20:救われたのは私のほう

「いや、あのな」

 イスカは呆れたように言って立ち上がり、リナリアのすぐ傍に腰を下ろした。


「まあ確かに、お前が《花冠の聖女》だったら助かっただろうけどさ」


 さらりと放たれたその言葉を聞いて、リナリアは俯いた。

 やはりイスカもリナリアが《花冠の聖女》であって欲しかったのだ。


「俯くな」

 イスカはリナリアの頬を両手で挟み、強制的に顔を上げさせた。

 二人きりの部屋の中、サファイアのような蒼い瞳が至近距離からリナリアを見つめる。


「たとえお前が《花冠の聖女》でなくても。おれはお前に出会えて救われたんだ。魔物に姿を変えられ、絶望しながら夜の森をさまよっていたとき、おれは美しい歌声を聞いた。なんとか感動を伝えたくて花を贈ったら、お前は嬉しそうに笑ってくれたな。おれはその笑顔に魅了されたんだ。でも、お前とは一晩限りの出会いになるだろう。森は魔物の巣窟だ。危険を冒してまでおれに会いに来るわけがない。そう思って翌日の夜は一人寂しく月を見上げていたんだが、お前は予想に反してまた森に来た。おれにアルルと名付け、毎晩のように歌ってくれた。それがどれほど心の支えになったか、お前は知らないだろう。いつしかお前の歌が、お前という存在そのものが、おれの生きる希望になっていたんだ」

「え……」

 リナリアは頬が熱くなるのを感じた。

 自分の心臓が脈打つ音が聞こえる。


(でも。私も同じだわ)


 チェルミット男爵邸では辛いことが多かった。泣きたくなったのも一度や二度では無い。


 地獄の日々に耐えられたのはアルルがいたから。

 歌が上手くなればアルルが喜んでくれると思ったから。


 いつしかリナリアは顔も知らない王子の妃になるためではなく、森で待つ一匹の魔物のためにレッスンに励むようになっていたのだ。


「わかったらもう泣くな」

 思いがけないほど優しい声で言って、イスカは指先でリナリアの頰を拭った。


「お前が泣くのは辛いし悲しい。お前の泣き顔を見てると堪らないんだ。どうしたらいいのかわからなくなる」

 イスカは両手を頬から離し、リナリアを抱き寄せた。


 触れた肌越しにイスカの温もりを感じ、頬の温度が急上昇していく。


「……おれが真っ当な本物の王子だったらお前に求婚できたのになあ」


 イスカはリナリアの髪を撫でながら、ぼやくように呟いた。


「!!!?」

 聞き捨てならない言葉を聞いて、リナリアは顔を跳ね上げた。

 もはや呑気に抱かれている場合ではなく、イスカの胸を両手で押して身体を離す。

 問い詰めなければならない。いますぐに。


「きゅ、求婚って、えっ?」

 裏返った声で尋ねる。


「いや、だから仮定の話だよ、仮定の。おれは公的には存在しねえ。家も財産も戸籍もない奴と結婚できるわけねえだろ? 残念だけど、めちゃくちゃ残念だし悔しいけど、お前のことは他の男に譲るよ。おれみたいに口が悪くなくて、ちゃんと教育を受けてて、たっぷり財産があって、どんな困難からも守ってくれるような――そんな良い男と結婚しろよ? 間違ってもお前を泣かせるようなロクデナシと結婚するなよ?」

 アルルがよくしていたように、ぽんぽん、とイスカはリナリアの肩を叩いた。


「ちょっと待ってください、譲るってなんですか! なんで譲っちゃうんですか、私は――」


 胸の中で何かが弾けた。

 皆に祝福されて結婚式場に立つ自分と、自分の傍に立つ見知らぬ男性を想像したが、どんなに良い男性だろうと駄目だった。無理だった。


(どんなに格好良くてもお金持ちでも紳士でも、イスカ様じゃなきゃ嫌だ――)


「――私もイスカ様と結婚したいです!!」


 リナリアは己の肩を叩くイスカの手首を掴んで叫んだ。


「…………は?」

 顔を真っ赤に染めているリナリアを見て、イスカは面喰ったように瞬きした。


「結婚って……え? 嘘だろ? お前、ウィルフレッドの妃になるために頑張ってたんだろ?」

「あれは養父に命じられて頑張っていただけです! ウィルフレッド様のことは好きでも嫌いでもありませんでした! 冷静に考えてみてください! 顔も知らず話したこともない相手に特別な感情を抱くことは無理でしょう!?」

「ま、まあそう……か?」

 勢いに押され、イスカは曖昧な返事をした。


「いやでも、おれは無一文だぞ? この服も靴も全部借り物だぞ?」


 どうやらイスカは赤い宝石のついた腕輪のことを忘れているらしい。売れば大金が手に入るはずだが、わざわざ指摘するつもりはなかった。


「大丈夫です! 私だってほぼ無一文なんですから、イスカ様が無一文でも問題ありません!」

「いや、問題しかねえよ。生活どうすんだよ。いきなり詰んでるじゃねえか――」


「戸籍がなくて結婚できなくても良いです! イスカ様のお傍に居られたら、ただそれだけでいいんです!!」


 手首から手のひらへと握る個所を変え、もう一方の手も使ってイスカの両手を掴み、必死で訴える。

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