30:《光の樹》の萌芽

 のどかな昼下がりだった。

 空は晴れ渡り、大気は暖かく、風は優しい。王都の住民たちは家族や恋人と穏やかな午後を過ごしていることだろう。


 しかし、王宮の中庭にいるリナリアたちの表情は晴れなかった。


 リナリアたちの前には巨大な――地面に根を張る卵のような、奇怪な瘤のような、なんとも形容しがたい、謎の茶色い塊がある。


「……これが本当に《光の樹》なのですか? 黄金に光り輝く美しい樹だと聞いたのですが……」

 国王との謁見を終え、緑色のドレスに着替えたエルザは眉間に皺を寄せてイスカに尋ねた。


「ああ。二百年前の王子の凶行により、根元からばっさり切り倒された《光の樹》の成れの果てだ」

《変声器》を外したイスカが答えた。


 ここにいるのはイスカとリナリア、エルザとイザークの四人だけ。


 リナリアが「集中したい」と訴えた結果、テオドシウスは一時間ほどこの区画を立ち入り禁止にしてくれた。


 魔法による監視や盗聴といった第三者の干渉が行われていないことはイザークが保証してくれたため、イスカは素の自分でいる。


「なんともまあ……この摩訶不思議な物体が《光の樹》だとは、言われなければわかりませんわね。いえ、言われたいまでさえ信じ難いですわ。わたくしの目には切り株というより潰れた卵のように見えます。中身は一体どうなっているのかしら? 無事なのか、それとも腐り果てているのか……空洞だったりするのかしら」

 エルザは首を捻っている。


「さあな。この二百年の間、詳しく調査した者はいないらしい。代々の国王は女神の怒りを招くことを畏れ、近づくことさえ許さなかったらしいぞ」

 博識のイザークはそう言ってリナリアを見た。ずばり核心を突いてくる。


「で。どうにかできそうなのか?」

 自然と全員の視線がリナリアに集中する。

 緑から茶色のドレスへと着替えたリナリアは中庭に来てからというもの、ずっと黙り込んでいた。


「……厳しそうですが、可能性はゼロではないと思います。聖女としての力に目覚めてから、なんとなくですが、わかるようになったんです。相手が――植物が生きているかどうか。私の呼び掛けに応えてくれそうかどうか」


 目の前に鎮座する奇怪な茶色の塊を見つめて言う。


「こんなことを言うと頭がおかしいと思われそうですが、人間に個性があるように、植物にもいろんな子がいます。なかなか心を開いてくれない頑固な子もいれば、逆に、すぐに私の呼びかけに応えてくれる優しい子もいます。謁見の間で騎士が抱えていた鉢植えのフルーベル薔薇は少々気難しい子でした。元々、プライドが高い子だったのでしょうね。さらにその上、誰かに酷い扱いをされたらしく、人間が嫌いだったみたいです。あの子のささくれ立った心を宥め、完全に心を開いてもらうまでは時間がかかりました」


「ああ。確かに歌い始めてしばらくは何も起きなかったな」

 納得したようなイスカの呟きを聞きながら、リナリアは茶色の塊に歩み寄った。


 右手を伸ばし、そっと表面に触れてみたが、《光の樹》はしんと静まり返っている。


(《光の樹》さん。こんにちは、初めまして。私はリナリアと言うの、よろしくね。二百年という長い時を経て、外見は多少変わってしまったようだけれど、あなたはいまもそこにいるのかしら?)

 声には出さず呼び掛けてみたが、応答はない。


 リナリアは両掌と額を《光の樹》に密着させながら目を閉じた。

《光の樹》の意識の在り処を探るべく、五感の全てを使って集中する。


 風が吹いてリナリアの長い髪が揺れた。

 それでも微動だにせず、リナリアは《光の樹》の意識を探し求めた。


(……この樹は生きている。まるで深海の底にいるかのように、その意識はとても……とても遠いところにいるけれど、確かに生命の鼓動を感じる。自己修復を図るべく、永い眠りについていたのね。全ての傷が癒えても目覚めようとしないのは、その気がないから?……そうか。あなたは人間が嫌いなのね……無理もないわ。人間に手酷く傷つけられ、裏切られたのだから)


 リナリアは身体を離した。

 両掌は樹に触れたまま、思いを込めて呼び掛ける。


「二百年前の王子があなたにしたことは謝るわ。あなたは人間を信じ、愛し、絶えず魔素マナという恵みを与え続けてきたのに、ある日突然切り倒されてしまったのだものね。本当に、彼は許されないことをした。あんなに辛く、悲しく、痛い思いをさせられたのだもの。あなたが人間を憎み、恨むのも当然だわ。この痛々しい姿は殻に閉じこもってしまったあなたの心そのものなのね」


 リナリアはそっと《光の樹》の表面を撫で、もう一度額を押し当てた。


「でも、お願い。どうか、もう一度だけ人間を信じてほしい。もうあなたを傷つけたり、酷いことをする人間はいないわ。この国に生きるみんながあなたの目覚めを待っている。お願い。わがままを言うことを許して。どうか私に愛する人を救う力を与えて。私にはどうしても、あなたの助けが必要なの――」


 繰り返し懇願した後、リナリアは身体を離して目を閉じ、全身全霊を込めて歌い始めた。


《光の樹》は対話を拒絶している。


 たとえ声が枯れるまで歌ったとしても、人間不信に陥ってしまった《光の樹》が応じてくれるかどうかは賭けだ。


(それでも、私にできることは歌うことだけ。《光の樹》が応えてくれるまで、歌い続けるだけ)


 それが唯一双子を救う手段だから、そうするしかない。

 それに、人間に傷つけられたこの樹をこのまま放っておけなかった。


《花冠の聖女》となってから、リナリアは対話を望んだ植物あいてが抱いている感情をまるで自分のことのように感じる力を身に着けた。


 この惨状が人間のせいだと言うのなら、リナリアは人間として《光の樹》を救う義務がある。


(声が潰れても良いわ。二度と歌えなくなっても、聖女でなくなっても構わない。私はあなたが再び大地に力強く根を張り、明るい光の下で豊かに枝葉を広げる姿が見たい。イスカ様とこれからも共に生きていきたい。自分の足で元気に駆けるセレン様の姿を見たい。イスカ様とセレン様が、この先生まれるかもしれない未来の王家の双子が。誰憚らず笑い合う姿を夢に見てしまったから、この夢だけは譲れない。諦めることなんてできないの――ああ、どうか、マナリス様。私の願いをお聞き届けください。《光の樹》よ、どうか私の声に応えてほしい)


 リナリアは歌った。太陽の下で笑い合う双子の王子の夢を見ながら、女神と《光の樹》に祈りながら、歌い続けた。


 どれくらい時間が経ったのだろう。

 どんな曲を何曲歌ったのかすらわからない。


 ――ぽんぽん、と。

 不意に肩を叩かれ、リナリアの意識は現実へと引き戻された。


 深い集中状態にあり、自分がいまどこで何をしていたのかすら忘れていたリナリアは夢から覚めたような心地で瞬きした。


「見ろ」

 リナリアの肩を叩いたイスカは嬉しそうに、ある一点を指さした。

 彼が指さした方向を見れば、茶色の塊の横から芽が出ている。

 神秘的な金色の光を放つそれは、紛うことなく《光の樹》の萌芽だった。


「――!!」

 リナリアは目を見開いた。

 叫びたいが、その声はあまりにも大きすぎて喉から出ようとしない。


「お前ほんとにすげえよ!! 本当におれたちの救いの女神だった!!」

 イスカは歓喜の表情でリナリアを抱きしめた。


「イ、イスカ様、苦しいですっ」

「あ。悪い」

 訴えると、イスカはようやく力を緩めてくれた。

 窒息死を免れたリナリアはほっとしつつ、両手を伸ばしてイスカを抱き返した。お返しとばかりに、力いっぱい。


「やった、やりましたよイスカ様!! もっと褒めてください!!」

「お前は最高の女だ! おれの目に狂いはなかった!」

「そうでしょうそうでしょう! やればできる子なんですよ私!!」

「ああ、お前は本当に凄い!! 世界一偉くて立派だ!! おれはもうお前に夢中だよ!!」

「どうですか、惚れ直しましたか!?」

「惚れ直した!!」

「やったー!! 頑張った甲斐がありました!!」

 心のままに叫び、笑い、じゃれ合う。

 大はしゃぎするリナリアたちを見て、エルザたちは笑っている。


 念願かなって《光の樹》が蘇ったのだ。

 いまばかりは大騒ぎしても、神様だって許してくれるだろう。

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