第26話 偽りの優しさ

「失礼します。……あれ? 先生、いないみたい」


 鼻血が垂れないように上を向いている俺に代わって白雪が扉を開けてくれた。

 だがどうやら先生は不在らしい。


 白雪に続いて保健室に入り、奥のソファに腰を下ろす。


「とりあえず応急処置だけでもしよっか。ええと、氷、氷……」


 そう言って、白雪は冷蔵庫の中をごそごそと漁り始めた。


「勝手に触っても大丈夫なのか?」


「大丈夫大丈夫。前に怪我した人の治療を手伝ったことあるから。ほら、私保健委員だし」


 その言葉通り、白雪は慣れた手つきで氷のうを取り出すと、その中にガサガサと氷を入れ始めた。


 こうして見ていると手先は特別不器用という風には見えないが、一体どういう料理をするのか少し興味が湧いてくる。


 俺がそんな呑気なことを考えているとはつゆ知らず、氷を詰めた氷のうを持って俺の右隣に座った。


「ちょ、白雪……?!」


 ずずいと俺の方へ体を寄せると、白雪は氷のうを持った右手を顔付近へ伸ばしてくる。

 自然と俺の前を横切る――もっといえば覆い被さるような体勢になった。


「鼻血の時は氷を額と鼻の間に当てるといいんだって」


 そう言って白雪は俺の額近くに氷のうを押し当ててくる。

 氷がひんやりと俺の額を冷やす。

 だが、正直俺はそれどころではなかった。


 俺の視界を、白雪の胸元が埋め尽くす。

 体操着の柔軟剤の香りがふわりと漂ってきて、血の臭いと混ざって頭がぼんやりしてくる。


「……っ、自分でやるから」


 俺は半ば強引に氷のうを奪い取ると、目元を覆うように押し当てる。


 そうしてソファの背もたれに体を深く沈めると、白雪も隣に深く座り直した。

 体育館に戻らないのかとも思ったが、先生が戻ってくるまで付き添ってくれるつもりだろう。


 授業を抜けてもらったことに申し訳なさを覚えていると、白雪が遠慮がちに訊ねてくる。


「何があったの?」


 俺のことを気遣うような声音。

 痛む頬に顔を顰めつつ、俺はこともなげに答える。


「さっき言ってただろ? 転けたんだよ。かなり盛大に」


「うそ。……飯田くんに殴られてたでしょ」


「……なんで知ってるんだ?」


 まさかバレているとは思わなかった。

 先生でさえ気付いていなかったのに。


 俺が驚いて隣を見ると、白雪はふいと顔を逸らす。


「それは……、見てたから。神原くんのこと」


「……そ、そうか」


 き、気まずい。

 何より俺も同じことをしていただけに、羞恥心もあった。


「っ、ととっ」


「だ、大丈夫?!」


 止まり始めていた鼻血がまた垂れだして、慌てて白雪が渡してきたティッシュで押さえる。

 代わりにまた氷のうを持ってもらう形になって、さっきと同じ体勢になってしまった。


 俺は極力正面を視界に入れないよう努めながら、先ほどの話を続ける。


「見てたのに黙ってくれたんだな」


「それは……神原くんが何も言わなかったから、私も言わない方がいいのかなって。でも暴力はいけないことだし、あとで先生に相談した方がいいと思う。必要だったら私が証人になるからっ」


「いいよ、それは。俺が無神経なことを言ったのが悪いんだ。どっちもどっちだよ」


「そうなの……?」


 白雪は意外そうにする。


「神原くんが誰かにそういうことを言うとは思えないけど」


「俺が? どうして」


「だって神原くん、優しいもん。いつも周りの人のこと気遣ってる。だからイメージと違うなって」


 にへらと微笑みながら白雪は言う。


 ……彼女の俺に対する好意を知ってから、俺は「なぜ?」という疑問を拭えないでいた。

 なぜ俺のことが好きなんだろう、と。


 その疑問を解く鍵を、今知った気がする。


 イメージ、か。


 白雪と関わり始めてから、俺も彼女に対して抱いていたイメージのいくつかが変わっていった。

 不器用なところとか、ちょっと強情なところとか。


 白雪も、俺に対して間違ったイメージを持っているから、好意を向けているだけなんだろうな。


 思わず自嘲の笑みを刻みながら、ぽつりと呟く。


「俺は優しくなんてないよ。むしろ逆だ。俺の中学時代を知ったら白雪もびっくりするんじゃないかな」


「中学時代……?」


 白雪はきょとんとした表情を浮かべて、澄んだ瞳で見つめてくる。

 その瞳はなんというか、無垢な光を灯している。


 俺は一瞬、躊躇した。

 昔の自分を語ることを。


 それでも、この誤解は解いておいた方がいいような気がした。


 こくりと頷き返し、俺は口を開いた。




 ◆ ◆ ◆




 中学時代の俺は、不眠症と正しい付き合い方ができないでいた。

 今の俺が不眠症と付き合いながら治していくというスタンスなら、あの頃の俺はその真逆。

 不眠症を屈服させ、排除しようとしていた。


 今と当時でスタンスの違いはあれど、結果は同じで、どういう向き合い方をしても不眠症は治らなかったわけだが。


 ともかく、人間あまり眠れないとよくわからないことで苛々してしまう。

 その苛々を自分や物、他人にぶつけずにいられるほど真人間ではなかった。


 ある日の学校で、友だちが言った何気ない言葉に苛ついた俺は、とんでもない暴言を返した。

 あのときのクラス中が珍獣を見るような、あるいは距離を取るような感覚は今でも鮮明に覚えている。


 その一件以来、俺は徐々に孤立していった。

 そしてその孤独感がさらに苛々を募らせていく。


 ――俺は、そんな自分がずっと大嫌いだった。


 だから、俺は人と関わることをやめた。

 他人に苛々をぶつけてしまうのなら、そもそも他人と関わらなければいいのだと思ったから。


 それは、ある程度不眠症と付き合えるようになった高校時代にも引き継がれ。

 俺は教室で他人と深く関わらず、他者を巻き込まないように机に突っ伏して過ごすようになった。


「俺が花屋でバイトを始めた理由も、まあ色々とあったんだけど。花はさ、どれだけ苛々しても潰そうとか怖そうとかならないだろ? だから優しい気持ちになれる気がして、それで始めたんだ」


 もちろん、他にも理由はある。

 週に三日だけでいいとか、学校の生徒が寄りつくような場所じゃないとか、店主夫婦が優しいだとか。


 でも最たる理由はそれ。


 俺は一通り話を終えて、白雪の方を窺う。

 彼女はきょとんとした、ある種の無表情を浮かべていた。

 何を考えているのかはわからない。


 だがやっぱり、俺に失望しているはずだ。

 優しいと思っていた人間にこんな過去があったら誰だって避ける。

 あのときのクラスメートたちみたいに。


「……ぇ」


 白雪が掠れた声を零す。

 そうして、僅かに首を傾げた。

 たらりと黒髪が垂れるのを目で追う。


 そうして、白雪は呟いた。


「……え、それだけ?」


「へ?」


「今の話を聞いても、神原くんが優しい人ってことしかわからないんだけど」


「いやいや、どうしてそんな感想になるんだよ。俺はクラスメートに暴言を――」


「もちろんそれはよくないことだけど……でも、優しくない人はそれが理由で人から距離を取ろうとか、思わないと思うんだけど」


「いやそれはなんていうか屁理屈のような……?」


 巷でよく言われる、不良がたまに見せる優しさが過剰評価される、みたいな感じだと思うが。


 俺は納得できなくて微妙な表情をしていたんだろう。

 白雪は小さくため息を零すと、そっとソファから立ち上がり、俺の前にかがみ込む。

 そうして氷のうを押し当てたまま、上目遣いで囁くように言う。


「ね、前に神原くん私に訊いたよね? 『いつ俺のことを好きになったんだ』――って」


「ああ」


 あれは確か白雪の好意を知った夜のことだったな。


 白雪は薄く口角を上げると、どこか挑発的に告げた。


「私が神原くんをどうして好きになったのか、教えてあげる」


 熱っぽい白雪の視線が俺の瞳を真正面から射貫く。

 額の上で、氷のうの氷が溶けて崩れた。

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