第2章
第2章 - ① 野球しようぜ
野球というスポーツがあること自体は知っていた。チーム制の球技で、一方が投げたボールをもう一方がバットで打ち返すことが基本。そこに様々な要素が付加されて複雑化し、そのルールブックはかなりの厚さだという。
小学校に通わせてもらえず、本家に幽閉同然の身であったとしても、その程度の知識は亡父の書斎に忍びこんで読んだ書籍から得ることができた。
ただ、本家を抜け出したあの日、実際に自分が野球を見るそのときまで、野球がおもしろいものだとは想像もしなかった。知識を得ても、自分と縁遠いものと考え、興味を覚えることなどあるはずもないと勝手に思いこんでいた。
穏やかな夏だった。
都心部ではゲリラ豪雨で荒れる日も多かったようだが、自分たちの住む地方は快晴が続いていた。
世間では同年代の少年少女たちは『夏休み』というものを楽しんでいるらしい。だが、世間の常識と切り離された陰陽師の家系に育つ自分たちは、『夏休み』など関係なく、修行の毎日を過ごした。連日の快晴も、自分たちには関係ないことだと思っていた。
時折、庭先に山から紛れこんだ
自分自身は達観した部分もあったのだが、お転婆な妹などはかなり待遇への不満がたまっていたようで、あのころは笑顔を見せることもほとんどなくなっていた。
そして、ある夏の日の昼下がり、外の世界に対する妹の欲求がついに限界に達した。
今と違って黒髪を肩あたりで切りそろえた妹は、一見すればやんちゃな少年といっても通用する容姿だった。
当時すでに陰陽の術を体得し、式神の扱いにも慣れてきた自分たちなら、少しのあいだ、バレずに外出するぐらいは可能なのではないかと思った。実力を試してみたいという気持ちもあり、妹の提案にのった。
式神を身がわりに据えて、屋敷からの脱出を試みた。結界が幾重にも施されていたが、修行の成果もあり、手こずりはしたもののなんとか破ることに成功した。
そのまま山を降りた。ふもとまで降りるのにかなり歩いたように思えたが、子供の足で五十分に満たない程度だったのだから、実際はそんなに険しい山道でもなかったのだろう。
しばらく歩いたところで、広い公園を見つけた。そこで初めて野球というスポーツを見た。
同い年か少し上に見える少年たちが、公園のグラウンドを駆け巡っている。中には妹と同様に少年のようないでたちをした少女も混じっているようだ。みんなお揃いのユニフォームを泥だらけにして、ボールをがむしゃらに追いかけている。
真剣な表情を見せたかと思えば、いきなり笑い声をあげたりする。わけがわからない。
公式試合ではなく、練習だったのだろう。だが、野球を初めて見る自分たちには、そんな簡単なことすらわからなかった。ただ、目の前の少年少女たちが楽しそうだということだけはよくわかった。
彼らが楽しんでいるということが、はっきりとわかって、急に――寂しくなった。
本家でも時折孤独を感じることはあったが、その比ではないくらいに寂しいと感じた。隣に立つ妹を見ると、今にも泣きだしそうな表情。
つられて自分も泣きたくなったが、兄としての役割を果たさなければいけない、と自分に言い聞かせる。自分たちは泣くことができない。課された定めだ。なんと妹に声を掛ければ良いかわからず、焦った。
そのときだった。グラウンドの中心から声がかかったのは。声の主は、少年たちの中で一番大きな声を出して笑い、一番楽しそうに野球をしていた少年だった。
「おーい! そこで見てねーで、興味あんなら一緒にやんねーか?」
ニカッと白い歯を見せて笑った少年の満面の笑顔は、今も忘れらない。
忘れられずに、今も夢に見る。そう今も、また……。
◆
夢を見ていた。
少年時代の――小学生のころの夢だ。
野球が楽しかったころの、遠く過ぎ去ったあの日の記憶。
最近はめったに見ることもなかったが、今回はとても鮮明な夢を見た。
ただ、いつもと違っておかしな点がひとつ。なんだか、別人の身体を借りて、その人間の半生を追体験しているかのような感覚。そう、まるで誰かの夢を覗き見ているような――
徐々に覚醒していく意識の中で礼央はそんなことを思う。
――そもそも、なんでおれは寝てんだ?
夢から醒め、現実へと戻る間際に、ふと疑問をいだく。
見慣れた保健室の天井とカーテンが目に入る。その白色が礼央の記憶を刺激した。
――白、純白の学生服、壱絆、――白コート、仮面、――もみあう、絡まる、倒れこむ。
脳内で断片化された記憶が一斉に駆け巡り、一瞬にして繋がっていく。
ベッドから跳ね起きた。
そうだ、壱絆が仮面の不審者に襲われているのを目撃して、助けようと――それから、どうなった?
混乱。
仮面がおれにむかってなにかを投げようと――
混乱。
壱絆がもの凄い速さで割って入ってきて……。ああ、そうだ。助けようとしたはずが助けられた! 壱絆! あいつはどうなった?
軽い目眩を覚えつつも、礼央はベッドから出て、立ちあがった。
眠りすぎたせいなのか、心なしかいつもよりも身体を動かしにくく感じる。
倒れる直前、尖ったものが刺さった感触があったがそのためだろうか。いや、それにしては痛みを感じない。
ベッドの周囲を仕切った白いカーテンを開く。
あたりに人の気配はない。
――誰もいねーのか? ヒノさん? 壱絆?
室内を見回す。夜が訪れつつあるのか、やや薄暗い。
と、誰かと目があった。純白の生徒会用学生服に中性的な顔立ち。
――なんだ、壱絆、そこにいんじゃねーかよ。
いつもはなにかと礼央たちの行動にクレームをつけてくるいけすかない生徒会長だが、今回ばかりは安堵した。
礼央は、親しみをこめ、軽く右手をあげた。
同時に相手も左手をあげた。
寸分違わぬタイミングの良さにまるで鏡のようだと礼央は思った。太一の笑顔の中に滲んだ混迷と疲労の気配。それは自身が今浮かべているであろう表情そのものだ。そんな表情はちっともあいつらしくない。
礼央の心を不審と警戒が支配する。すると太一も礼央の心中を代弁するかのような表情に変化した。やがてひどく恐ろしいものを見たかのような、驚愕の表情へと変わる。
礼央は太一のもとへと駆け寄った。
そこに太一はいなかった。白い薬棚が置かれているだけだ。
しかし、奇妙なことに薬棚のガラスには、女子が羨望の眼差しをむける整った容貌が映りこんでいる。
礼央はおそるおそる自分の頬を右手でなぞってみる。ガラスに映る太一も、完全に同じ動作で頬をなぞる。続けて身体の各部位をチェック。肩から上腕、腹部、腰部、大腿、下腿と両手で触るにつれて、混乱は深まっていった。
礼央は筋肉質のがっしりとした体格の持ち主だ。今、手のひらから伝わってくる感触から、日頃から鍛えられた肉体であることが共通しているのはわかる。しかし、その手触りはごつごつとはしておらず、しなやかさがあり、柔らかい。明らかに自分の肉体とはまるで違うものだ。
礼央はさらに自分の服装をあらためて見なおす。純白の学生服。まぎれもない壱絆太一のトレードマーク。
左手の軍用時計など、日頃肌に馴染んだアイテムの感触はきれいさっぱり消え去っている。
礼央は衝動的にベッドまで駆け戻った。
シーツの中にもぐりこみ、学生服のボタンに手をかけ、上着を脱ぐ。ベルトを外し、ズボンも脱ぎ捨てた。目に飛びこんできたのは身に覚えのない下着だ。明らかにトランクス派の礼央の趣味ではない。
さらには、胸ポケットからこぼれ落ちた見覚えのある銀の懐中時計。開くと二匹の銀キツネが午後六時半であることを告げていた。
そして――礼央はある事実を受け入れざるを得ないことを認めた。
――身体が入れ替わっている……。
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