34:クロエという侍女
「あら、クロエ」
会話の最中、不意にデイジーが声を上げた。
彼女の視線を追って振り返れば、円柱の陰に見知らぬ侍女が立っている。
侍女は長い前髪で顔の左半分を隠していた。
表に晒された右目だけで、俯き加減にじっと、観察するようにこちらを見ている。
(いつの間にそこにいたのかしら)
陰々滅々たる雰囲気を纏った不気味な侍女に、リナリアはぞっとした。
まるで本物の幽霊であるかのように、彼女からは全く気配を感じなかった。
接近する足音も聞いた覚えがない。まさか最初からそこにいたとでもいうのだろうか。そういえば、自分の周囲を暗くする魔法があるとイザークに聞いた。暗闇に紛れて隠密行動をしたいときには重宝する魔法だと。
「デイジー様……夜も更けて参りました。お部屋にお戻りくださいませ」
円柱の陰から出た侍女クロエは抑揚のない声でそう言った。
回廊の明かりに照らされた彼女の髪と瞳はどちらも枯草色だった。
「そうね。あまり遅くなるとお父様からお叱りを受けてしまいそうだし、今日はこの辺にしましょう。付き合ってくれてありがとう、リナリア。またお話ししましょうね」
「はい。また」
リナリアは笑顔で頷き、クロエを連れて歩き出したデイジーの背中を見送った。
一度だけ、クロエがこちらを振り返った。
その拍子に風が吹いて、髪に隠された顔の半分が見えた。
火傷だろうか、彼女の顔には酷い傷跡があった。
傷跡に驚いて立ち尽くしていると、クロエは何の感情も見せずに再び前を向き、デイジーと共に視界から消えた。
(……びっくりしてしまったわ。失礼だったわよね)
次にクロエと会ったら謝ろうと思ったものの、謝るという行為自体が失礼だろうかと思い直す。どういう対応が正解なのだろうか。あえて顔の傷跡については触れず、知らないふりを貫き通すべきなのか。
「リナリア」
悩みながらも、セレンと入れ替わってイスカが暮らしている《百花の宮》へと向かおうとしたのだが、急に誰かに名前を呼ばれた。
「えっ――あ。ウィルフレッド様」
右手を見れば、回廊にウィルフレッドが立っている。
リナリアが近づくと、ウィルフレッドも近づいてきた。
会話に適切な距離で足を止め、真正面からウィルフレッドを見つめる。
彼の瞳はイスカと同じ青だが、色味はウィルフレッドのほうが淡い。
その目を伏せ、ウィルフレッドはためらいがちに切り出した。
「……デイジーには誠心誠意謝る。フォニス家には十分な慰謝料を払う」
「え。まさか――」
「ああ。僕は彼女との婚約を破棄する。どうか僕の妃になってくれ、リナリア」
ウィルフレッドは床に片膝をついてリナリアの左手を取った。
《光の花》が淡く輝くその手は昼間、イスカがキスを落とした手だ。
跪き、真摯に自分を見つめる一つ年下の美少年を見返して、ふと思う。
(もしも妃選考会で落とされなかったら。ウィルフレッド様の妻になる未来もあったのかしら)
男爵令嬢リナリア・チェルミットとして、今頃は王宮で妃教育を受けていたのだろうか。
しかし、現実はそうはならなかった。
公爵令嬢リナリア・バークレインが愛するのは彼ではない。
仮に時を戻せたとしても、リナリアはためらうことなく毒の入った紅茶を飲み、森で待つ魔物の元へ走るだろう。
「申し訳ありませんが、お断りします。私には愛する人がいますので」
「そうか。なら仕方ないね」
ウィルフレッドは手を離して立ち上がり、足を叩いて服に付着した汚れを落とした。
「申し訳ありません。なんと言われようとこれだけは譲れま……って、え? そんなに簡単に諦めて良いのですか?」
てっきり、しつこく食い下がられるとばかり思っていたので、拍子抜けだった。
(おかしいわね。宰相の娘と《光の樹》を蘇らせた聖女。どちらかと結婚するほうが王家にとって利があるかといえば、断然後者のはずだけど……いえもちろん、私としては諦めていただかなければ困るのだけれど。ついさっき応援するとデイジー様と約束したばかりだし)
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