第1章 - ④ 壱絆太一と豆狸
◆
旧校舎を出ると、太一は、背後のふたりに気づかれないように、そっとため息を吐いた。
なぜ、ああなった。昔のお前は違っただろう。常に未来を見すえ、目的達成のために今できる努力をおしまない。それが稲置礼央という男だったはずだ。
礼央は覚えていない様子だが、太一は彼を幼馴染だと思っていた。
礼央が自分と同じ星辰学園高等部に入学することを知った時は密かに胸が高鳴った。
なぜ野球部のないこの学園に?
疑問を抱いたものの、再会は楽しみだった。
そして、入学式。期待は裏切られ、憧れは嫌悪にかわった。
どのような逆境にあっても、勝利を信じ、弱気になる仲間を鼓舞し続けた彼は――地面にしっかりと根をおろした草花のように揺るぎない信念を感じさせた少年は、もういない。
今の彼はタンポポの綿毛のようにフワフワと空中を軽薄にさまよう、稲置礼央の姿をしただけの抜け殻にしか見えなかった。
失望したなら気にかけなければ良いとは思う。見なかったことにすれば良いとも。いっそ自分の知る少年とたまたま同姓同名で、なおかつ酷似した外見を持つ別人と認識しようとしたこともある。
もっとも、そんな都合のいいそっくりさんが、いるはずのないこともわかっている。密かに他人の肉体を奪い続けることで、不老不死を実現しようと画策する魔術師なら、海外の怪奇小説で読んだことがあるけれど。
それでもやはり気にかかる。今日もつっかかってしまった。かつての彼に戻ってくれないかという淡い期待をいだいて……。
現に、申請書をよこせといった礼央の眼差しは、常に決意を秘めてマウンドに立ち、チームを勝利に導いたかつてのヒーローと被って見えた。
いや、左腕で数々の奇跡を起こした自称百球投げてもへこたれない不撓不屈の
「太一様、かなりお疲れのようですが、そろそろ生徒会室にお戻りになられては。見回り業務はわたくしどもにお任せください」
とりとめもなく巡る思考は、黒縁眼鏡の生徒会書記、
「いや、わたしは別に疲れているわけでは……」
「あのアホどもと会われてから、太一様はずっと浮かない表情のご様子で。ここはゆっくりとお身体を休めてください」
筋骨隆々の会計、
「わかったよ、ふたりとも。それから、学園内ではそのバカ丁寧な喋り方と『太一様』って呼び方はやめてくれっていっているだろう。本家にいたころとは違うのだから……」
「「申し訳ありません、太一様! 気をつけます!」」
影山と明海の声が完璧に唱和する。
返事そのものは良いが、決して太一の真意を理解してくれないふたりである。
太一としても、影山と明海が自分を常に第一に考えて行動してくれることには感謝している。ただ時おり、過剰に感じて辟易することもある。進学に際して本家をでることになった際も、ふたりが身の周りの世話をするためについてきてしまったのには、うんざりした。本人たちにそのつもりはないだろうが、保護を名目とした監視という、彼らを差しむけた叔父たちの意図が透けて見えるのも気にいらない。
「葛葉のところに顔を見せてから、執務室に戻って少し休むよ。その間の見回りは任せる」
「「はっ! 了解しました。太一様!」」
再び、ふたりの声が一音乱れずそろう。
「太一様。星辰祭を翌日に控え、どうやら気の早い来客がすでに訪れているようです。遅れをとる太一様ではございませんが、執務室までご同道させていただけないでしょうか?」
影山があたりをさりげなく見回しつつ、太一に囁いた。黒縁眼鏡の奥の両眼がほんの一瞬、猛禽を思わせる妖しい光をおびる。
「いや、結構。今のところは祭りの陽気につられてでてきた害のなさそうな連中ばかりのようだからね。少しでもおかしなことがあったら早急に報告してくれ」
影山と明海に別れを告げ、本校舎へと足をむける。ふたりは太一とは間逆の方向、校舎よりさらに北にある星辰神社の方面へと去っていった。
ふたりと別れると、太一は気分が少し軽くなるのを自覚した。
信頼の置ける男たちであることは確かだが、あのふたりといると、いまだ本家に閉じこめられ続けているような錯覚を覚えてしまい、どうにも気疲れして仕方がない。
太一とて重圧から解放されたい時がある。苦労性の堅物生徒会長にとって学園内を散歩するのは数少ない息ぬきのひとつなのだ。誰にも邪魔はされたくない。
本校舎が近づくにつれ、喧騒が耳に届いてくる。
舞台設営のために男子生徒が金槌をリズミカルに鳴らす音、走りがちなドラムと音程をはずすボーカルが危なっかしい有志バンド、焼きそば屋台の売り子が呼びこみを練習する声など、多種多様な音が折り重なって、お祭り特有の活気を生みだしている。
本日の通常授業は午前中で終了。午後からの時間は全て学園祭準備に割り振られていた。生徒たちの多くが準備に追われて忙しく立ちまわっている。予行演習だというのに本番さながらのにぎわいなのが、いかにもお祭り好きの星辰学園らしい。
掲示板に張られた告知ポスターや壁にかけられた横断幕はどれも彩り鮮やかで、各団体の趣向もこらされており、眺めているだけで楽しい気分にさせる。
文化系部室棟と地域史記念棟に挟まれた小道をすぎ、本校舎前の中庭のあたりまでくると、行きかう生徒の数もかなり増えてくる。その内の何人かとは挨拶をかわす。
制服やジャージを着用したものだけでなく、漫画やアニメの仮装、メイド服、舞台衣装に身を包んだものなど、この日ばかりは装いも様々だ。
乱杭歯をむき出しにしたトップハットにイブニングコート姿の吸血鬼がいたかと思えば、両手で豆腐を持ち運ぶ小坊主、床まで届く長髪と猫背気味の姿勢で顔を覆い隠した白装束の女が通りすぎる。古今東西問わず、化け物・妖怪がねり歩く光景はまさに百鬼夜行。これこそ『ホラー縛り』の星辰祭名物だ。
百鬼夜行の中には太一の記憶にないものもわずかばかり混じっている。そうしたモノたちにはそっと目を光らせる。
在校生名簿と職員名簿を完全に暗記し、学園に在籍する全ての生徒および職員の姓名と容姿、特徴を把握するなど生徒会長として当然のこと。つまり、生徒会長が見覚えのない人物は、学園祭を利用してまぎれこんだ招かれざる客にほかならない。
どこの学園祭にも不審者、不心得ものは必ずあらわれる。ただし、この学園に関していえば、多少ばかり事情を異にする点があった。
もちろん、他校に出没するような不逞の輩も、いないではないが……。
太一は僧侶らしき装束をまとった若い男に目をつける。身にまとった七枚袈裟や右肩にかけた横被が、年齢にふさわしくない仕立ての良さだ。
太一は歩みをとめず、不自然にならない程度に男を観察する。
しばらくすると僧侶は屋台設営作業中の三人組にそっと近づいていった。三人の内のひとり、茶髪の少年と接触しそうになり、僧侶は頭を下げる。気まずそうな素振りで中庭を離れ、人の気配のない記念棟の裏手へと、逃げるように去っていった。
太一もさりげなく、来た道を戻り、そのあとを追いかける。
誰からも見られる心配のない場所に至ったところで、太一は親しい友人に声をかけるような気安さで、横被にぽんと手を置いた。
僧侶の肩がビクリと震えるのがわかった。
「なにか、用ですか? 壱絆会長?」
「君はわたしのことを知っているのか? わたしは君を見たことはないのだが……。ああ、それとも君の仮装が上手すぎるせいなのかな」
「はは、おっしゃる意味がわかりません。ボクにはさっぱりなんのことだか……」
「とぼけるのはそこまでです!」
太一は鋭く叫ぶと、さっと縦四本横五本の格子模様を宙に描いた。
描くやいなや、風船が弾けるような軽い音があたりに響き、僧侶の姿がかき消えた。
僧侶がいた場所には、一匹の子ダヌキが座っていた。人間がするようなあぐらをかいた体勢だ。
「まめだ……。やはり、お前か」
まめだ――『豆狸』と呼ばれる妖怪変化の一種。それこそが僧侶の正体だった。
そのまなざしには知性の光がやどり、上半身だけを見ると高貴な雰囲気すら感じさせるのだが、下半身にぶら下がったあまりに巨大すぎる陰嚢がそれを台なしにしている。
太一は下半身を極力視界にいれないように気をつけながら、まめだを睨みつける。
「オイラ、悪さなんかしてねーし! ちょっと祭りにつられて、でてきただけだ。邪魔すんじゃねーやい!」
「わたしもお前が学園祭にまぎれるぐらいは多めに見るのだが……。先ほどくすねたものがあっただろう? 用があるのはそっちだ」
「ちぇっ! 何もかもお見通しかよ! さすが、晴明様に匹敵する見鬼の才とうたわれるだけはあるねえ」
まめだが手にしているのはワンカップの日本酒だ。しぶしぶといった様子で一八〇ミリリットルを二本、太一に差し出した。
「見鬼の才は関係ない。それに晴明様レベルは言いすぎだ」
太一は苦笑を浮かべてワンカップを受け取る。
「あいつら、まだまだたんまり隠し持ってやがるぜ。ニオイがぷんぷんすらぁ。ビールにチューハイ、カクテルと、よりどりみどりよ。あと何回か、くすねるつもりだったんだけどなー」
魑魅魍魎の類なら、星辰学園はそれこそ普段からつきものだ。学園祭ともなれば、北に位置する
たいした悪さをするわけでもない『豆狸』程度なら、太一も本来ならば無視するところだが、酒類に目がないあやかしが一瞬しめした不審な行動が気にかかり追いかけた。
案の状だ。屋台設営の準備に隠れての飲酒行為とは実になげかわしい。泊まりこみ作業時に仲間うちで酒盛りでもする気であったか。
そう、家業である陰陽師としての義務感からではない。あくまで健全な学園祭を守る生徒会役員としての義務感からの行動だった。
太一はスマートフォンを取りだし、風紀担当の
もしかしたら一雨くるかもしれないな、と太一は思った。
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