第38話 朝の教室

 春の気配はすっかりと消え、夏が近付いてきたこの時期。

 カーテンを開けると、段々と昇るのが早くなってきた朝日が差し込んできて眩しさに目を細めた。


 光に目が慣れ、窓の外の景色をぼんやりと眺めながら俺はぼんやりと考える。

 一人で眠ることのできた、その理由を。


 白雪が傍にいてくれるだけで眠ることができていたのは、彼女と一緒にいると安心できるから。

 その安心感が俺を眠りへと誘ってくれる――そう考えていた。


 しかし今日は、白雪が頭を撫でてくれることも添い寝をしてくれることもなく、ただ一人、ベッドで横になっただけだ。

 それなのに眠れた。眠れてしまった。


「不眠症が治ったのか? だとしたらなんで……」


 嬉しいことではある。

 長年不眠症に悩まされてきた身としては願ってもないことだ。


 だが、理由がわからないことほど怖いものはない。

 何よりもあれだけ悩まされ、あれだけ試行錯誤したのに、何の前触れもなく治るのはなんだか腹立たしい。


「……まあ、まだ治ったってわかったわけじゃないけど」


 白雪の時もそうだったが、いつまた眠れなくなるかもわからない。

 今日一日だけの奇跡かも知れないのだ。


 なら、考えるだけ無駄なのかもしれない。




 ◆ ◆ ◆




 家にいてもすることがないので、早くに学校に登校した。

 一番乗りと思って職員室に向かうが、教室の鍵はすでにない。


 ……なんというか、既視感を覚えた。


 まだ7時台なのに教室にいるなんて一体誰だと想いながら教室に向かうと、中にいた人影がこちらを向いて微笑みかけてくる。


「おはよう、神原くん」


「……白雪だったのか」


 白雪は自分の席に座って本を読んでいるらしかったが、俺に気付いてガタリと席を立つ。


「ん?」


「おはよう。いや、鍵を持って行ったのは蓮あたりなのかと思ってたからさ。……随分早いんだな」


 よくよく考えればあの日の蓮は俺に謝るために早く登校していただけで、普段からそうしているわけじゃないよな。


「あー、うん、そうだね」


 俺の呟きに白雪はなんだか歯切れの悪い反応をする。

 どこか照れたような様子で視線を右斜め下に向けていた。


「……その、神原くんに早く会いたかったから、早めに学校に来たの」


「………そ、そうか」


「うん」


 気の利いた返しもできずに席に着いた俺を、白雪が追ってくる。

 そうして前の席の椅子をぐるりと俺の方へ向けて座った。


「昨日はごめんね。お父さんが休みで家にいたから怪しまれちゃって。学校もあるのに外で泊まり……? って」


「そうだったのか」


「うん。でも今日はお父さん仕事で家にいないから行けるよ」


 ……ふと、白雪のお母さんの言葉を思い出した。



『あ、でもあの人には気をつけてね。娘が神原くんのことを好きって知ったら暴れ出しかねないから』


 ……やっぱり白雪のお父さんは泊まりのこと知らないんだな。


 俺は一連の出来事がばれた時のことを想像して、背筋をぶるりと震わせる。

 すると、それを見て何やら勘違いしたらしい白雪が心配そうに覗き込んできた。


 俺の机に両腕を乗せ、その上にあごをちょこんと合わせてまるで猫みたいに上目遣い。

 考え事をしていた俺は突然のことにドキッとする。


「やっぱり疲れてる? 昨日、寝れなかったよね」


「――っ」


 その気遣いに俺は固まってしまう。


 彼女に無用な気遣いをさせないためにも俺は一人で寝れたという事実を伝えるべきだ。

 だが、そんな俺の思いに反して言葉はのど元でつっかえる。


「神原くん……?」


「……っ」


 白雪の手が俺の頭に伸びてきた。

 俺は反射的に体を後ろに引いて、その手から逃れる。

 一瞬、白雪が傷ついたような表情をしたのはたぶん気のせいじゃない。


「ぁ、いや……」


「ご、ごめん、私、ついいつもの癖で……」


 頭を撫でようとした右手をギュッと左手で包み隠して、白雪が謝る。

 なんで俺は彼女に謝らせてるんだと憤りがわき上がってきた。


 そしてその憤りが、さっきまでの躊躇いを吹き飛ばす。


「違うんだ。白雪に撫でられたくなかったわけじゃなくて……、その、白雪に罪悪感があったからで」


「罪悪感?」


「……実は、今日は一人で寝れたんだ。白雪がいなくても一人で。そのことを中々言えなくて、俺のことを心配してくれてる白雪に申し訳なくて……それで」


 結局言い訳のようになってしまった。

 だけど白雪は嬉しそうに微笑む。


「そっか、良かったね。一人で寝れたってことは不眠症が治ったってことでしょっ」


「――っ、一日だけだけどな」


「ううん、一日だけだとしてもすごいよ。神原くん、ずっと悩んでたもんね」


 自分のことのように喜んでくれる彼女を見ていると、一瞬でも隠そうとしてしまった自分が恥ずかしくなってくる。


 白雪はひとしきり喜んだ後、「あれ?」と小首を傾げる。


「一人で寝れたこと、話しづらいことなの? 良いことなのに」


「それは――」


「それは……?」


 白雪の不思議そうな目が俺を射貫く。

 その目に見つめられるのが恥ずかしくて、俺は顔を背けた。


 なんだか顔も熱い。


 俺はポツリと呟いた。


「……白雪が、来てくれなくなるかもしれないだろ?」


 俺たちが夜の時間を共にするのは、ひとえに俺の不眠症を治すためだ。

 その名目がなくなれば、彼女は今日にでも来なくなるかも知れない。


 そのことが、嫌だった。


「~~~~っ」


 白雪から変な音がして顔を上げると、彼女は顔を真っ赤にして口をパクパクとさせていた。


「そ、それってさ……、っ、むぅ~ん、うぅううん」


 よくわからない鳴き声を上げながら彼女はジタバタ動く。

 そうしてから白雪はまるで宣戦布告みたいな声音で告げてきた。


「し、心配しなくても今日も神原くんと一緒に寝るからっ。だ、だって、不眠症が治ったとも限らないし、寝れなかった時のために私が傍にいた方がいいでしょ?」


「そ、そうだな。……助かる」


「うん。……ね、頭撫でていい?」


「…………少しなら」


 首を差し出すようにして頭を前にやると、白雪はそっと撫でてくる。

 気持ちいいとか安心するとか、そういうものよりも緊張の方が勝っていた。

 学校の教室、ということもあるんだろう。


「……あのさぁ、あんたたち仲がいいのは結構なことだけど、流石に教室でそれはどうかと思うよ?」


「「――っ?!」」


 突然の声に俺たちはバッと離れる。

 だがすでに手遅れで、教室の引き戸の前に立っていた早乙女が呆れたようにこちらを見ていた。


「今の、あたし以外が見たら一瞬でクラス中の話のネタになってただろうね」


「か、神原くんの不眠症を治すためだから……」


「はいはい」


 白雪の弁明を早乙女は相手にしないで適当にあしらう。

 大きなため息を零す早乙女に、俺と白雪はちらりとだけ視線を交わし、どちらからともなく小さく笑いあった。

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