37:眠れない夜に
宴を切り上げて現場に駆け付けたテオドシウスの判断により、《光の樹》の周囲には警備兵が配置されることになった。
犯人捜しは騎士団に任せて休むよう言われたリナリアはイスカやイザークと一緒に《百花の宮》へ向かった。
《百花の宮》は王宮の外れにぽつんと設けられた宮殿である。
すぐ傍に薬草園、つまりたくさんの花があるから百花の宮と名付けられたらしい。
宮殿と言えば聞こえはいいが、実のところ、《百花の宮》はボロ屋敷。これだけでもセレンがどういう扱いを受けていたのかがわかるというものだ。年季の入った小屋をちょっと大きくした程度のこの屋敷に比べれば、チェルミット男爵邸のほうが遥かに立派だった。
侍女に足の手当をしてもらい、入浴して寝間着に着替えた後は安眠効果のあるハーブティーを出してもらったが、真夜中を過ぎても全く効く気配がない。
睡眠を諦めて居間に向かうとイスカがいた。
居間にいるのは彼一人だけだった。時刻は深夜。侍女たちは休んでいるのだろう。
「やっぱり眠れなかったか」
分厚い魔導書を広げ、オレンジ色の炎が灯る燭台の前に座っていたイスカは本を閉じて苦笑した。
形の良い唇から発せられたその声はイスカ自身のもの。
外された《変声器》はテーブルの上に置いてある。
一目ではそうとわからぬよう加工された《変声器》は涙滴型の青い宝石がついた首飾りにしか見えない。
「はい……もしかして、私のために起きていてくださったのですか?」
「ああ。こっちに来い」
勧められるまま隣に座ると、イスカはリナリアを抱き寄せた。
予期せぬ行動に心音が高まり、頬が熱を帯びていく。
「怖かったな」
耳元で囁かれたイスカの声は優しく、労りに満ちていた。
乾いた大地に降る雨のように、その声はリナリアの心の奥深くまで届き、じんわりと染み渡っていった。
「……はい。怖かったです」
彼の温かい胸に顔を押しつけ、涙声で言う。
これまでは涙の一滴も出なかった。
イスカに抱きしめられたことでようやく心身を縛りつけていた緊張の糸が切れ、素直な感情を吐き出せるようになったらしい。
さほど感じなかった足の裏の痛みが急に強くなった気がする。
「肝心なときに傍に居なくて悪かった。たとえ国王の不興を買ってでも、お前の傍にいるべきだった」
抱擁を解き、イスカはリナリアの頬を流れる涙を指先で拭った。彼の綺麗な顔は深い後悔に歪んでいる。
「ご自身を責めないでください。イスカ様は間違っていません。お酒に酔われて上機嫌になられた国王様のお相手を務めるのも王子としての立派な仕事です。国王様よりも私の傍に居たいなどと言ってしまっては、それこそ大問題になってしまいます。エルザ様という恋人がいながら聖女に手を出そうとするとんでもない浮気男だと、セレン様が皆に誤解されてしまいますよ。第一、悪いのは私を狙った犯人です」
「そうだな。誰の仕業だか知らねえが、イザークたちが見つけ次第殺そう。リナリアの命を狙ったんだ、八つ裂きにしてやる」
再びリナリアを抱きしめ、ぞっとするほどの本気が籠った声でイスカが言った。
イザークとアンバーはいま、協力して犯人を追っている。
犯行現場に残った魔力の残滓から犯人を特定するとか言っていたが、魔法使いではないリナリアには詳しいことはわからない。
でも、それがとても難しいことであることはイザークの表情でわかった。
アンバーが「魔力の残滓から犯人を割り出して捕まえましょう」と言ったとき、「簡単に言ってくれる……」とイザークは苦い顔をしたのだ。
「イスカ様。簡単に殺すなどと言わないでください」
彼の胸を手で突き放し、青い目をまっすぐに見上げてリナリアは嗜めた。
「それだけ強く私を想ってくれているのは嬉しいですし、光栄ですが、私はたとえ相手が極悪人であろうと、命を奪う行為は嫌です」
「……。じゃあ半殺しで」
「はい。幸い、アンバーのおかげで私はこうして無事なわけですから。殺さず、半殺しでいきましょう」
リナリアは頷いた。我ながら、だいぶ感覚が麻痺している。半殺しなどという物騒な言葉が自分の口から飛び出す日が来るとは思わなかった。
でも、リナリアだって聖人君子ではない。
殺されかけておきながら、相手を笑って許すなどとても無理だ。
お返しに全力のビンタくらいはしてやりたいと思ってしまう。イレーネが言った通り、やはり聖女には向いてないのかもしれない。
「わかった。……なあ、リナリア」
イスカは不意に真剣な面持ちになり、リナリアの両腕を掴んだ。
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