第6話 秘密の時間

「そういえば白雪さんは昼食は大丈夫なのか?」


 例によって一番奥のベッド、その仕切りとなるカーテンを閉めながら俺は彼女に尋ねる。

 昼休みになってすぐに教室を出たから、昼食を摂る時間はなかったはずだ。


「私は大丈夫。今日ちょっと食欲なくて……そういう神原くんは?」


「俺は基本的に昼はあまり食べないんだ。飯食った後に横になるのは体に良くないだろ? それよりも食欲ないって、大丈夫か?」


「だいじょぶだいじょぶ。今日の朝食べ過ぎちゃっただけだから」


 そう言って「あはは」と笑う白雪さん。

 そこで会話が途絶え、俺たちの間に沈黙が流れる。


 カーテンで仕切られ、保健室の中に生まれた半個室。

 ベッドとカーテンの隙間に並び立つ俺たちは、なんとも言えない緊張感を抱いていた。


「そ、それじゃあ横になるぞ?」


「ど、どうぞごゆっくり……?」


 最早会話になっているのか怪しいやりとりを経て、俺はベッドに横になるためにブレザーのボタンに手をかけた。


「ちょ、ちょちょちょ?! 神原くん何して――」


 悲鳴のような声と共に白雪さんが両手で目元を押さえる。


「何って、皺になるからブレザーをかけておこうと」


「あ、あぁ……そういう……」


 ホッと胸を撫で下ろす白雪さんを横目に、俺は脱いだブレザーをハンガーにかける。

 そうしてようやくベッドに横たわった。


「し、失礼します」


 白雪さんはなぜか敬語でそう言いながら、ベッド脇に持ってきた丸椅子に腰を下ろす。

 その間に俺も掛け布団を被り、頭のポジションを定め、準備は整った。


「――っ」


 ふと横を向いて映ったその景色に、俺は思わず息を呑んでしまう。


 背筋をピンと伸ばして丸椅子に座る白雪さん。

 ベッドで横になっている俺は、彼女を見上げる格好になっていて――、


 詰まるところ、俺の目の高さがちょうど彼女の胸の下辺りだった。


「……? 神原くん?」


 慌てて顔を逸らすと、そんな俺を不思議がる白雪さんの声が飛んでくる。

 一瞬だったが、俺の脳内はなぜか完璧に記憶していた。

 正面から、あるいは上から見下ろすのとではまったく見え方が違う。

 下から見た、彼女の豊満な膨らみを。


(忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ……ッ!!!!)


 白雪さんは親切心から昼休みの時間を使ってくれている。

 それなのに、俺がこんな体たらくではダメだろ!


「悪い、もう大丈夫だ」


 鉄の意志ですべてを置き去りにして、俺はまた仰向けになる。

 そんな俺に、白雪さんは微笑みながら手を伸ばしてきた。


「それじゃあ、撫でるよ?」


「よろしく頼む」


「……あの、神原くん」


「ん?」


「目、瞑って。……恥ずかしい、から」


「わ、悪い!」


 こちらに伸びてくる白雪さんのしなやかな手を、つい目で追ってしまっていた。

 急いで目を瞑る。


 そうして、俺たちの秘密の時間が始まった。


 初めは恐る恐るといった感じで、彼女の指がつんと俺の額に触れる。

 それから優しく額にかかった髪を梳くように掻き分けていく。


 目を瞑ったからか、彼女の息遣いがハッキリと感じられる。

 彼女が指を、手を、腕を動かす度に、ふわりと漂ってくる甘い香り。


 カーテンの向こうで風祭先生がボールペンを走らせる音が聞こえてくる。

 遠くから笑い声とも叫び声とも判別できない音がする。


 心臓がドクドクと脈打っている。

 なのに俺の聴覚はどんな些細な音も拾い上げようと鋭敏になる。


 白雪さんの指が動く。

 額の上、頭の前の部分に五本の指が乗る。

 そうして、またゆっくりと優しく動き始めた。


「神原くん、気持ちいい?」


 不意にかけられたその声に、俺はビクリと飛び跳ねそうになった。

 鋭敏になっていた聴覚に、彼女の囁くような声が突如として入ってきたからだ。


 俺は動揺を悟られないように平静を装いつつ、答える。


「……気持ち、いい」


「ふふっ、よかった」


 心底嬉しそうに、彼女は笑った。


 なんというか、不思議な感覚だ。

 ここは学校の保健室で、傍にいるのがあの白雪姫乃で、そんな彼女に頭を撫でてもらっている。


 嘘みたいな状況だ。

 なのに、俺はこの非日常にこれ以上ないほどの日常を覚えていた。


(……寝れそうだ)


 いつもは「寝ないといけない」「なぜ眠れないんだ」に支配される頭の中が、今は自分を包む心地よさでいっぱいになっていた。


 意識がうとうとし始める。

 白雪さんに撫で始めてもらってからどれだけ経ったのか、もうわからないでいた。


(気持ちいい……)


 それは、白雪さんの愛撫への感想でもあり、自分を襲う微睡みへ向けたものでもあった。


 白雪さんの繊細な指使いが意識の果てに追いやられていく。

 そうして、無の中に飛び込もうとした時だった。




「先生! 絆創膏ねえ? サッカーしてたら転けてよぉ!」 




 引き戸がガラリと開く音と共に突然保健室に来襲した大声に、意識が引き戻された。


「こら、休んでいる人もいるんだから静かにしなさいっ」


 珍しく風祭先生の怒った声が聞こえてる。

「やべっ」という声を上げる男子生徒。


 カーテンの向こうで二人の会話が続き、やがてまた引き戸の動く音。


 静けさを取り戻した一方で、俺の心臓はバクバクと脈打っている。

 もう眠気は遠い彼方に吹き飛んでいた。


「神原くん、起きてる?」


 なんとか寝るためにもう一度心を落ち着かせている時だった。

 頭上から彼女の声が飛んでくる。


 俺はその声に応えようと目を開けて、そうしてこちらを覗き込むようにしていた白雪さんと目が合った。


「――ッ」


 果たして息を呑んだのは俺だったのか彼女だったのか。

 俺の頭を撫でている白雪さんは、とんでもなく優しい表情で嬉しそうに俺を見つめていた。


 俺と白雪さんの視線が交差し、見つめ合う。

 彼女の大きな瞳が徐々に見開かれ、


「っ、目、瞑っててって」


「わ、悪いっ」


 お互いにパッと顔を背けた。


(白雪さん、あんな表情で俺の頭を……)


 昨日、彼女は不眠症のクラスメートを介抱するのも保健委員の仕事だと言っていた。

 クラスの人気者で誰にでも優しい彼女らしい方便だと思っていた。


 だけど今の彼女の表情は、仕事とか優しさからくる義務感とか、そういうものではなくて。

 ――好きな人に向けて浮かべるような、そんな顔色で。


(っ、これだから男ってやつは……)


 先ほどといい、純粋な気持ちで手伝ってくれている白雪さんに自分勝手な妄想を抱く自分が嫌になる。


 すべての邪念を振り払い、もう一度寝ようと試みる。


 だが、一度遠のいた睡魔はそう簡単にはやって来なかった。




 ◆ ◆ ◆




 五時間目の予鈴を告げるチャイムが鳴り響く。

 俺はゆっくりと起き上がり、ずっと撫で続けてくれた白雪さんに頭を下げた。


「悪い、ここまでしてもらったのに」


「ううん、私の方こそ力になれなくてごめんね」


「そんなことない。あと少しで寝れそうだったんだ」


 あのとき保健室に人が入ってこなければ寝れた確信がある。

 だが、あの男子生徒に恨み言は言えない。

 学校の施設である保健室を利用している点は俺も彼も一緒なのだから。


「そっか、じゃあ次こそ上手くいくよ」


 俺の言葉を受けて、白雪さんはむんっと両手の拳を握った。


 ……なぜだろう。なんだかものすごく情けない気持ちになる。


「ほ、ほら、そろそろ行かないと授業に遅れちゃうよ?」


 俺がベッドの上でしばし凹んでいると、白雪さんが元気づけるような声と共にブレザーを手渡してくる。

 俺は「ありがとう」と言いながら受け取ると、ベッドを降りた。




 風祭先生にお礼を言って保健室を出る。

 眠れそうで眠れなかった残念な気持ちと白雪さんへの申し訳なさから足取りは行きよりもずっと重たい。


 というかやっぱり、白雪さんのためにももうやめるべきなんじゃないか?


 そんなことを考え始めた時だった。

 不意に隣で並んで歩いていた白雪さんが口を開く。


「よくよく考えたら、お昼休みの短い時間で寝ようとするのって大変じゃない? 上手く寝れたとしても、午後の授業に出れなくなっちゃうし」


「元々寝れないつもりだったからな。少しでも休もうとしていただけで、午後の授業に出れないなんて考えたことなかった」


 もしいつも寝付けて午後の授業を欠席するようなら、風祭先生も保健室のベッドを貸してくれなくなるだろう。

 だが、そう簡単な話ではないと先生もわかってくれているのだ。


 ……だけどもし。白雪さんのおかげで寝付けるようになったなら。

 俺は保健室を利用できなくなるのだろうか。


 彼女の言葉をきっかけに先のことに想像を膨らませていると、白雪さんがその場で足を止めた。

 二歩遅れて俺も立ち止まり、振り返る。


「白雪さん?」


「学校だから、色々と気にしないといけなくなっちゃうんだよね」


 彼女は自分に言い聞かせるように呟く。

 そうして、いじいじと両手の指を突き合わせながら続ける。


「神原くんも時間のこととか周りのことを気にしなくて済む方が絶対いいよね?」


「というと?」


「……神原くんのおうちだったら、条件にピッタリだと思うんだけど、どう、かな?」

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