02:《魔の森》に棲む不思議な魔物

 ようやくヴィオラから解放されたときには陽が沈みかかっていた。


 部屋に残っていた全ての私物を詰めてもまだ余裕のあるトランクケースを引いて、リナリアはチェルミット男爵邸を出た。


 去り際、パンジーにはもう二度とこの屋敷に近づくなと罵声を浴びせられた。


 釘を刺されるまでもない。

 一年近くにも及ぶ『地獄のような淑女教育と歌のレッスン』と『ヴィオラとパンジーの奴隷役』を止められて、実のところ、リナリアは清々していたのだ。


(これで見納めね)

 固く門が閉じられた男爵邸を眺めた後、リナリアは一礼してから歩き出した。

 男爵邸のある町の宿ではなく、男爵邸の裏手に広がる《魔の森》に向かって。


 もうすぐ完全に陽が落ちる。

 その名の通り魔物の住処である《魔の森》に入ることは昼でも危険が伴う。


 明かりも持たず、夜に森に入るなど正気の沙汰ではない。

 しかし、約一年間、毎日のように森に通い続けていたリナリアは知っている。


 森の浅いところなら大した魔物は出てこない。

 せいぜい地を這うスライムか、動きの遅い小型の魔物くらいなもの。


 ひょっとしたらいままでが幸運なだけだったのかもしれないが――多少の危険を冒してでも、リナリアにはこの地を去る前に《魔の森》でやりたいことがあった。


(よし。行くぞ!)

 薄暗い森の小道を、リナリアはゴトゴト、トランクケースのキャスターの音を立てて進み始めた。


 背の高い木々の葉が風に擦れてささやかな音楽を奏でている。


 見上げれば、自然の天蓋の向こうにオレンジ色の空。


(夕方に森に入るのは初めてね。あの子は起きているかしら。起きていたとしても、私に会いに来てくれるかしら。一週間も会えなかったから、存在を忘れ去られているかも……)


 不安に駆られ、きゅっと唇を引き結ぶ。


 五分ほど歩くと、開けた場所に出た。

 大きな岩が中央にどんと鎮座した場所だ。


 この岩のせいで木々は根を張ることができず、ここだけぽっかりと開いたようになっている。


「…………」

 リナリアはトランクケースから手を離して大きく息を吸った。

 リナリアが歌の自主練習のためにこの森を訪れるのは決まって夜――それも日付が変わった深夜だった。


 こんなに早い時間にあの子が気づき、さらにわざわざここまで来てくれるかどうかは賭けだ。


(私がこの森に来るのは、これで最後なの。どうか私の声に気づいて、アルル)


 どうしても、リナリアはアルルに――この一年間、影ながらずっと励ましてくれた唯一の存在に会いたいのだ。


 リナリアは伸びやかな声で歌い始めた。

 アルルに届くように、大きな声で。


 パン・パン!

 素早く二度手を叩く幻聴がする。


 歌の指導をしてくれたカウセル夫人は厳しかった。


 若い頃は王都の大劇場で歌劇の主役を務めていたというカウセル夫人は、リナリアが少しでも音程を外すと顔をしかめ、手を叩いて歌を中断させた。


 ――音がずれてるわ、もう一度。

 もっと高く、声を伸ばして! もっと大きな声で! 情感を込めて!

 パン・パン! もう一度!


 正確なリズムで、正確な音程で、譜面通りに正しく歌うこと強いるあの耳障りな音はもうない。


 リナリアは自由だ。

 少しくらい音程を外しても文句を言う人間は誰もいない。


 だから、リナリアは森中に響くことを願って、自分が出せる最大の声量で歌った。


(お願いアルル。ここへ来て。私に会いに来て。あなたがいてくれたから、私は今日まで耐え抜くことができたのよ。私はあなたにお礼を言いたいの。お願い。この歌声が聞こえたのなら、いますぐにここに来て!)


 祈りを歌とし、全力で放つ。

 リナリアの歌が終わっても、森はしんと静まり返っていた。


 森に落ちる影は歌う前よりも濃くなっている。


 一刻も早く森から出たほうが良いのはわかっていたが、リナリアは深く息を吸い、もう一度同じ曲を歌い始めた。


 この曲は初めてアルルと出会ったときに歌った記念すべき一曲。

 アルルの反応からして、アルルが一番気に入っていた曲だと確信している。


 曲がクライマックスに差し掛かる直前に、大きな岩の影から何かが飛び出してきた。


 雪のように真っ白な体毛のウサギだった。


 正しくは、ウサギに似た魔物である。

 通常のウサギと違い、その魔物は長い耳の部分が翼のようになっていて、飛ぶこともできた。


 魔物の右の耳の根元には金色のリングが嵌まっていて、リングには赤く丸い石がついている。


 彼こそが――性別は不明なため、ひょっとしたら彼女かもしれないが――リナリアが『アルル』と名付けたウサギ型の魔物。


 一般的に魔物は凶暴で、人や動物を襲う習性があるが、アルルは違った。


 アルルは夜毎リナリアの歌を聞きに来て、リナリアが歌い終わると決まって一輪の花を贈ってくれた。


 信じがたいことに、アルルは敵意の欠片もない、非常に友好的な魔物なのである。

 この日もアルルは口に一輪の花を咥えていた。


 茂みから出てきた身体のあちこちに葉っぱや草がついているのは、リナリアの歌声を聞き、急いで駆けつけてきた証拠だ。


「!!」

 リナリアはアルルの登場に歓喜して歌を止めようと思った。

 しかし、茂みの前で二本足で立ち、傾聴の姿勢を取っているアルルの姿を見て、そのまま最後まで歌いきることにした。


 やがて歌が終わると、アルルが駆け寄ってきた。

 つぶらな蒼い瞳でリナリアを見上げ、口に咥えていた花を両手で――正確には両前足で――持ち、どうぞ、というように背伸びして差し出してくる。


(かーわーいーいー!!)


 一週間ぶりに見るアルルの姿は相変わらず悶えたくなるほどに可愛かった。

 人間に花を贈る魔物など、世界中を探してもアルルしかいないのではないだろうか。

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