第4章 - ④ 表と裏


 ◆


 姫子を傷つけた翌日、礼央を批判したチームメイトは誰ひとりとして練習場に姿をあらわさなかった。


 何も彼らは昨日のことを引きずって練習をボイコットしたわけではない。コーチを含む全員が謎の発熱に見舞われ、来たくても来れない状態にあったのだ。


 練習場では、礼央と姫子のふたりだけが向かいあわせに立っている。

 姫子からお守りを贈られた時と同じ光景。

 ただ、違うのは今が夕暮れ時ではないということだ。

 時刻は午後三時を回ったばかり。空はかき曇り、今にも一雨ひとあめきそうで、あたりは昼だというのに薄暗い。だから、夕日が少女の顔を朱に染めることはない。


 にも関わらず、少女の顔はあの日のように赤く染まっている。


 空より先に少女が泣いているからだ。

 泣きながら、姫子は礼央にあのリストバンドを返してほしいと要求している。


 礼央は戸惑う。なぜ、今更そんなことを。いや、理由なら想像はつく。昨日のことなら後悔しているし、自分の独善っぷりも反省している。姫子に謝りたくて、いてもたってもいられなかったくらいだ。


 ただ、あのリストバンド――おまじないを手ばなすのはおしかった。


 礼央と周りの差がつきすぎるのが不公平っていうなら、チーム全員におまじないのやり方を教えれば良いんじゃないかなと思う。全員にチャンスが与えられれば平等だし、みんなが上達すれば、今よりも、もっともっと野球自体を楽しめ、仲良くなれるはずだ。


 そう熱弁をふるう礼央に、姫子が返した言葉はたった一言。


 わかってない。


 結局のところ、礼央は最後までわかっていなかった。なぜ、姫子が礼央にお守りを渡したのか。姫子がリストバンドを贈ることで、状況をどのように変えたかったのか。


 礼央に野球が上手くなってほしかったわけじゃない。チームメイトのみならず、学区内の小学生全員から尊敬される存在になって欲しかったわけでもない。ましてや自分以外の誰かと仲良くなったりするなど、そんなのこれっぽちも望んじゃいない。


 望みはただひとつ。

 姫子と礼央のふたりだけで完結するシンプルな願い。


 余計な他人などいらない。邪魔する奴など消えてしまえ。


 太一も、葛葉も、チームメイトも……。みんないなくなってしまえ!


 そして、姫子は新たなおまじないに頼った。


 本屋で偶然見つけたオカルト雑誌の特集記事。憎い相手に報復したい、邪魔者を排除したい。そういった『呪い』の方法が紹介されていた。紹介しているおまじないのほとんどが記者の創作まじりの出鱈目なやり方。露悪的で悪趣味ではあるが、記事そのものに大した悪意はない。ごくありふれた内容。


 だが、嘘がひょんなことから真実になることもある。嘘を心から信じ通せば、嘘が現実に影響を与えることもある。それこそが呪術の真髄。


 たちまち効果は表れ、チームメイトとコーチは謎の病に倒れた。


 友達を『嘘つき』と罵った少女は、自分自身が『嘘つき』になることに決めた。心の底から『嘘』をつき通すと決意した。自分は『鬼』だと。『鬼』となって自分の望むものを手に入れるのだと。


 そのためならば、邪魔者は全て排除する。


 友達を痛めつけて心が痛まないのか? いや、痛まない。なぜなら、自分は『鬼』だから。血も涙もない『鬼』だから。


 今流しているこの涙が涸れ果てれば、『本当』の『鬼』になれるのだから。


 真っ赤な嘘が現実を醜く歪め、身も心も紅に染まった少女は鬼へと姿を変えていく。


 姫子の目に映るのは少年が恐怖にひきつる姿。やんちゃっぽいけどどことなく上品な顔立ちが大好きなのに、怯えて歪んで見る影もない。いつもみんなを励ます張りのある大きな声が大好きなのに、今は上ずってかすれて何を言っているのかわからない。正直、情けない。


 ああ、かっこ悪い……。なんて、無様……。


 こんな腰が抜けてへたりこむ姿、わたし以外の女の子が見たらなんて思うだろう。


 でも、わたしだけは変らない。


 どんなに礼央がかっこ悪くても、大好きって気持ちは変らない。


 どうしようもなくてダメダメな礼央をほかの人が大嫌いになっても、わたしだけは変らず大好きだよ。だから、わたし以外は見ないで。わたしが見ている場所以外にはいかないで。ずっと、わたしと一緒にいて。ずっとわたしの中にいて。


 姫子もまたわからなくなっていた。礼央が何を見て怯えているのか。自分がどのような姿へと変じてしまったのか。


 振り乱した髪から突き出た角も、口から突き出た乱杭歯も、異様に伸びた両手の爪も……。堕ちた自分の姿に気づくことなく、礼央のもとへとにじりよっていく。


 が、突如練習場に出現した気配に、少女は動きを止めた。


 気配は複数。鬼となり研ぎ澄まされた五感が、いずれもただならぬ力の持ち主と姫子に告げる。その内、ふたりについては良く知っている。


 太一と葛葉!


 あれほど強く願をかけたはずなのに! まだ邪魔をするというの!


 ◆


『……、……。レオ! ちょっと、ちゃんと聞いてるの!』

「……、すまねえ。蜘蛛の毒にあてられてたみてえだ……」


 いつの間にか、通話相手は西中島からメリッサへと変っていた。


 呼び覚まされた記憶のあまりの生々しさに身震いする。奇妙な感覚を伴う回想だった。自分のみならず、姫子の感情までも、自分の記憶のようにありありと思い出せたのだ。


『そう、で、本当の記憶は取り戻した?』

「ああ……。まさか今まで本当だと思っていた記憶がでっち上げだったなんて、正直信じられねえし、どうすりゃいいのかわかんねえけどよ。それでも償わなきゃなんねーし、謝らなきゃならねえ。礼をいわなきゃならねー奴だっている」

『それ聞いて安心したわ。じゃあ蜘蛛なんかの思惑にはまって、ウジウジいじけてるヒマなんてないのはわかってるんだ』

「ま、そーいうことになるな」

『じゃあ、わたしが今から作戦を授けてあげる。指示を良く聞いて、しっかりと実行すること。オーケー?』

「って、なんで、ヒノさんじゃなくてお前がリーダーやってんだよ! まあ、いいか。その作戦でクソッタレ野郎に一泡吹かせられるんならな」

『もちろん! 決まってんじゃん』

「了解だ。ビアス大佐殿。妙案とやら、聞かせてもらおうか」


 ◆


 ――オン アキシュビア ウン オン アキシュビア ウン


 苦悶の表情を浮かべ固く目を閉じた太一が、一心不乱に真言しんごんを唱えている。


 激しい熱に見舞われ、呼吸は荒い。全身汗だくになりながらも、結跏趺坐けっかふざの姿勢を崩さず、右手の四指は綺麗に揃えて地に触れる。


 金剛界五仏こんごうかいごぶつ一仏いちぶつ、阿しゅく如来の真言に触地印そくちいん。密教に伝わるこの真言と印の組み合わせは、魔を退しりぞかせ煩悩をはらうとされている。


 目覚めた力は瞬く間に勢いを増し、太一の精神を飲みこもうとした。


 姫子の一途な思いから生じたもうひとりの姫子。礼央の身体の中で眠っていた彼女が魂を食らおうとしているのは愛しき幼馴染か、憎き友か。鬼にどこまでの思考力があるかはわからない。

 太一も姫子に対してすまないという思いはある。さりとて、その望みを受け入れるつもりはない。力に屈すれば無貌に屈することになる。そんなのは御免だ。


 体内に荒れ狂う鬼の気に、全力を持って対抗する。いや、対抗するのではない。太一は礼央の左腕に強く語りかける。

 力任せに抑制するのではない。鬼が繰り返す恨みの気に目をつぶり、耳を塞いでいたのでは、いずれ強烈な負の力にこちらがねじ伏せられてしまう。


 今なすべきことは対話だ。


 野球がボールを打ち返すだけのスポーツではないように、陰陽道も悪しき人や霊をただ滅するだけではない。投げて守るだけではないように、願いや悩みを聞くだけではない。


 野球にしろ、陰陽道にしろ、何事にも表と裏がある。いずれか一方では成り立たない。片面だけを見ていては、永遠に話にならない平行線だ。だから、姫子との対話という千載一遇の機会を大切にする。


 表と裏に白と黒。はっきりとしているようで、良く見れば表の中にも裏はあるし、白の中にも黒はある。


 太一は心中に陰陽魚いんようぎょの図を描く。白と黒、ふたつの勾玉が交差し、ひとつの円を形づくった図形。

 それは真理を映し、過去を明らかにする鏡であり、太一と姫子が語り合う場だ。


 いつしか、呼吸が整い、汗はひいていた。全身を溶かすような熱もない。穏やかな気配に満たされ、太一はそっと目を開けた。


 目の前には、少女がひとり。あの時と変らぬ幼い姿のまま座っていた。


 少女の泣きはらして腫れぼったいまぶたから、一筋の雫が滴り落ちた。

 心が人と鬼のふたつに分かれても、結局涙が涸れ果てることのなかった少女の名を、太一はそっと呼んだ。旧友と再会する喜びをこめて。


 ◆


 あと一息、もうあと一息で堕ちよるわ! 蜘蛛は歓喜に打ち震え、今にも笑い出したい衝動をかろうじて抑えこむ。巣に絡めとった獲物が怯え、悔やみ、恐怖し、今にも屈しようとしている。待ちわびた瞬間がようやく到来しようとしているのだ。


 小娘の割にはよく耐えた。が、それもここまで。悲願達成の時はもうすぐなのだ。これほど愉快なことがあろうか。我らを踏みにじったものども! 支配者気取りの痴れものども! 貴様らの時代はここまでよ!


 実際のところ、人であった時のことなど土蜘蛛は微塵も覚えてはいない。

 かつて様々な時代にその時々の支配者への恭順をこばんだものたちがいた。彼らは軽んじられ、蔑まれ、罵られ、うとんじられ、虫けらのように死んだ。その晴れることのない怨みの残滓残滓が寄り集まり化生けしょうしたのが、土蜘蛛という存在。


 彼、いや彼らを形成するのは、あがき、のた打ち、這い上がろうとし、結局何もできずに地の底で朽ち果てた、ひどく行き場のない想いのみ。人であったころに追い求めた理想など欠片も残っていない彼らに、今さら建設的な願いなどはない。あるのはただ現行の制度を、基盤を、根底から覆したいという破壊衝動のみ。


 ――所詮、わしらは取るに足らぬ虫けらよ。そのみじめな虫けらに蹂躙残滓されるお前らは何なのだ。陰陽師? 笑わせおる。自らが生んだ罪の鎖にがんじがらめとなり、もがき苦しむ貴様らは何様だ。わしらと貴様ら、どこに違いがあるのか! ああ、愉快。この上もなく愉快!

 貴様らが許しを請うさま以上にわしらにとって愉快なものなぞ、あるものか。さあ、いくらでも暴いてやろう。貴様らの罪を。いくらでも断罪してやろう。膝を屈するまで、どこまでもなじり続けてやろう!


 渦巻く怨嗟のおりが土蜘蛛の口腔から溢れ出た。ひび割れた哄笑が木霊となって反響し、図書室中を邪気で満たしていく。


 すでに美月とやらは鬼へと変じた。額から生えた角は天を突くほどに伸び、乱杭歯はどのような獣の強靭な皮も容易に引き裂くだろう。膂力は獅子や虎の首を易々とへし折れる程に強化した。まことに見事な生成りぶり。その上、全身を覆う蜘蛛の骸は鉄壁の装甲。

 さぁ、仕上げといこう。少女を、世界を闇に堕とそう。


 土蜘蛛は美月の肉体を操り、葛葉の首にそっと手をかける。まだ力はこめない。最後に吐かせる言葉がある。


「小娘! 罪を存分に思い知ったか。さあ、申し開くべきことがあろう。わしがとくと聞いてやるわ!」

「御託はそこまでだ! うだうだぬかしてんじゃねえぞ、蜘蛛野郎!」


 応じる声は、少女とは別の方角から飛んできた。邪気を払拭するかのような凜とした声の主はカウンター上にいた。

 仁王立ちとなり、土蜘蛛を睨んでいる。右手にはスマートフォン。その画面に呪符の図柄が表示されているのが、土蜘蛛からもかろうじて見てとれた。


 何とも無粋なこわっぱよ、と蜘蛛は鼻白む。この上、子供だましの小道具で即席の陰陽師になったつもりか。興がさめるようなことをするでない。


 少年は蜘蛛の反応など気に掛ける様子も見せず、なお吼える。


「おれたちの罪は、おれたちだけでけじめをつけなきゃいけねえんだ。謝らなきゃいけないのは間違ってもてめえじゃねえ。てめえにゃ何も関係ねえし、非難される筋合いもねえ。しゃしゃってんじゃねえ!」

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