第9話 損する性格

 右腕を中心に、じんわりとした温もりが伝わってくる。

 こちらに顔を押し当てる形で寝ているからか、白雪さんの呼吸に応じてくすぐったい感覚がする。


 辛うじて見える横顔は気持ちよさそうに緩みきっていた。


「白雪さん」


 一度声をかけてみるが、反応はない。

 右腕をあげればたぶん起きるだろうけど、乱暴な起こし方はしたくない。


「白雪さん、起きて。白雪さーん」


 徐々に声のボリュームをあげていく。


「んんっ」


「――っ」


 そのときだった。

 白雪さんが僅かに身動ぎした。


 その際に発せられた声がなんだか聞いてはいけないと思うほどに扇情的で、俺は思わず息を呑む。


 体勢が変わる際、彼女の黒髪が重力に引かれて垂れ、白く細いうなじが露わになった。

 手を伸ばせば届く距離で無防備に眠る白雪さん。


 俺はぐっと手を強く握りしめてから、深く息を吐き出して――彼女に手を伸ばした。


「白雪さん、起きて」


 彼女の肩にそっと触れる。

 制服の上からでもびっくりするぐらいに細く、柔らかな感触が伝わってくる。


 理性を総動員して耐えながら、俺はゆさゆさと肩を揺らしつつ、また声をかける。


「白雪さん、起きてくれ。頼む」


 それは最早祈りだった。

 時刻は22時。夜だ。

 ただでさえ遅い時間なのに、このまま起きなかったらどうなってしまうのか。


(……そういえば、朝、寝付けなかったとかどうとか言っていたような……)


 今更ながらに、朝の教室での会話を思い出す。

 彼女の友人、早乙女紗綾との会話でそんなことを口走っていた気がする。


 だとしたらこの事態はある種必然だった。

 俺は彼女の優しさに甘えて、自分の欲望を優先してしまっていたのだ。


(変わらないな、俺は)


 浅ましい自分に反吐が出るが、今はそんなことを考えている場合じゃない。

 なんとか白雪さんを起こさないと。


 程なくして。俺の祈りは通じたのか、また一度白雪さんが身動ぎする。

 今度は大きく顔の向きを左右入れ替えるようにして動くと、「んぅ……」という声と共に、彼女の目がゆっくりと開かれた。


「っ、おはよう、白雪さん」


 パッと肩から手を離して、俺はぎこちない笑みと共に声をかける。

 白雪さんはどこか焦点の合わない目で俺を見つめ、やがてその綺麗な瞳が見開かれていく。

 そして次の瞬間、


「~~~~~~っ?!?!?!」


 両手で顔を押さえてその場から跳び退った。


「はぇ? 私、なんで? えっ……?」


 一瞬で壁際まで下がった白雪さんは混乱している様子だった。

 俺はベッドで上体を起こしたまま、彼女が落ち着くのを待つ。


 やや待って、白雪さんは少し乱れた髪を手櫛しながらベッドの傍へと戻ってくる。

 薄暗いせいでわからないが、たぶん彼女の顔は真っ赤になっていることだろう。


「落ち着いたか?」


「……うん、ごめんね。約束は守るつもりだったんだよ? だけど、いつの間にか寝ちゃってたみたいで」


 彼女はちらりと時計を見ながら申し訳なさそうに言う。

 結果として約束を破ったことに罪悪感を抱いているんだろう。


 謝るべきなのは、むしろ俺の方なのに。


「わかってるよ。白雪さんは何も悪くない。……それよりも家の人に連絡しなくて大丈夫か?」


「――っ」


 俺の言葉に白雪さんは弾かれたようにポケットからスマホを取り出した。


「! お母さんからすごい連絡来てる……っ。ごめん、電話しても大丈夫?」


「当たり前だろ? 早く連絡した方がいい。きっと心配してる」


「うん!」


 慌ててスマホを耳に当てる白雪さん。

 すぐに着信音は途絶え、代わりにスマホの向こうから女性の声が聞こえてきた。


「あ、もしもし、お母さん? っ、うん、うん、ちょっと友だちと遊んでて……ごめん、ごめんって」


 白雪さんの様子から、彼女の母親が相当な心配をしていたことが伝わってくる。

 事前の連絡もなしに夜遅くなっても帰ってこなければ誰だって心配する。


(……俺のせいだ)


 謝り続ける白雪さんと、スマホ越しに聞こえてくる彼女の母親の声に罪悪感が募る。

 寝起きのすっきりとした気分は完全に吹き飛んでいた。




 五分後。

 白雪さんは深い息を吐き出しながらようやくスマホを耳から外した。


「お母さんはなんて?」


「いいから帰ってきなさいって。や~、久しぶりにやっちゃったなぁ」


 俺を心配させないためか、おどけた調子で話す白雪さん。

 だが、彼女のご両親のことを思うととても気分は晴れない。


「お母さんには友だちと遊んでたら夢中になっちゃったって言ったから。大丈夫、たまに連絡に気付かないことはあるんだ。さーちゃんと遊んでるときとか。あっ、さーちゃんって早乙女紗綾ちゃんで同じクラスの」


 明るく話す白雪さん。

 きっと、彼女は家に帰ったらご両親から絞られることだろう。

 なのに俺のことを気遣ってくれている。

 その優しさが、今はつらい。


「……いや」


「神原くん……?」


 立ち上がった俺を不思議そうに見上げてくる。


「やっぱりご両親には本当のことを話すべきだ。今回のことは全部俺が悪いんだし」


「そんなことないってっ。神原くんは色々と配慮してくれたのに、私が寝ちゃったせいで……。だから気にしなくていいよ」


「そういうわけにはいかない」


 俺のために家まで来てくれて、寝不足なのに頭を撫でてくれて。

 そこまでしてくれた彼女にすべてを押しつけるなんて間違ってる。


「ご両親が迷惑でなければ、俺が直接事情を説明するよ。それから謝罪させてくれ」


 どのみち、時間が時間なんだ。家までは送り届けるつもりだった。

 そのときに少しだけでも話せればいい。


 白雪さんは困った風に俺を見つめると、にっこりと微笑んだ。


「神原くんって、損する性格してるよね」


「白雪さんに言われたくないんだけど」


 俺のことを黙って、全部自分のせいにしようとしていたのはどこの誰なのか。


 流石に優しすぎて呆れてしまう。


「わかった。お母さんに連絡してみるね」


「頼む」


 そう言って、白雪さんはまたスマホを操作し始める。


「ほんとう、神原くんって神原くんだよね」


「うん?」


「ううん、こっちの話」


 よくわからないことを口走りながら、白雪さんはどこか嬉しそうに笑っていた。

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