第1章 - ⑨ 暗転


  ◆


 拳を一切使わず、足技のみで徐々に太一を追いつめる無貌には余裕が感じられた。

 決定的な一撃こそ、いまだくらっていないものの、体力をじわじわと削られていく


 無貌の攻撃速度は常人のそれをはるかに凌駕している。何らかの術を用いているのは明らかだ。手品の種自体は察しがついている。


 仮面に書かれた急急如律令の筆文字――

 その意は――迅速に術を実行せよ。


 自分自身の肉体そのものを一枚の符に見立て、その上で、急急如律令の縛りによって、身体能力そのものをブーストするという秘術。それこそがこの尋常ならざる攻撃速度の正体。


 だが、この仕掛けは本来、生身の人間にはあまりにも無茶だ。このような術を長時間続ければ、すぐに術が与える負荷に肉体が追いつかなくなる。その先に待つのは――自壊のみ。

 なのに自殺行為同然の術を、襲撃者はかれこれ五分以上、平然と続けている。さらなる仕掛けがあるのか。


 どのみち、種がわかったところで、防御がやっとの状況では打開策を見いだせそうもない。

 もし一瞬の隙をついて、こちらも同じような術を三十秒でも発動できたなら、形勢逆転の可能性もあるのだが……。



 双眼鏡越しに目撃した、入場門で見た不気味な仮面の人物と太一の闘いに、礼央は面食らった。


 仮面の攻撃は目で追うのがやっとの速さだ。すんでのところで決定的な一撃を食い止めている太一の身体能力も目をみはるものがある。


 ――あいつ、ひ弱そうに見えて、実はスゲーじゃねーか!


 とはいえ、このままではいずれ襲撃者に倒されるのも明らか。

 ただならぬ雰囲気を纏った敵だ。本物の危なさを感じさせる。だが、この場に行きあってしまった以上、恐れをなしてその場を去ることなど礼央にはできない。


 ――しゃーねーな。ワケわかんねーけど、作戦は急遽変更だ。


 スマホをグループ通話にし、メリッサたちに繋ぐ。

「メリッサ、ヤマト、聞こえるか? ちょっとおかしい状況になってんだよ! なんか、壱絆が不審者に襲われてる!」

『なにそれ! ワケわかんない!』

『詳しく説明してくれないか? どういうことだかよくわからん。』

「すまん! 説明はあとだ! おれは壱絆に加勢するから救援を頼む、じゃあな」

『ちょっ、もー! あー、わかったわよ!』

『いやいや、こっちは事情がさっぱりなんだけど……』


 礼央は通話中、空いた方の手で玉砂利をずっと握りしめていたことに気づいた。力を込めすぎたせいか石には亀裂が入っていた。石を地に戻すと、かわりに腰に下げたハンドガンをぬいた。ベレッタ社のM92Fを模した電動エアガンだ。

 しっかりと両手で構え、照準をあわせる。射撃の精度に自信はあったが、ただでさえ凄まじく動き回るターゲットの頭部をピンポイントで狙うのは不可能だ。胴体でさえ当てられるかどうか難しい。だが、所詮はおもちゃによる牽制射撃。太一からこちらへ気をひかせることこそが重要なのだ。


 礼央は白コートがこちらに背中を見せたタイミングを逃さず、飛びだした。

 目標目掛けてダッシュしつつ、トリガーを引く。続けざまの三連射!

 ハンドガンが実銃さながらのブローバック動作を繰り返し、BB弾が不審者目掛けて飛んでいく。


 ◆


 太一の疲労により、一分近くにおよぶ膠着状態は破れつつあった。


 無貌が強化しているのは反応速度のみであり、打撃の重み自体は常人レベルとはいえ、さすがにこうも攻撃を受け続けては、体中がしびれを感じずにはいられない。


「遊びにも飽いたな。そろそろ決着をつけるとしようか」


 今までで一番強烈な回し蹴りが襲ってくる。なんとかしのぐも、蹴りの威力で身体が飛ばされ、ふたりの間合いが少し開いた。太一は次の打撃技に備えて、即座に防御体制を取りなおす。


 が、ここにきて初めて無貌は今までと異なる動作をとった。素早く懐に手を入れ、鉄製の投擲武器を取りだし、五指に挟んだ。二羽のカラスを貫いた螺旋の鋲だ。


 おそらくは相手が防御することを前提とした武器だろう。先端に毒物のたぐいが塗布されている可能性が高い。触れただけで敗北に直結する。

 もはや打撃に対して防御を固めた太一に、鋲をかわす動作に移る余裕はない。

 が、勝利をほぼ確信したはずの無貌が、突然、鋲を投げる手をとめた。


 雨音にまぎれ、銃声が続けざまに三度鳴った。


 本物のような殺傷力など皆無。かすり傷すら負わせることも不可能な、電動エアガンによる遠距離攻撃。

 しかし、極限まで集中力を高めた、いかなる要素も看過しない戦闘のプロの注意をひきつけるには充分だった。


 無貌はその場から飛びのき、すぐさま、BB弾が発射されたほうへと身体を反転させる。

 太一も同じ方角を見やった。


 その先には――


 ◆


 最初に放った三発はあっさり避けられた。


 その回避能力は、人の域を超えた凄まじい速さと形容するほかない。そもそもヒットさせる気がなかったとは言え、身体能力の高さにあらためて度肝をぬかれる。今さら驚いて立ちどまっているヒマはない。


 例え避けられようとも――太一に反撃の糸口をつかませる!


「うぉぉぉっっっ!」


 礼央は吼えた。吼えながらさらに引き金に力をこめる。

 再度、銃声が三度鳴り響く。


 ◆


 ――礼央がなぜここに!?


 驚いてばかりもいられない。第一、この学園の裏事情に一般生徒を巻きこむわけにはいかない。

 太一は無貌の仮面から覗く目を注視する。無貌の鋲が向かわんとする先はいずこか?

 さしもの無貌も想定外の事態に逡巡の色を浮かべたかに見えたが、その目線は即座に太一から礼央へと定められた。


「うぉぉぉっっっ!」


 太一は吼えた。それはしくも礼央の雄叫びと同時。ふたりの咆哮が被さり、大きなひとつのうねりとなる。

 叫びにあわせて、銀の懐中時計を取り出す。素早く上蓋を開き、その盤面に指でドーマンの早九字を走り描く。


「急急如律令!」


 太一はあらん限りの力をこめて、呪を発した。


 呪は太一を包む世界の有様ありようを、刹那にして書き換える鍵である。


 天から降り注ぐ小雨が地に落ちるまでの間隔が、一瞬にして長引いた。雨滴の落下する速度が極端に遅く感じられる。重力に引かれて雨粒が形状を変化させていく過程が、今や克明に見てとることができる。


 礼央が放ったBB弾が無貌目掛けて飛んでいく過程も、無貌がそのBB弾の描いた軌跡を身体をひねってかわすと同時に鋲の投擲モーションをとる動作も、ハイスピードカメラで撮影した映像のごとくにはっきりと目視できた。

 今や、太一がその身をおくのは、無貌をもしのぐ高速の世界。


 速やかに――無貌以上に速やかに――我が術を実行せよ!


 学園の生徒を守りたいと願う生徒会長としての想いが、いや、それ以上に旧友を守りたいと願う想いが、これまで太一がなしえなかった精度で、術を発動させた。


 無貌の手から、礼央目掛けて、鋲が放たれようとする。

 太一は懐中時計を再び胸ポケットにおさめ、礼央のもとへと駆け出す。

 無貌を追い越す。

 通り過ぎた際、無貌の目に始めて明らかな驚愕と焦りの色が浮かぶのを見たが、無視する。

 今は少しでも速く礼央のもとへと……。

 無貌の手から鋲が離れた。


 鋲と太一、どちらが早いか、競争だ。極限まで引き延ばされた時間の中、ひたすらに駆けぬける。


 背後から、四本の鋲がせまる。

 あと数歩で、礼央のもとへ!

 あとわずか――あと少し――


 残りわずかで、無情にも世界は再び変転を開始する。


 無貌もこのまま太一を見過ごすような術者ではない。太一とすれ違う一瞬の間に、無貌もまた、新たな術を行使していた。


 術は、太一が礼央の身体と接触し、折り重なったその瞬間に発現した。


 太一の体感時間が、通常へと回帰する。

 時間感覚が戻ると同時に二本の鋲が太一の背中へと突き刺さった。残りの二本は、礼央の肩と脇腹をえぐる。


 ふたりが重なって地面に倒れこむと――その術は完成した。

 地面から光を放つ五芒星が出現し、意識を失ったふたりを包み込んだ。

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