第4話 短針が3を指す頃
職員室に教室の鍵を返してから、俺は校舎を後にしていた。
真弓高校は少し小高い丘の上に建っており、学校の北側は比較的なだらかで、閑静な住宅街が広がっている。
反対に南側はなかなかの傾斜になっていて、斜面を無理矢理整地したような場所にグラウンドやテニスコートなんかがある。
俺が正門を出て南に続く道を進むと、ちょうどランニングから帰ってきた野球部の集団とすれ違った。
この辺りの坂道はうってつけのトレーニング場なんだろう。
丘を降りた先には小さな川が横切っていて、その川沿いを国道が走っている。
バイトのある日なら奥の商店街に向かうが、今日はフリー。俺は商店街とは真逆の方向へ足を向けた。
高校に入るタイミングで、俺は一人暮らしを始めた。
知り合いのいない遠い高校を探した結果、家から通うのも大変だろうということで父さんに許可してもらったのだ。
途中、スーパーで食材を買い込んだりしていると、家に着く頃にはすでに空は赤みがかっていた。
高校在学中の仮住まいはオートロック付きの五階建てマンション。
安いところでいいと言ったのに、父さんは譲ってくれなかった。
子どもの一人暮らしは危ないから、と押し切られたが、本音が別にあることはなんとなく察していた。
エレベーターを四階で降りて、廊下を進む。
突き当たりの角部屋が俺の部屋だった。
間取りは2DK。一人暮らしには十分すぎる。
というか、完全に持て余していた。
一応手前の部屋にはダイニングテーブルやソファ、テレビなんかが置いてあるが、あまり使っていない。
スーパーで買ったものを冷蔵庫に仕舞い、手洗いをしてから着替え、学校の課題に取りかかる。
それが終わるタイミングで風呂を沸かし、お湯が溜まるまでの間は軽い筋トレをして体を少しでも疲れさせる。
風呂を出た後は夕食の準備。
今日は簡単にきのことエビのペペロンチーノ。
栄養も考えてサラダもつけてある。
食後は皿を洗い、歯を磨いてから奥の部屋に入る。
奥の部屋は完全な寝室にしていた。
ベッドと小さなサイドテーブル、後は教科書などが詰め込まれた本棚があるだけ。
睡眠に集中するために余計なものは置かないようにしている。
ちなみにスマートフォンもこの部屋には持ち込んでいない。
ベッドの上で軽いストレッチをして、ヘッドボードの上に置いてあるアロマストーンに精油を垂らす。
いい香りがふわりと漂ってきた。
そうして一通りの準備を終えて、俺は電気を消してベッドに横になる。
以前は本を持ち込んでいたが、寝るのを諦めて読み耽ってしまうのでそれもやめた。
時刻は21時を回ったところ。
高校生にしては少し早い時間だと思うが、バイトのない日は大体この時間にベッドに入っている。
体から力を抜いて、目を瞑る。
静かな時間が流れる。
この時間、頭が記憶を整理するためなのか、その日の出来事が鮮明に蘇ってくる。
普段はなんの変哲もない学校生活、あるいはバイト先での些細な出来事が脳裏に浮かんでくるが、今日は違った。
「……はぁ」
思わずため息が零れる。
忘れようと思っていたことを思い出してしまったからだ。
『――だったら、また撫でてあげようか?』
職員室に鍵を返しに行く前に、教室前の廊下で突然白雪さんに告げられた言葉だった。
俺が呆然としていると、彼女はどこか慌てた様子でしどろもどろに続けた。
『その、変な意味はないよ? 私、このクラスの保健委員でしょ? だからその、不眠症のクラスメートを介抱するのも、保健委員のお仕事だから』
なるほど、とはならなかった。
誰が聞いても「そんなわけあるか!」と突っ込むような話である。
俺の当惑は続き、遂には白雪さんは泣き出しそうな顔で「ごめん、忘れてぇ!」と頭を下げてきた。
そうしてくるりと背を向けて走り出した彼女を俺は反射的に呼び止めて――、
『か、考えさせてくれ』
と、言ってしまったのだ。
「なんだよ、考えさせてくれって……」
顔を両手で押さえて身悶えする。
穴があったら入りたい……。
彼女の提案を一蹴しなかった時点で、まるで俺がクラスメートの女子に頭を撫でて欲しいと思っているみたいじゃないか。
俺が白雪さんなら絶対にどん引きだ。
いや待て、そもそもこの話を持ちかけてきたのは彼女なんだから、引かれる謂われはないよな?
……というか、なんで彼女はこんな提案を持ちかけて来たんだ?
俺のことを気遣ってくれているのはわかるが、今日初めて会話した相手にするような提案でもない。
まさか本気で保健委員の仕事の一環だと思っているのだろうか。
誰にでも優しい白雪さんならあり得る話だ。
「……ああだめだ、悪い流れに入った」
感覚でわかる。
今日も絶対眠れない。
あれだけ疲れていたのに、頭と意識が疲労を忘れている。
そうして朝になったかと思えば、また思い出すのだ。
深く息を吐き、もう一度頭をリセットするように努める。
なんとか眠ろうと、色々なことを考えてしまう頭の中をシャットアウトする。
そう意識すればするほど冴えていき、眠気が微塵も訪れない。
その堂々巡りの中でどんどん時間は過ぎていく。
「……もしかしたら眠れるかもって思ったんだけどな」
今日の昼休み。久しぶりに深い眠りにつくことができた。
気持ちのいい目覚めなんて、もう久しく味わっていなかった。
不眠症が治ったかもしれないという期待も、少なからず抱いていた。
だけど、結果はこの通り。
だとしたら、やっぱり俺が眠れたのは彼女の――白雪さんのお陰なのだろうか。
彼女が頭を撫でてくれたから俺は眠ることができたのか?
「もしそうなら、いよいよ本当に笑えないが……」
自嘲の笑みを浮かべてしまう。
それでも、俺にとって深い睡眠は喉から手が出るほど求めているもので。
そのためなら、多少の羞恥は甘んじて受け入れられるという思いもあった。
『――だったら、また撫でてあげようか?』
彼女の言葉がまたリフレインする。
俺が彼女の提案を拒めなかったのは、心のどこかで求めていたのかもしれない。
ちらりと、壁がけの時計を見る。
短針は3の数字を指していた。
「……頼んでみるか」
悩みに悩み抜いた末の結論を口にする。
だけど、もしかしたら俺は最初から悩んでいなかったのかもしれなかった。
◆ ◆ ◆
一方その頃。
「うぁあああああ~~!! 私は!! 私はなんてことをぉおおっっ!!!! 嫌われた! 絶対変な女だって思われたぁぁっっ!!」
白雪姫乃は枕に顔を埋めて悶えていた。
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