05:馬車の中のトラブル

 蒼穹の下、一台の辻馬車がフルーベル王国の物流の大動脈と言える大街道を走っていた。


 この辻馬車は交易都市から王都ソルシエナまでを繋ぐ最も安価な交通手段だ。


 安価なだけあって作りは貧弱。

 魔物や野盗の類から乗客を守るための魔道具――魔力や魔石を動力源とする道具――も護衛もついていない。


 有事の際には乗り合った乗客総勢六人(+リナリアの鞄に隠れた魔物アルル一匹)と年老いた御者だけで対処しなければならないわけだが、リナリアは戦力面に関しては全く心配していなかった。


 男爵邸を出て一週間が経つが、アルルは何度もリナリアを守ってくれた。


 野宿の最中に襲ってきた魔物はアルルビームで焼き払い、街中でしつこく絡んできた男たちには軽い電撃魔法を食らわせて痺れさせ、リナリアが逃げる隙を作ってくれた。


 その度にリナリアはアルルを褒め称え、抱きしめて頭を撫でた。

 アルルが得意げに鼻を鳴らすのを既に五回は聞いている。


(本当に、アルルがいなかったらどうなっていたかしら……)

 アルルの入った鞄を大事に抱えつつ、リナリアは座る位置を変えた。


 最低限の設備しかない辻馬車の座席のクッションは硬く、長時間揺られていると尻が痛くなる。

 リナリアはさっきから何度も座り直し、痛みを軽減しようと苦心していた。


 開け放たれた馬車の窓からは田畑と山稜が見える。

 この速度で進めば、王都まではあと一時間といったところか。


 王都で一泊して、それからまた辻馬車に乗り、二時間ほど走ればようやく目的地であるミストロークの街――バークレイン公爵が治める街に着く。


 ミストロークは大きな街だ。


 エルザが口利きしてくれれば働き口は簡単に見つかるだろう。

 仮にエルザに門前払いされたとしても、働き口はあるはずだ。多分。


「ねえお母さん、まだ王都に着かないの? おしり痛いよー、降りたいよー」

 三つ並んだ席の最も右端に座る男の子が母親の服の袖を引っ張った。

 子どもの服には何度も修繕した跡があり、母親が纏う地味なワンピースは色褪せている。


 親子が貧しいのは一目瞭然だった。

 もっとも、乗り合った乗客の中で上等な服を纏っている者など一人もいない。


 リナリアの対面に座る体格の良い中年男性からは異臭がするし――誰も口には出さなかったが、窓が全開なのは男の体臭を外に逃がすためだ――男の隣に座る老婆は疲れ切った様子で俯いている。


 リナリアの対角線上に座る女性は目深にフードを被り、一言も喋らない。


「我慢してちょうだい。お尻が痛いのはみんな一緒よ」

「もうやだ、やだやだ、降りる!! おーろーしーてー!!」

「うるせえぞガキ!!」

 長時間馬車に揺られ、ただでさえ苛々していたところに子どもの甲高い声が止めを刺す形になったらしく、中年男性が子どもを怒鳴りつけた。


 大柄な男性に怒鳴られた子どもがびくっと身体を震わせ、母親の腕に縋りつく。

 みるみるうちにその目に涙が溜まり、子どもは大声で泣きだした。


「だからうるせえって言ってんだろうが!! おい、お前!! 母親なら黙らせろよ!!」

「申し訳ありませんっ。ダニー、良い子だから泣き止んでちょうだい。ほら、お菓子をあげるから――」

 母親が急いで手荷物から焼き菓子を取り出したが、男の子は焼き菓子を掴んで放り投げた。

 宙を舞った焼き菓子は馬車の壁にぶつかり、座席に落ちて砕ける。


「ちょっとあんた、止めなさいよ。幼い子どもを怒鳴りつけるなんて大人げない」

 老婆が中年男性の腕を引いたが、中年男性は煩わしそうにその腕を振り払った。


「うるせえ、そのガキの口を閉じられねえなら降りろ!! 耳障りだ!! 自分で降りねえなら窓から放り投げてやろうか、ああ!?」

 中年男性はあろうことか、男の子の後ろ襟を掴んで引っ張った。

 男の子の顔が恐怖で歪み、「おかあさーん!!」と泣き叫ぶ。


「止めてください!!」

 堪らずリナリアは鞄を置いて立ち上がり、中年男性の手を掴んで男の子から引き剥がした。

 男の子が母親に抱きつき、母親は男の子を庇うように身体を丸める。


「何だ、文句があんのかテメエ」

 中年男性は凶悪な形相でリナリアを睨みつけ、硬く拳を握りしめた。

 一瞬、怯みそうになったが、リナリアは負けじと踏ん張った。


「幼い子どもに暴力を振るうのは何よりも恥ずべき最低の行為です。子どもが声を出すのは普通のことではありませんか。あなたは大人でしょう、どうしてもっと寛容になれないんですか。さっきから散々うるさいと怒鳴り散らしていましたが、最もうるさいのはあなたです。あの子がいま誰のせいで泣いていると思っているんですか。あの子の泣き声に耐えられないというなら、あなたが降りてください!」

 言い切った直後、拍手が起きた。

 驚いて振り返れば、フードを目深に被った女性と老婆が拍手している。


「そうだそうだ! お嬢ちゃんの言う通りだ! よく言った!!」

 老婆はうんうん頷いている。


「満場一致で降りるべきが誰かは決定したな」

 凛とした声で女性が言う。


「確かこの辻馬車にはルールがあったな、トラブルを起こした乗客は降りてもらうと。ではルールに則り、即刻降りて頂くとしよう」

「待て、おい、待ってくれ!!」

 フードを目深に被った女性が上体を捻り、御者台に続く窓を開けようとしたため、中年男性は慌てて声を上げた。


 ここで下ろされ、王都まで歩く羽目になるのはさすがに嫌らしい。


「わかった、オレが悪かったよ」

「『悪かった』というのは謝罪の言葉ではないと思うのは私だけかな?」

 女性は首を傾げた。

 リナリアも、老婆も、親子も、全員が無言で中年男性を見つめた。


「……すまなかった」

 中年男性はついに観念したらしく、不貞腐れたような調子で言って頭を下げた。

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