第31話 添い寝
俺の背中の一部分が、手のひらの形に熱を帯びる。
ベッドの上で、白雪の手と俺の背中の間にあるのはワイシャツとインナーの二枚の布だけだ。
衣擦れ音と共に俺にかかった掛け布団が僅かに動く。
当たり前だけど、普段一人で寝ていて掛け布団が勝手に動くなんてことはない。
そのこともまた、彼女が同じベッドの中にいる事実を突きつけてきた。
「白雪、さん……?」
呼んでから、ついさん付けにしてしまったことに気付く。
それぐらい動揺していた。
「これはその、いくら何でも良くないんじゃないか」
「うん? だって神原くん、傍にいてくれるだけでいいって言ったじゃん」
「それは……」
からかうような声。しかしその声はいつもよりも震えていて、白雪が話すのに合わせて背中に吐息がかかってくる。
俺はずるい。
この状況をよくないと思うなら、白雪のことを突き飛ばすか、俺がベッドから飛び出せばいい。
それなのにどちらも選ばない俺は、この瞬間を惜しんでいた。
「ごめんね。今のは意地悪だった」
白雪のおどけた声。
彼女が今どんな表情を浮かべているのか、背中を向けている俺にはわからない。
だけど変わらず手は背中に触れていて、微かに息をする音が聞こえてくる。
そうして、俺たちは互いに沈黙を作った。
正直寝るどころではない。
そう思ったのは最初の数分で。
沈黙が続くにつれて、段々と彼女が隣で横になっていることに落ち着きを覚え始めていた。
「……私、神原くんに謝らないといけないことがあるの」
そんな時だった。不意に白雪が背中から手を離し、布団の外に漏れ出さないような声で囁く。
「謝らないといけないこと?」
「私、前に話したよね? 神原くんの不眠症の介抱を申し出たのは、神原くんとどうこうなろうとしてたわけじゃないって」
「……ああ」
「神原くんの不眠症が治るまで、私の気持ちはなしに、純粋に手伝わせて欲しいって」
「言っていたな」
「それ、たぶん今はできてない」
「……っ」
「私、もう気持ちが我慢できなくなって……だからちょっとだけ、私の我儘にも付き合ってくれる?」
そう言いながら、また背中に温もりが伝わってきた。
先ほどまでとは違い、触れる面積が増えている。
手のひらと……その上に触れているのは額だ。
ほとんど密着する形に俺は身を固くし、だけどやっぱり抵抗はできない。
だから、彼女の言葉を訂正する。
「いや、これはやっぱり俺の我儘だよ」
「…………神原くんは優しいね」
今の言葉のどこにそんな要素があったんだろう。
「ね、神原くんは将来の夢ってある?」
「どうしたんだ、突然」
「何気ない雑談もリラックスできて眠れるかもしれないよ?」
「……今のところは特に決まってないな。たぶん、大学に行くと思う。そこからのことはまだ全然」
中学生の頃は自分が大人になれるのかどうかすら不安だった。
不眠症との付き合い方を掴んできて、ようやく今を踏みしめながら生きている状態だ。
将来のことなんて考える余裕はなかった。
「そういう白雪はどうなんだ?」
「私はね、看護師になりたい。看護師になって、たくさんの人を助けたい」
「白雪らしいな。だから保健委員に立候補したのか?」
「うーん、それもあるかも。……私ね、一年生の時は将来の夢とか決まってなかったんだ。保健委員でもなかったし」
「そうなのか? 俺はてっきり一年の時から保健委員だったのかと」
俺の背中で白雪の額が微かに左右に動く。
「私が看護師になりたいって思ったのは、神原くんの影響なの」
「俺の?」
「そっ。お花の一件以来、私が神原くんのことを探すようになったことは話したでしょ?」
「ああ」
「それ以来、神原くんを学校で見かける度に目で追って、……あるときは教室までついていったりもしたの。気付いてなかったでしょ」
「……まったく」
くすりと白雪が笑う。
「そのお陰で神原くんのクラスと名前も知れたの。…………引いた?」
「いや、驚いただけだって。……ほんとに」
まあ若干ストーカーっぽいなとは思ったけど。
俺のことを疑うような沈黙の後、白雪が続ける。
「それでね、学校で見かける度に神原くんは優しいことをしてたの。前から人が来てたらそっと脇によけたり、ゴミが落ちてたら拾ったり、風で掲示物が飛ばされそうになってたら窓を閉めたり」
言われてもあんまり記憶にない。
そんなことをしたかもしれないが、一々覚えるほど大それた事ではないと思う。
「そんな神原くんを見ているうちに思ったんだ。あ、将来は人を助けられる仕事がしたいなって」
「それで看護師か」
「あ、極端だって思ったでしょ」
「そりゃまあ、人の助けになる仕事なんて星の数ぐらいあるからな」
「そのときたまたま医療ドラマ見てたから」
「……そっちの影響の方が大きいんじゃないか?」
俺の指摘に白雪はくすくすと笑う。
背中がくすぐったい。
くすぐったいけど、温かい。
その後も、俺たちはゆっくりとした時間を過ごす。
それはただの雑談。明日にでも忘れていそうなくだらない話。
ベッドの外には世界が広がっていないんじゃないかと錯覚するほど、俺たちの世界はこの一畳ほどのスペースで完結していた。
先週あれだけ来なかった眠気が、先々週まで頭を撫でてもらわないと訪れなかった睡魔が、俺の中に生まれていた。
うとうととし出したそのとき、俺はあることを思い出した。
「そうだ、鍵……」
鍵を渡していないと白雪は帰れない。
慌てて起き上がろうとした俺を、白雪が抱きしめるようにして阻んだ。
「大丈夫。……実はね、今日お母さんに伝えてあるの。もしかしたら神原くんのお家に泊まるかもしれないって。だから大丈夫」
蕩けるような声で、白雪は囁く。
その声はもう一度俺をベッドへと引き留めた。
「……前から思っていたけどさ。白雪のお母さんって危機感とかないのか?」
「相手が神原くんじゃなかったら許可してくれないと思う。だけど、お母さんは知ってるから」
「何を?」
「私が、神原くんのことが好きって」
「――っ」
何かのピースがはまった感覚があった。
白雪が寝落ちして、連絡もなしに夜遅くまで拘束してしまったあの日。
謝罪に現れた俺を出迎えた白雪のお母さんの態度に、僅かながらの違和感があった。
すべてを見通したような目。
なぜか俺を信頼しきった態度。
それから、別れ際に何かを言いかけて。
それらすべての謎が解けていく。
あれは、娘の想い人に対する目と態度と言葉だったのか。
「ねぇ、そのままの体勢で大丈夫? いつもは仰向けに寝てるよね」
俺が納得していると、白雪が訊ねてきた。
確かに今、俺は左半身を下にしているが。
「無理しないでね。私、神原くんの邪魔をするつもりはないから」
「……じゃあ、ちょっと動くぞ」
「うん」
もぞもぞと、掛け布団が落ちないよう気をつけながら上を向く。
見慣れた天井。だけどすぐ傍からは聞き慣れない息遣い。
「――っ」
視界の端に、白雪の顔が映る。
彼女は真っ赤な顔で、俺の方を見ていた。
なんだか見てはいけないものを見てしまったような感覚に襲われて、俺は目を瞑る。
そうしてまた、温かくて心地の良い感覚が全身を包み込んでいく。
「本当に、私が隣にいるだけでいいんだね」
溶けていく意識の中。白雪が嬉しそうに呟いた。
それに返答する意識も、もう失われて。
完全に眠りそうな時。そっと優しく腕を掴まれた。
「安心して眠ってね。私がずっと傍にいるから」
そうして。
俺は完全に意識を手放した。
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