第0章

第0章 炎舞輪廻

 赤い花が咲いては散るのを、男はただ呆然と見ているしかなかった。

 町の至るところに咲き乱れた花は特定の形状を持たず、散ったかと思えばまた新たに花弁を開く。曼珠沙華に似たその花は、際限なく増殖を繰り返し、地を――空を――蜘蛛のように這いまわり何もかもを蹂躙するのだ。


 その正体は――京の都を焼きつくす灼熱の業火。


 地獄より現れ出でた炎を前に、人ができることなど何もない。

 ましてや、全身をなますに斬られた上の大火傷、さらには崩れ落ちた土蔵の下敷きとなった身の男に何ができるというのか。


 朝方、武家屋敷で咲いた灼熱の花は、おりからの強風にあおられて、たちまちの内に市中へとその種子を広げ、寺社や商家に長屋と根をおろした場所すべてを灰に変えていった。


 ごうごうと風が唸り、ぼうぼうと炎が燃えさかる。

 男は、ただひたすらに風の音を聞き、炎が死体を焦がす悪臭を嗅ぐばかり。


 痛い、苦しい……、といった感覚はとうに失せた。かろうじてだが音は聴こえる。目も見える。臭いも嗅げる。ただ、触覚、痛覚の類はもはや機能をなしてはおらぬ。味覚はどうか。ふむ、鉄の味ならするやも知れぬが、判然とせぬ。舌まで燃えつきてしもうたか。


 目の前に建つ屋敷はまだ形を保っているものの、あと数刻もすれば崩れ落ちてしまいそうに見えた。もしかすれば、かろうじて息をする者が残されているかもしれぬが、どちらにしろこの業火。もはやどうにもなるまいて。


 そう、もはや全てがどうにもならぬ。どうやら、おのれもここで果てるらしい。不意に笑いだしたい衝動にかられた。焼けただれ、醜くゆがんだ唇がかすかに震える。


 いや、すでに果ててしもうたあとではないのか。


 罪を犯すたびに、庭に一輪の曼珠沙華を植えた。罪を重ねるたびに罪なき者を救ったつもりでいた。だが、やはり罰は――裁きは我が身にくだされたのだ。

 おのれの庭と同様に、燃えさかる曼珠沙華の野と化したこの地が地獄でないと言うなら、ここはどこだというのか。


 人を殺めた我が身に、お似合いの場所は他にあるまい。ひとりやふたりではない。幾人も、幾人も……、もはや数えることなどできはしない。だが、それでも……。

 唇はさらに歪み、震えは激しさを増す。

 だが、それでも……。

 守りたいものはあったのだ。貫き通したい信念はあったのだ。


 守ろうとしたものは消えさった。卑劣な裏切りによりあっさりと奪われた。信念もろとも砕かれた。義憤にかられ、信じてただひたすらに働いた挙句がこの地獄絵図だ。これが笑わずにいられるか。


 ああ、わかっている。この地獄を全て奴らのせいだと咎めるつもりはない。全てはおのれの業が招いた結果であることは承知の上。ただ、仇なす者のみを呪うたはずなのに。天に唾吐く愚か者のみを呪うたはずなのに。呪いは今や我が身へと返り、それだけでは飽きたらず、京の町すら飲みこんで……。


 男はただ笑った。声にはならず、ただヒュウヒュウと息が漏れるだけではあったが、ひたすらに笑った。ごうごうと唸る風に飲みこまれていく。それでも笑った。


 そうする間にも火勢はどんどんと強まり、炎が何もかもをぼうぼうと燃やしていく。

 ぼうぼうと……、芒、芒と……。

 やがて腹をゆする力も失せ、意識さえも茫となった時……、何かが崩れ落ちる音があたり一帯に響いた。


 それは彼岸ひがんへと旅立とうとしていた男をしばし、此岸しがんに押しとどめるには充分な大音声であった。


 男が目をやると、眼前の屋敷が完全に崩れ落ちていた。

 その積み重なった瓦礫の中から、何やら蠢く気配がある。

 瓦礫の中から煤にまみれた手がはえた。か細く小さな右手――わらべの手だ。次に頭、左手と続く。そして、見る間に全身があらわれた。


 今まで命を永らえることができたとは、相当に運がよい。

 童は満身創痍の有様ではあったが、致命傷を負っている風ではない。幼い身体をふらつかせながらも男のもとへとゆっくりと歩みよってくる。


「なんや、おっちゃん。歩けんようなったんか。今ぁ、助けたるよって、ちょいと、待ってぇなあ」


 童が近づいてくる。その幼い身で男を助けようと。

 だが、男はすでに理解している。瓦礫をどうにかできたところで、もはや我が身は助からぬということを。無駄に力を使うことはないと伝えようとするも、声にはならずヒュウヒュウとむなしく空気を震わすのみ。


 童はさらに距離を縮めてくる。

 ああ、おのれはこのような童が悲しまず生きられる世を夢見たのだ。なのに夢果てて、どう間違えたか、かような惨状。今やおのれが童に手を差しのべられようとする身。


 なんと、悔しいことか。なんと、恨めしいことか。


 このまま、終わりとうはない。我が身も心もかような炎にまかれて燃えつきてしまいとうはない。


 ――どうにか……、どうにか、ならぬものか……。


 今や男の目に、童はただひとつ現世うつしよに残された一筋の光であるかのように見えた。おのれの中に燃えつきず残ったわずかばかりの信念が光芒を放ち、童となっておのれのもとへと歩んでくるかのような錯覚。


 ――生きたい、死にたくない、悲しい、恨めしい……。


 男の中で想いが巡る。ありとあらゆる感情が、ただ生への執念のためだけに交じりあい、得体の知れぬ何かを形作っていった。


 そして、それは機能を失ったはずの男の口から、かすれ声となって不意に漏れでた。

 童が男のもとに到達したその瞬間――実に奇怪な現象が生じた。

 かさつきひび割れた唇から漏れでた想いが、童の耳朶じだを震わせると同時、光がどこからともなくあらわれ、たちまちの内にふたりを包みこんだのである。


 やがて、夜が明けた。

 火災自体は広がり続けていたが、この一帯の火勢はおとろえている。


 童が男を見おろしていた。

 男の安らかな死に顔とは対照的に、童は世の苦しみを一身に背負いこんだかのような表情を浮かべている。本来、年端も行かぬ子が浮かべるものではない。


 童は嗚咽おえつをこらえるかのような仕種しぐさのあと、おもむろにしゃがみこみ、亡骸の懐をまさぐった。懐中から目当てのものを見つけだし、それを手にしてすっと立ちあがると亡骸に背をむけた。そして、男を振り返ることなく、どこぞへと駆け去っていった。


 元治元年七月二十日。

 世にいう『禁門の変』の翌日のことである。

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