もないはずの海面で何かを掴み、抱き寄せた。


 柔らかく、温かな何か。

 抱きつくだけで落ち着く。


 そうしてまた、俺は海中へ沈もうとして――、




「――ひんっ」




 どこからか、悲鳴のような声が聞こえた。


 一気に体が空へと吸い寄せられる。




 そうして、俺は目を覚ました。




「――っ」


 目を開けた俺の視界に、真っ赤に染まった白雪の顔が広がった。

 彼女の大きな瞳は心なしか潤んでいる。


 次いで、俺は自分の腕の先を追った。


 俺の左手は、白雪の腰の後ろに回っていた。

 柔らかいのに細くて頼りない彼女の体を、俺は抱きしめているらしかった。


「お、おはよう」


 白雪がか細い声でそう呟いた。


「――!! ご、ごめんなさい!!!!!!」


 事態を認識するや否や、俺は飛び跳ねるようにベッドから降りて、床に額を擦り付ける。


「ちょ、ちょっと神原くん、大丈夫だから顔を上げて……?」


 頭上から声をかけられる。

 俺は恐る恐る顔を上げた。


 ベッドの上で上体を起こした白雪は、掛け布団を胸元に抱き寄せながらこちらを覗き込んでいた。


「っ! いっそ殴ってくれ!」


「なぐっ?! か、神原くん??」


 俺は再び床に額を擦りつけた。




 ◆ ◆ ◆




「もう! 気にしないって言ってるのに……」


 粗相をひたすら謝り続け、一旦リビングへと移動してから。

 白雪はソファに座り、不満げに言う。


 とんでもないことをしでかした俺に対して白雪は寛容すぎる。


「いやいや、そういうわけにはいかないだろ。というか気にしてくれ頼むから」


 いくら寝ぼけていたとはいえ、白雪を抱きしめるなんて。


「同じベッドで寝たんだから仕方ないことだよ。それ以上のことになるかもって、思ってたりもしたんだし……」


「それ以上……?」


「っ! と、とにかく! この話はもうおしまい!」


 勢いに圧されて俺は思わず頷き返してしまう。


「ところで、神原くんはゆっくり眠れた? 私にとってはそっちの方がよっぽど重要だよ」


「ああ、おかげさまでな」


 今は朝の五時。

 昨日は家に帰ってから何もしないでベッドに入ったので、マッサージをしてもらったり、雑談をしていた時間を含めても九時間以上は寝ていた計算になる。


 ここ数年で最長記録。

 というか普通の人の睡眠時間も上回っている。


「体も軽いし、頭も冴えてる。何より気分がいいな」


「そう。よかった」


「白雪は眠れたのか?」


「う、うん」


 訊ねると、ぎこちのない返事が来る。


「眠れなかったのか?」


「少しは寝れたけど、ね。……やっぱり、好きな人と同じベッドだと、あんまり深くは眠れなくて……」


「…………そうか。悪い」


「もう、また謝る」


 なんとも気恥ずかしい時間が流れる。

 しかし俺が寝るために白雪が寝れないというのは堂々巡りというかなんというか。


 考え込む俺に、「それでも四時間ぐらいは寝れたと思うから」と白雪がフォローしてくる。


「でも、この時間に神原くんが目を覚ましてくれたのは助かったかな」


「うん?」


「その、お母さんには泊まるかもって伝えてるけど、こんなに長い間眠れるとは思ってなかったから。……今日の授業の荷物、取りに帰らないと」


 そう言って白雪は照れ笑いのようなものを浮かべる。

 確かに、今までは長くても四時間ぐらいしか寝てなかったもんな。


「悪い」


「だから謝らないでってば。それじゃあ私、帰るね」


「家まで送るよ」


「え、いいよいいよ。もう朝だし」


「そういうわけにもいかないって。朝と言ってもまだ薄暗いし。それに、白雪の好きな優しい俺はこういうとき送ると思うけど」


「……神原くん、それを盾にすれば私がなんでも折れると思ってない?」


 思ってはいない。いや、少しだけ思ってるかも。


 とはいえ寝かしつけてもらったのにこのまま帰ってもらうのはなんというか、傍若無人すぎる。

 白雪が反対しても勝手について行く心積もりだ。


「…………もう、じゃあお言葉に甘えて」


 結局折れてくれた白雪と共に家を出る。


 日の出からそう時間は経っていない外はまだまだ昏く、街灯の明かりは灯っていた。

 まだこの時間のバスは出ていないようで、俺たちは小一時間ほど歩くことになった。


「なんだか不思議。この時間に神原くんと二人で歩いているの」


「……そうだな」


 俺たちはお互い制服を着たままだ。

 部活動に入っている生徒でも、まだ一時間は起きてこないだろう。


「……あ、お母さんからだ」


 先ほど母親へ連絡したのだろう。

 白雪がスマホを取り出す。


「車で迎えに行こうかって訊かれたけど、断っちゃっていい?」


「俺はもちろんいいけど、白雪は大丈夫なのか?」


「うん。この時間に車を出してもらうのはお母さんに悪いし、それに神原くんとこうやって歩いて帰るの、ちょっと楽しいから」


 白雪は嬉しそうに話す。

 真っ暗な空に微かに淡い光が差し込む中。

 俺には、白雪が太陽よりも輝いて見えた。


「――――っ」


 ふと、思った。

 俺のこの気持ちは。

 白雪が傍にいてくれるだけで眠れてしまう、安心感は。


 果たして、恋とどう違うのだろうと。


「神原くん?」


 恐らくぼんやりとしていたのだろう。

 白雪が眉を寄せた。


 そんな彼女に俺は笑いかける。


「いや、なんでもない」


 遠くの空がさらに明るくなっていく。

 街に光が差し込み、星の輝きが薄れ、街灯が消える。


 隣には楽しそうに笑う白雪。

 俺はそんな彼女のことを、きっと長い間見つめていた。

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