第3章 - ⑤ 記憶の欠片

 合流に成功した礼央たちは、職員室から飛びだした。ひとまず、結界で守られた保健室まで戻ったほうが良いだろう。そう判断して下り階段へむかうが、その案はあきらめざるをえなかった。


 二階からも「あーぁ」という呻き声が聞こえてきたのだ。闇の中に人形のように生気のない目が妖しく無数に光っている。


「ちくしょう! 新手かよ! なんだってんだ、こいつらは!」

「蜘蛛なの。人の負の感情が結晶化して蜘蛛へと変じてしまった下級のあやかし」


 葛葉が日本刀の刃先に付着した赤い蜘蛛の残骸をいくつかつまんで示すと、礼央は「げっ!」とうめいて死骸から目をそらした。虫は礼央が苦手とする存在のひとつだ。


「こいつらは恨みや憎しみ、ねたみ、そねみを糧として巣を紡ぐ。人そのものを巣にして、負の感情を増幅し、心を絡めとっていく。そして、絡めとられた犠牲者の恐怖や無念によって巣はさらに拡大していくの。一匹一匹は非力だけど、恐ろしい敵なの」

「胸糞悪いな。負の感情ってもよ、恨みつらみだなんて、別に特別なもんでも何でもねえ。誰だって日常的に抱えてるもんだ。そこにつけこむなんざ、卑劣きわまりねえ!」


 礼央は蜘蛛に対して激しい憤りを感じた。

 生きていれば、上手くいくこともあるし、そうならないこともある。彼自身、誰に対して怒りをぶつけたらよいのか、わからなくなるほどの理不尽を体験したことのある身だ。


 不幸は誰にだっておこりうる。そうしたとき、人は誰かに対して、あるいは世界や神といった存在に対して、反発心をいだくのは当たり前だろう。

 その当然の感情を利用して、さらなる不幸を、害悪をばら撒こうとする存在を、礼央は絶対に許すことができない。決して看過することができない。


「先輩は――やっぱり変わってなかったの」

 葛葉が不意に笑みを見せた。とても穏やかな、救われたというような笑みだ。


「なんだよ、葛葉。笑ってる場合じゃねーだろ」

「――信太の森のうらみ葛の葉。この和歌の『うらみ』の意味、先輩はどう解釈しますか?」


 葛葉の礼央を見る目が真剣なものへとかわった。


「いきなりなんだよ。そりゃ、あれだろうが、悲しいとか未練とかそういう意味だろ。クズの葉っぱは表と裏で色が違うってことと掛けて、家族と別れなきゃならねえ悲しさを表現してる。この歌に夫や子への愛しさは感じても、憎しみはいっさい感じねえ」


「うんうん、礼央くん。実は頭いいんだ」

「くろこ、お前けっこう失礼だな。おれは国語と社会は得意なんだよ。で、葛葉。どうなんだ。お前の考えは」

「そう、先輩が言うように『うらみ』の本質は『かなしい』ってこと。どうしようもない理不尽な理由で、離ればなれになってしまって、かなしくて、それでも愛おしくて、あきらめられなくて、この世に未練を残すほどにどうしようもなく強い思い。それが『うらみ』なの」


 別離の悲しみや再会への願いをうたった和歌は多い。

 晴明との子別れに涙した葛の葉姫。義経とのしあわせだった日々に戻りたいと願った静御前。離別した恋人への再会の思いを川の流れに重ね合わせた崇徳院。葛葉の言葉にはそういったかなしみを抱えた者たちへの思いがこめられていた。


「先輩。陰陽師の仕事のひとつは『うらみ』をはらうことなの。人は生きていれば幸福を感じることもあればその逆もある。人はおのれに降りかかった不幸に憤り、他者の幸運をねたむ。とりわけ、他者によってもたらされた理不尽な不幸による『うらみ』は深くこの世に残るの。そうした想いはわたしたち陰陽師が『うらみ』を残した人にかわってなんとかしないといけない」

「『うらみ』を晴らすために、かたき討ちの肩代わりみたいなことをするってわけじゃねーんだろ?」

「確かに憎しみって意味での『恨み』を晴らすことが専門の陰陽師もいるけど、わたしたちはそうじゃないの。陰陽師の仕事は想いの『表』だけじゃなく、『裏』まで全て『見』つめるの。そして、人の魂をこの世に縛りつけ、ときに鬼へと変えてしまうほどの『かなしみ』をやわらげ、他者や環境への『恨み』も、自身への『うらみ』もすべて取り除くの」

「なるほどな。じゃあ人のかなしみをもてあそんで、さらにはその原因を撒き散らす蜘蛛ってヤローは陰陽師としちゃ許せねえよな」

「ええ、そんな存在は絶対に許せないの。先輩、お願いなの。わたしと一緒に闘って」

「当然だ」 


 礼央はゆっくりと頷いた。答えは決まっている。


「で、どうする? 保健室まで突っ切るにはちと数が多そうだ。とりあえず四階に逃げるしかなさそうだが、そっからの打開策が浮かばねえ」

「大丈夫! そのことならボクに任せてよ。ちょっとだけ時間を稼いでてもらえるかな」


 くろこがどうするつもりかはわからないが、礼央はこの式神を信じることにする。『かなしみ』をこれ以上、この学園に広げさせるわけにはいかない。


 礼央の返事を聞くと、くろこは姿をサッとかき消した。


  ◆


 ――ねっ! いっちゃん! 陰陽道に恋のおまじないってあるの?


 太一の脳裏を少女の明るくはずむような声がよぎる。

 礼央と初めて会った日から、ふたりは屋敷を頻繁に抜けだしては、野球チームの練習に加わるようになった。もちろん、保護者の許可をもらえないので正式なメンバーにはなれなかった。公式試合はチームを応援することしかできなかったが、それでも同世代の少年少女たちと一緒に過ごす時間は、今まで体験したことのない輝きに満ちていた。


 中でも、礼央はふたりにとって特別な友達だ。そして、礼央の幼馴染であるその少女とも親しい間柄になった。

 世間とほぼ隔絶されて育ったようなふたりと、出会ったその日のうちに打ち解けるくらいだ。今ならコミュ力おばけと称されたかもしれない。スポーツとオシャレとおしゃべりが大好きで、特に恋愛の話と怖い話に目がなかった。


 その日も彼女は少女漫画誌で読んだ恋まじないの特集記事について、ふたりにおもしろそうに語ってくれた。

 想い人の上履きをはいて三歩進むだとか、特定の時間にお祈りするだとか、陰陽道の専門家として育てられた太一にとっては、バカバカしくて、辟易してしまうような与太話。


 だから、つい少女の言葉を否定してしまった。そして、漏らしてしまったのだ。自分たちの素性を……。

 太一は後悔する。話の腰を折られて怒ってしまった少女をなだめるためとは言え、あんなにも軽々しく陰陽道について話してしまうなんて。


 太一たちが陰陽道を学んでいることを知った少女は、怒りから一転して好奇心に目を輝かせ、いろいろと質問してきた。太一は壱絆家の――自らと妹の出自に関すること以外で、答えられそうな質問には極力答えた。はぐらかすこともできたはずなのに。なぜ、あんなことを教えてしまったのだろう。

 教えなければ、楽しかった夏の日々はもう少し長く続いたかもしれないのに。


 なぜ今、あの日のことを思い出しているのだろうか? なぜ、今まであの重大な罪の記憶を忘れてしまっていたのだろうか? 

 絶対に忘れてはいけない失敗だったはずなのに。


 ◆


「クズちゃんと稲置先輩って、昔からの知り合いだったんですか?」


 美月が礼央にその質問をしたのは、午後十時を少しまわったばかりのことだった。

 三人がいるのは中央棟四階図書室。

 葛葉が今までの事情を美月に説明するかたわら、礼央は蜘蛛の進攻を食い止めるべく扉の前に長机を積み上げて即席バリケードをこしらえ終えたところだ。


 美月は最初こそ話についていけないという様子だったが、あまりにも突飛すぎる話を聞くにつれ、開き直ったのか徐々に状況を受け入れる心境になってきたようだ。今では彼女のほうから話をふるまでに落ち着きを取り戻している。


「あー、それな。おれも聞きたかったんだが、葛葉。おれとお前って、入学以前に会ったことってあったけ?」

「やっぱり、覚えて……、ないの……」


 葛葉のかなしげな呟きに、礼央も胸に痛みを覚えた。

 入学当初からふたりが自分に対してつっかかってくることに疑問を感じてはいた。もしかしたら小学校か中学校時代に、何か間接的にでも怒らせるようなことをしたのだろうかと考えたことは幾度もある。だが、礼央に心当たりと言えるものを見い出すことはできなかった。


「すまん。正直よくわからねーんだ。昔、お前らに迷惑かけたことがあったんなら、あやまる」

「ううん、迷惑なんかじゃないの。むしろその逆。ずっと先輩に感謝していたの。わたしたちのほうがあやまらないと……」


 そこで不意に葛葉は言葉を詰まらせた。


「どーした、葛葉?」

「な、なんでもないの……」


 葛葉はあわてて何かを振り払うかのように首を振り、礼央に問いかけた。


「あのね、五年ほど前の夏なんだけど、本当に思いだせないかな。わたしとお兄ちゃんが野球をしている先輩たちと出会ったのは」

「おれが小六の時か……」


 ふと左腕全体に痛みが走ったように感じた。とっさに右手をあてたが、すでに痛みの感覚は去っていた。おそらく錯覚だ。今は太一の身体を借りているのだから、左腕が痛むことなどありえるない。


 リトルリーグ時代。何もかもが楽しく、輝かしい未来が待っていると無根拠に信じることができた日々。今となってはあまり思い出したくないが、目をそらすわけにはいかない。


 試合に勝つことよりも、子どもたちが野球を楽しむことを重視するチームだった。

 監督は良く言えば子どもの自主性を尊重、悪く言えば大雑把で子ども任せな中年男性で、締めつけが他チームよりも厳しくないのが最大の特徴。そのため、メンバー以外の子どもが体験入団という名目で、遊び半分に練習に加わることも多かった。中には正式に入団しないまま、練習に加わり続ける子も珍しくはなかったように思う。


 葛葉と太一もそのような非公式メンバーだったのだろうか。


 礼央は記憶をさかのぼる。――そういえば、あの夏も……。いや、でもあのふたりは、確か……。錯綜した記憶の断片が礼央の中で再び集合し、ひとつの形をなそうとしかけた瞬間、不意に物音が鳴った。


 何者かが体当たりし、扉を震わせる。扉の前に積み上げた長机も、振動にあわせて激しく揺れる。美月が怯えた表情を見せた。


「ちっ、あと少しで考えがまとまりそうだったのによ。もう来ちまいやがった。昔話はあとだ。今はこいつらを何とかしのがねえと!」

「うん! くろこが戻るまでここは死守するの! ミッキー、わたしたちを信じて!」


 葛葉が美月の肩に手を置きながら言った。美月も強く頷く。怯えは薄らいだようだ。


「ボクたちに任せれば大丈夫! 礼央くん、準備は整ったよ!」


 タイミングの良いくろこの登場に、礼央が安堵の声をあげる。


「くろこ! 待ってたぜ! で、どうすればいい?」


 扉の揺れは更に激しさを増している。即席のバリケードはもうもたない。


「やつらをできるだけ引きつけて、準備室に逃げこむんだ! とにかく走って」

「お、おう! わかった! とにかくやってみるぜ!」



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