保健委員の白雪さんは不眠症の俺に添い寝してくれる。
戸津 秋太
第1話 保健室での出来事
ゴールデンウィーク明けの登校日。
昼休みになって早々に、俺は『2ーA』の教室を出て、北校舎一階に位置する保健室へ向かっていた。
この時間、大抵の生徒は自分の教室や中庭、グラウンドや体育館なんかで昼食をとるなり遊ぶなりしている。
だから特別教室や教材室、準備室なんかが集中する北校舎を行き交う生徒は疎らだ。
目的の保健室が迫る頃には周りに人っ子一人いない。
かすかに鼻腔をくすぐる消毒液の独特の匂いを感じながら、俺は「失礼します」と声をかけて保健室の引き戸を引いた。
「あら、
窓際のデスクに向かっていた養護教諭の
彼女は赤縁眼鏡を取りながら俺の姿を確認すると、にこやかな微笑と共に立ち上がる。
ゆったりとした足取りで歩み寄ってくる風祭先生に俺は軽く頭を下げた。
「先生、今日もお邪魔します」
「はいはい。いつも言ってるけど、そんなにかしこまらなくていいからね~。奥のベッドを使ってちょうだい」
入って左手に並ぶベッドは全部で三床。
先生に言われたとおり、一番奥のベッドに向かう。
「ああ、そうそう。先生、これから会議で席を外すけど、誰か来ても対応する必要はないからね」
「わかりました」
支度をして保健室を後にしようとする風祭先生に軽く頭を下げる。
引き戸の音が響き、先生の足音が遠のいていくのを感じながら、俺は備え付けのハンガーにブレザーをかけてベッドに横になった。
いい匂いのする掛け布団をかぶって目を瞑る。
少しでも眠れたらいいのなと、願いながら。
横になる度に、最後にまともに眠れたのはいつだっただろうと考えてしまう。
夜になっても眠たくなるどころか意識は冴え、ベッドに入っても一向に寝付けない。
たまに意識が途切れる瞬間はあってもすぐに目覚めてしまう。
睡魔はなく、代わりに頭にはいつも靄のようなものがかかっていて、何をするにも気怠くて。
この症状が不眠症であると知ったのは随分前のことで、病院にも行ったけど、大した解決にはならなかった。
やがてこの真弓高校に進学しても、事態は好転しなかった。
そんなある日、休み時間に廊下を歩いていると、通りがかった風祭先生が俺のことを呼び止めた。
「病人みたいな顔だったから」というのは先生の言だ。
よほど死にそうな顔をしていたんだろう。
俺は先生に事情を話し、以来、先生のご厚意で昼休みだけでも休めるようにと保健室のベッドを使わせてもらっている。
もし寝れたら午後の授業は欠席してもいいと言われているけど、残念なことに今のところその機会は訪れていなかった。
外から生徒の喧噪が聞こえてくる。
体はどっと疲れているのに、頭の中はやけに冴えていて、眠ろうとする俺の意識を引き留める。
それでも俺は瞼を閉じ続ける。
視覚情報がないだけでも脳は休まると、風祭先生に助言されたからだ。
体感でそろそろ昼休みも終わりだろうかと思った時だった。
保健室の引き戸がガラガラと音を立て、外から女子の声が飛んできた。
「失礼します。あの、生活アンケートをお届けに……あれ? 先生、いないのかな」
その女子の声に俺は聞き覚えがあった。
――
俺と同じ『2ーA』の生徒にして、クラスの保健委員。
一年の時は別のクラスだったが、当時から彼女のことは知っていた。
教室で机に伏せていると否が応でも聞こえてくるクラスメートの会話。
その中に、よく彼女の話が上がっていたのだ。
曰く、隣のクラスにめちゃくちゃ可愛い女子がいるらしい、と。
その噂は校内であっという間に広がり、しばらくの間、休み時間は隣のクラス前の廊下が彼女目当ての男子で溢れかえるほどだった。
二学年に進級してクラス替えが行われた後も、クラス内の男子は彼女の話題でもちきりだったりした。
ひっきりなしに遊びに誘われる彼女のことを「大変そうだなぁ」などと思っていたものだ。
そんな彼女が間の悪いことに風祭先生のいないタイミングで保健室に現れた。
ベッドに横になって目を瞑っている俺が今更起き上がって声をかけるわけにもいかず、そのまま狸寝入りを決め込む。
妙な緊張感を覚えながら胸中で「早く出て行ってくれ」と念じるが、その思いは届かなかった。
引き戸がゆっくりと閉まると同時に、彼女の気配が近付いてくる。
俺がカーテンを閉め忘れていたことに気付くのと、彼女がベッドで横になっている俺の存在に気付くのはほとんど同時だった。
「……ぁ、神原くん……?」
息を呑む気配と共に、鈴の音のような声で俺の名前が呟かれる。
彼女は困惑している様子だった。
そりゃあそうだ。クラスメートが保健室で寝てるんだからな。
それにしても俺の名前、覚えてたんだな。
このクラスになってまだ一月しか経っていない。
それも、ゴールデンウィークという長期休暇を挟んでいた。
彼女と話した記憶はない。もしかしたら事務的な会話はしたかもしれないが、その程度。
彼女はその容姿からして校内で噂になるほど目立っている。だから俺が彼女の名前を知っていてもおかしくはないが、その逆は意外だ。
俺はクラスにいる間、ほとんどの時間を机に突っ伏して過ごしている。
ただでさえ全身に倦怠感があるのだ。授業の合間にまで体力を使いたくないし、休めるときに休んでおきたい。
そんな学校生活を送っているせいで、あまり友だちはいない。
クラスの片隅にいる、よくわからないクラスメート。それが俺の立ち位置だ。
そんな彼女が俺の名前を覚えているなんて。
保健委員だからクラスメートの名前を全員覚えているんだろうか。
俺がそんなくだらないことを考えていると、暫く立ち尽くしていた白雪さんの気配がなぜか近付いてきた。
「……あの、神原くん? 起きてる?」
思わず跳ね起きそうになった。
甘い匂いがふわりと漂ってくる距離。
耳元に限りなく近い場所で、彼女は確認するように囁いてきたのだ。
(は? え、なんで?)
混乱する俺をよそに、彼女は「寝てる、よね……?」と何やら意味ありげに呟いている。
そして、丸椅子を近くに持ってくる音がしたかと思えば、あろうことか彼女はそこに腰を下ろした。
一体全体どういう状況なんだこれは。
なんだかよくわからない緊張に冷や汗が出そうになる。
よく考えたら狸寝入りする必要もないんだし、ここは今目を覚ました風を装って起きれば――。
そう考えていた時だった。
そっと、俺の額に細く柔らかな何かが触れた。
(――っ?!?!?!)
それが彼女の指であることに気付くのに、時間はかからなかった。
ひんやりとしたしなやかなその指は、少しの間俺の額に触れ続け、やがて優しく前髪を撫で始める。
何が起こっているのかわからない。
わかるのはただ一つ。
今起きると、たぶんとんでもないことになるということだけだった。
「ふふっ」
何が楽しいのか、彼女はくすりと笑いながらなおも俺の髪を撫で続ける。
大事なものを扱うようにそっと。焦らすように、繊細に。
混乱と緊張が最高潮に達し、それでも続くその愛撫に、やがて妙な気持ちよさと温もりを覚え――、
――気が付くと、俺は意識を手放していた。
◆ ◆ ◆
遠くから、あるいはすぐそばから大きな音がしていた。
「――っ」
それがチャイムの音であると気付くと同時に、俺は飛び起きた。
いつの間にか閉められていた薄桃色のカーテンを開けると、デスクに向かっていた風祭先生が顔を上げた。
「あら、起きたのね」
「お、おはようございます。……あの、今のチャイムは」
「ちょうど五時間目の授業が終わったところよ。心配しなくても先生には伝えてあるわ。よく眠れた?」
優しい声でどこか嬉しそうに訊ねてくる風祭先生の言葉で、俺はようやく自分が寝ていた事実を意識した。
(そうか、俺、寝ていたのか……)
言われてみれば、いつもよりも頭の中がすっきりしている。
体も軽いし、吐き気もない。
昼休みが終わりかけの頃からの記憶がない。
たぶん、小一時間ほど寝ていたんだろう。
どうにか寝る前の記憶を呼び起こすのに合わせて、彼女の――白雪姫乃との出来事が蘇る。
(あれは、夢だったんだろうか?)
今までほとんどと言っていいほど接点のなかったクラスの人気者である彼女が、眠っている俺の髪を撫でていたなんて、夢としか思えない。
眠れないあまり変な妄想をしていたなんて、笑えない話だ。
よし、忘れよう。
そう心に決めて頭を振り、ハンガーにかけてあるブレザーを取ろうとベッドに向き直った時。
そのすぐ脇に置かれた丸椅子が視界に入った。
それは、俺がベッドに横になるときにはなかったものだった。
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