第3章 - ③ 職員室のマリオネット
◆
学園祭準備で普段よりも校内がにぎわっているといえど、午後九時すぎともなると、ほとんど人がいない場所が現れる。教職員関連施設が集まる学園中央棟三階もそのひとつ。
この時間ともなると、教師の学園祭への関わり方は二種類にわかれる。
生徒と一緒になって学園祭を盛り上げたいと考える教師は、自分が担任や顧問を務めるクラスや部活へと出むいて、教え子たちと共に明日をより良い青春の一ページとするべく汗を流す。
一方、行事に関心の薄い教師は、宿直や見回りといった特別な業務を課された者をのぞき、通常業務が片づくと同時に帰宅する。
水無瀬美月はそんな人のめっきり減った中央棟三階廊下を歩いていた。
美月は、創作物の中でもとりわけホラーというジャンルに、偏愛と呼べるほどの熱意を注いでいるが、恐怖そのものに耐性があるわけではない。
むしろ人より怖がりなくらいだ。
恐怖という感情に敏感なゆえに、自分の弱点を直接揺さぶるような衝撃を与えられるホラー作品に関心を覚える。人間の根源的な部分に訴えかけ特殊な興奮をもたらすジャンルなど、この世にホラーとBL以外に存在しないというのが彼女の持論だ。
だが、実際に自分自身が男性となって美少年と背徳的な関係におちいりたいという願望がないのと同様、ホラー的なシチュエーションに現実で直面したいとも思わない。夜の学校とは女子中学生にとって、ただ不気味なものでしかないのだ。
まだ居残っている先生はいるだろうかと思いながら、職員室の前に立った。窓と扉の隙間からかすかに灯りは漏れているものの、人の気配は感じられない。
美月のクラスは、徹夜とはいかないまでも日付が変るくらいまでは練習を続ける予定だったが、葛葉が途中で席をはずしたきり戻ってこなかったため、急遽、全員帰宅して明日に備えることになった。
壱絆会長の身に大変なことがあったらしいという噂が学園中に流れている。見回り途中で倒れたらしいが、詳細を知るものはクラスにはいなかった。
葛葉が教室を飛びだしていってから、かなりの時間が経過しているというのに、彼女からの連絡が一切ないことが、美月をさらに不安にさせていた。
時に周囲がドン引きするレベルで会長への想いを言動や行動であらわし、一部で『ブラコン超特急』や『星辰学園のブラコン一番星』などの各種ブラコン系称号を総ナメする葛葉のことだ。劇の練習どころでないのはわかる。
ただ、やっぱり連絡ぐらいしてよね、とは思うのだ。――あなたがお兄さんのことを心配なように、わたしだってあなたが心配なんだから……。
葛葉にもっと頼られたい。会長にむける眼差しと同等、もしくはそれ以上の熱さでわたしを見てほしい。そう考えるのはいけないことなのだろうか……。ああ、わたしは疲れているに違いない。さっさと教室の鍵を返して、寮に帰ってゆっくり休息をとろう。
思案にくれながら職員室の扉を叩いた美月だったが、中からはなんの反応も返ってなかった。――誰もいないの? うーん、居残ってる先生を探して鍵を預かってもらうのも面倒だな。いっそのこと、このまま持って帰っちゃおうかな……。
美月は訝しげな表情を浮かべつつ、「失礼しまーす」と念押しの一声をかけてから扉に手をかけた。引き戸は抵抗なく開いた。
施錠されていないということは、やはりまだ居残りがいるはずだ。多分、トイレかなにかで席をはずしているだけ……。
職員室内をぐるりと見回す。中等部と高等部合同となっているため、かなり広い。大部分は消灯されていたが、奥のほうにまだ照明がついたままの一角があった。そこには教師がひとり、机に突っ伏している。
顔は見えないが、引き締まった体を教師らしからぬ洒落たスーツで包んだその男性には見覚えがある。話したこともないし、名前も知らないけれど、確か高等部の先生だ。美月自身は好みではないが、若く爽やかなスポーツマンタイプの彼が、高等部だけでなく中等部女子にも人気があることは知っていた。
なんだ、やっぱりいるんじゃない。仮眠中か。起こしちゃうのは悪いけど……。そっと胸を撫でおろし教師のもとへと近づいていく。その途中で水たまりを踏む感触がした。
水滴がはね、靴下を濡らした。不快感に歩みを止める。
なんだろう? 脳裏を不吉な想像がよぎる。浮かんだイメージカラーは朱色。
だが、予想に反して、液体は無色透明だった。匂いはある。この匂いはアルコールだ。甘い香りが鼻腔をくすぐる。日本酒だろうか。
液体の流れを目でおっていくと、教師が腰かけている椅子の足元に、割れた一升瓶が散乱しているのを発見した。
酔いつぶれて寝てしまったんだろうか。でも、それにしては様子が変……。
美月は教師の様子をもっとよく見るため、再び歩みを進めた。
もしかして、急性アルコール中毒じゃ……。それならば緊急事態だ。
あわてて教師のもとへと駆けより、息をのんだ。
教師の全身が濡れていた。女生徒のウケを意識してワックスで入念に整えた頭髪も、高そうなブランドのスーツと革靴も……。
しかも、教師を濡らしているのは、日本酒だけではなかった。先ほど、脳裏によぎった禍々しい色がそこには混じっていた。
ざっくり割れた頭部から溢れでた赤色が、教師の全身を汚している。お酒の芳醇な香りに、鉄サビに似た臭気が混じるのを感じ、美月は不意に吐き気に襲われた。
平行感覚が狂い、視界が歪む。
ありえないはずの想像が遅れて現実に……。
歪む。何かが……世界そのものが……歪んでいく。
救急車! まず救急車を呼ばないと! 冷静さを保とうと自分に言い聞かせ、なんとか嘔吐と目眩の衝動を抑えこんだ。よし、大丈夫だ。わたしは今やれることをやらないと。
うつぶせのままではまずいだろうと考え、教師の顔を起こし、その口元に自分の耳を近づける。
かすかな呼気の音が聞こえた。安堵し、美月は教師の気道を確保すると、今度は机に置かれた電話に手を伸ばした。緊急通報用の番号を押す。だが、期待していた反応は返ってこなかった。電話が外部と繋がっていないようだ。断線でもしているのか……。
予想外の事態に焦りを覚える。心拍数の上昇が先ほどから止まらない。そうだ、保健室に行って西中島先生を呼ぼう。――うん、わたしは冷静だ。焦燥感に押しつぶされることなく、要救助者の安全を第一に考えた美月の対応は、中学生としてはほぼ完璧といえただろう。だが、やはり彼女は冷静さを保ててはいなかった。
無意識に目を背けてしまっていたのだ。もっとも重要なことから。
鈍器――おそらく床に転がる一升瓶によって割られた教師の後頭部。
それは他者による悪意と暴力の象徴。
冷静であろうとするなら、我が身の安全を考えるなら、その象徴から目を背けるべきではなかった。
美月の右足に、突如激しい痛みが走った。叫ぶ間もなく、バランスを崩して転倒。打撲による痛みと混乱が美月を襲う。
何かがくるぶしをつかんでいる。その何かに、さらに強い力で乱暴に引っ張られた。
瞬間、美月は理解した。――こいつが先生を襲った!
襲撃者は机の下の闇に潜んで、新たな獲物を待ち構えていた。
強引にひきずりこもうとする闇から伸びた手を振り払おうと、美月は必死にもがく。とっさに机の脚にしがみついた。
もがくたびに床に撒かれた日本酒の水溜りの上を転がった。激しいしぶきが上がる。日本酒が制服を濡らし、下着にまで染みてくる。なんて嫌な感触!でもそれ以上に、目の前のこいつが――嫌だ! 気持ち悪い! 離して!
「あーぁ。あーぁ」
襲撃者の意味不明な呻き声が耳に届く。
とにかく助けを呼ばなければと思うのだが、上手く声にならない。必死に搾り出そうとした声は、力なく虚空でかすれて消えてしまう。
理不尽さに怒りを覚えた。こちらは悲鳴もあげられずもがくしかないというのに、なぜにこいつは意味不明なうわ言を一方的に繰り返すのか。怒りが力になった。
無我夢中で自由な左足に力をこめ、思いっきり襲撃者めがけて蹴りをはなった。
火事場のなんとやら。本能によってはなたれた一撃は、美月の想像以上の威力を発揮し、襲撃者を机ごと一メートルばかり突き飛ばしたが、美月の右靴も脱げ落ちて、一緒に飛んでいってしまった。
束縛から解放された隙を逃さず、あわてて立ち上がる。隣の机に手をつき、ふらつく身体を支え、荒くなった息を整えた。ところどころ破れ、伸びきってしまった右足の靴下も脱ぎ捨てた。――逃げなきゃ! はやく、ここから!
そうしてるあいだにも襲撃者はゆっくりと起きあがってくる。
頭髪を茶色く染めたロングヘアーの男子生徒だ。高等部の制服をラフに着こなしている。日頃は軽薄そうな笑みを浮かべては女子にちょっかいをかけていそうな雰囲気。だが、今、彼の目は虚ろ。瞳孔が開き、焦点がどこにもあっていない。
どこかギクシャクとした動きは人間らしさを著しく欠いている。
まるでマリオネットのようだと美月は思った。両手両足に見えない糸が繋がれて何者かに動かされているかのような不自然さ。
相手が起き上がってしまう前に、痛む身体に鞭を打って、駆け出した。片側の靴が脱げてしまったせいで、バランスがとりにくい。それでも、職員室の扉目掛けて走った。
が、それも途中で遮られた。
机の下から更なる新手が這いでてきたのだ。それも、ひとりやふたりではない。彼らは蜘蛛の子のように無数にわらわらわと現れる。前方からも背後からも――
学生服姿もいれば、スーツやジャージ姿もいる。性別も年齢も様々。その多くは学内で見かけたことのある顔だ。
ああ、背後にはあの先ほどまで倒れていた若い教師もいるではないか。重傷を負って立つことすらできそうもなかったあの男が、今や濁った目を美月へとむけている。
教師だけではない。今ここにいる美月以外の全ての存在が、彼と同様に意思をもたぬ操り人形に似た眼差しで美月を見ている。
人としての意思が極限まで薄れた眼差し。もしそこに秘められた欲求があるとするなら、それは人形が人間を羨んで仲間を欲するような歪んだ願いなのかもしれない。
美月の中で臨界点に達した感情が、ここにきてついに叫びとなり、職員室内に響き渡った。
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