33:楽しいひと時

 懐かしいデイジーと会話したことで、男爵令嬢だった頃に心が戻ったリナリアはつい反射的に頭を下げそうになったが、脳裏に浮かんだエルザの睨み顔が動きを止めさせた。


《光の樹》の芽吹きを見届けた後、エルザは体調不良を理由にイザークの手を借りて公爵邸へと戻ってしまったが――もちろん体調不良というのは大嘘で、愛するセレンの世話を焼くためである――もしも彼女がこの場に居たらきっとこう言うだろう。「あなたは聖女で、わたくしの妹ですのよ? 自ら格を下げるような言動は慎みなさい!」


(そうだった、いまの私はバークレイン家の養女。私の行動はそのままバークレイン家の評価に繋がるわ。簡単に頭を下げてはいけない。堂々と振る舞わなければ!)

 リナリアは頭を下げる代わりに、にっこり笑った。


「妃選考会ではお世話になりました。デイジー様がウィルフレッド様のお妃様に選ばれて本当に嬉しいです」

「ありがとう。でも……その言葉は本心かしら?」

 不安そうな眼差しでデイジーがリナリアを見る。


「どういうことでしょうか?」

 本気でわからず、リナリアは目を瞬かせた。


「だって、誰かが毒などという卑劣な手段を使ってあなたを落とさなければ、妃として選ばれていたのはあなただったでしょう? 聞けば、ウィルフレッド様もあなたの歌声だけ褒められていたそうじゃない。それなのに、あんなことになって……私、本当に――自分のことのように悔しかったのよ」


 まるで自分が悲劇に見舞われたかのように、デイジーは悄然と俯いた。

 中庭から吹き込んできた夜風が蜂蜜色の髪を揺らす。


 憂いを帯びたデイジーの顔は作り物のように美しかった。

 エルザが華やかに咲く大輪の赤薔薇なら、デイジーは楚々として咲く白百合だ。

 彼女たちは互いに別種の美を極めている。


「あなたを差し置いて選ばれたことに、私はずっと負い目を感じていたわ。あなたが《花冠の聖女》として覚醒し、《光の樹》を芽吹かせたと聞いたとき、私は悟ったの。これはきっと天命なのだと。ウィルフレッド様の妃に相応しいのは私でも、他の誰でもなく、あなたなのよ、リナリア」


 デイジーは真剣な表情で言い、リナリアの両手を握った。


「えっ――」

(ちょっと待って。まさか――)


「国民の求心力を得たい王家のためにも、ウィルフレッド様ご本人のためにも、私はウィルフレッド様の婚約者の座を降りるわ。あなたに譲る!」


「待ってください! 譲られても困ります、私はそんなこと望んでいません!!」

 悲鳴じみた声を上げると、わかっている、とでもいうようにデイジーは頷いた。


「大丈夫。私はこの国の宰相アーカムの娘よ? たとえウィルフレッド様と結ばれなくても、私に結婚を申し込んでくれる素敵な殿方はたくさんいるの」


 デイジーは茶目っ気たっぷりに目を瞑ってみせた。


「だから、どうか私のことは気にせず、王子妃として幸せになってちょうだい。あなたの幸せが私の幸せなのよ。友達ってそういうものでしょう?」


 デイジーは優しく微笑み、ぎゅっとリナリアの手を握った。その手は温かかった。


(デイジー様はこんなにも私のことを想ってくださっていたのね……)


「……デイジー様」

 泣きそうになりながら、リナリアは繋いだ手を握り返した。感謝の気持ちを込めて。


「お気持ちはありがたくちょうだいします。ですが、私には想うお方がいるのです。たとえ国王陛下のご命令であろうと、ウィルフレッド様と結婚することはできません」

「えっ? ウィルフレッド様は次期国王となられるお方よ?」

 デイジーの困惑はもっともだ。王妃になること。それが女としての最高の栄誉であり幸せだと貴族の令嬢たちは教育されている。チェルミット男爵邸でもそう言われた。


(私も昔は絵本の中のお姫様に憧れたわ。いつか素敵な王子様と結ばれたいと思っていた)

 でも、いまは違う。

 イスカが王子だからではなく、イスカだから結婚したいのだ。


 リナリアは折を見て食堂を辞したが、イスカはまだ食堂で国王の相手をしていることだろう。セレンを演じながら敵の尻尾を掴まなければならない彼にとっては一分一秒が戦いだ。そんな彼を傍で支えたいと強く願っている。


「私は王妃の座に興味はないのです。心から愛する恋人と結婚します」

「……そう……わかったわ」

 デイジーは繋いでいた手を離し、きまり悪そうに苦笑した。


「私ったら、一人で突っ走ってしまって。恋人がいるというのに、王子妃になることがあなたの幸せだと決め付けたりして……ごめんなさい。余計なお世話だったわね」

「いえ、デイジー様のお気持ちは本当に嬉しかったです。どうかウィルフレッド様と末永くお幸せになってください。デイジー様の幸せは私の幸せですから」

 微笑むと、デイジーもまた微笑み返してきた。


「ありがとう。実はね、あなたの言葉を聞いてほっとしたの。私は父に王妃になれと言われてきたし、自分でもそう望んでいたから。物わかりの良いふりをしておきながら図々しいかもしれないけれど、王妃の座に興味がないのなら、私のことを応援してもらえるかしら?」

 窺うように、上目づかいでデイジーは尋ねてきた。


「もちろんです。心から応援します」

「ありがとう……後から『恋人と別れたのでやっぱりウィルフレッド様と結婚したいと思います。婚約破棄してください』なんて言わないでね?」

 冗談めかした口調でデイジーが言う。


「別れませんよ! 万が一別れたとしてもそんなこと言いませんから、ご安心ください!」

「ごめんなさいっ」

 デイジーは首を竦めた。もちろんこれはただの悪ふざけ、じゃれ合いだ。


「もう!」

 リナリアとデイジーは気安い友人のように笑い合い、その後しばらく会話に花を咲かせた。

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