33:夜の大事件

「ああ。母上や伯父上になんとしてでも《花冠の聖女》を口説き落とせと命じられてね。断固として拒否し続けていたら、とにかく一度でもいいから求婚しろと言われたんだ。結果はさておき、一度求婚したのだから約束は果たした。これで文句はないだろう」

「いえ、一度求婚したという事実よりも、断られたという結果が最も重要だと思うのですが……」

 呆気に取られていると、ウィルフレッドは小さく肩を竦めた。


「だって、仕方ないだろう? 母上たちは魔法で洗脳するとか薬物を投与するとか監禁するとか、好き勝手なことを言っているけれど――」


(そんなこと言ってるの!?)

 リナリアは震え上がった。やはり彼女たちは目的のためには手段を選ばない悪党だったのか。


「僕は愛する人がいると堂々と宣言した女性に強引な手段を用いたくはないよ。それに、僕には既にデイジーという素晴らしい婚約者がいるんだ。国中に触れを出し、大々的に妃選考会を開いておきながら、《花冠の聖女》が現れたからやっぱりなかったことにするというのは、参加してくれた大勢の歌姫に失礼だし、その頂点に輝いたデイジーにも失礼だろう? 彼女たちは僕の妃になるために一年も努力してくれたんだよ?」

「……はい。仰る通りだと思います」

「やはり君もそう思うよね。君がきっぱり断ってくれて良かった。ああ、そうだ。選考会といえば、君が体調不良で辞退してしまったのは本当に残念だったな。妃になる云々は置いといて、僕は純粋に、もっと君の歌が聴きたかった」

 ウィルフレッドはしゅんと項垂れた。


(どうやらウィルフレッド様は私が毒を飲まされたことを知らないようね)

 知っていたら、こんな風に明るく言えないだろう。

 もし知っていて言っているのだとしたら……少々神経を疑う。


「怖いことを仰っておられるロアンヌ様たちをウィルフレッド様が責任をもって諫めてくださるのなら、歌いますよ」

「本当に? わかったよ。母上たちが暴走しそうになったら僕が全力で止める。約束する」

 ウィルフレッドは嬉しそうに笑った。


「では歌いますが、いまここで歌うのはちょっと……夜ですし」

 食堂を出たとき、柱時計は午後十時過ぎを示していた。

 それからデイジーとしばらく話していたから、現在時刻は午後十一時前といったところか。こんな時間に歌うのは迷惑だろう。


「ならまた今度にしよう。次に君と会うまでに、歌ってほしい曲を考えておくよ。十曲くらい」

「十曲ですか……わかりました。喉の調子を整えておきま――」

 す、という言葉を発する直前に、リナリアは口を閉じた。


 何故だろう、胸がざわざわする。

 胃から不快感がこみ上げ、吐き気すら覚えた。


(何? 急に具合が悪く……)

 息苦しさを覚えて胸を押さえたとき、ウィルフレッドが「大変だ!」と声を上げ、リナリアの左手を掴んだ。


 見れば、まるで生命の危機を訴えるかのように、手の甲の《光の花》が消えたり輝いたりを繰り返している。


《光の花》といえば――


「「――《光の樹》!!」」

 ウィルフレッドとリナリアは同時に叫び、中庭に向かって駆け出した。


 晩餐会用に着替えたオレンジ色のドレスは重く、幾重にもなったスカートの生地が足にまとわりついて走りにくい。


 それに何より、問題はヒールのついた靴だ。


 エルザならあるいは走り切ったかもしれないが、こんなに高いヒールのついた靴で全力疾走できるほど、リナリアはヒールに慣れていなかった。


「――ああもう!!」

 リナリアは思うように足が進まない現実に苛立ち、その場で靴を脱ぎ捨てた。


 靴は放物線を描き、庭の灌木の向こうに消えた。


 聖女としての威厳も何もかも靴と共に放り投げてしまったような気がするが、緊急事態だ。仕方ない。


 ウィルフレッドはリナリアの行動に唖然とした後で、気に入ったように声を上げて笑い、リナリアの手を掴んだ。


 足の遅いリナリアを引っ張り、彼は風を切ってぐんぐん前へと進んでいく。


 彼のサポートのおかげで、程なく《光の樹》が見えてきた。

 木の根元で誰かが屈んでいる。


 体型からして男だ。左手に持っているのは剪定用のハサミか、ナイフか。

 辺りが暗いせいで武器の詳細はわからないが、一つ収穫はあった。犯人は左利き。


「何をしている!!」


 ウィルフレッドが叫ぶと、《光の樹》の芽を切ろうとしていた何者かは飛び上がり、走って逃げた。


「待て!!」

 ウィルフレッドは繋いでいた手を離し、犯人を追いかけた。

 ウィルフレッドの行き先を見ることなく、リナリアは急いで《光の樹》に駆け寄って安否を確かめた。


(良かった、木の芽は無事だわ。傷ついた形跡もない)

 安堵のあまり、リナリアはへなへなと地面に座り込んだ。


 もしも芽を摘まれていたら、今度こそ《光の樹》は人間を見限り、絶望の中で枯れ果ててしまったことだろう。


「ごめんね。怖かったね」

 リナリアは芽を撫でて謝った。

 お詫びの印に歌っていると、歌い終わる前にウィルフレッドが戻ってきた。


「すまない。見失った」

 その口調は心底悔しそうだった。


(ウィルフレッド様が犯人と共謀している線は消えたわね。共謀しているのだとしたら、私に手を貸す理由がない。一人だけ先に走って、間に合わなかったことにしてしまえば全てが終わっていた)


 ウィルフレッドは事件に関与していない、その事実にリナリアはほっとしていた。


 言葉を交わし始めたばかりだが、リナリアは王子だからと偉ぶることなく素直なウィルフレッドに親しみと好感を抱いている。できれば敵対したくはなかった。


「《光の樹》が怯えているので、私はここに残ります。ウィルフレッド様は国王様にご報告なさってください。犯人を逃してはなりません!」

「ああ、わかっているとも!」

 ウィルフレッドはリナリアの言葉が終わるよりも早く駆け出した。

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