第4章 - ③ 生成りの貌
おまじないは発案者である太一と葛葉の予想を上回る成果をあげた。一日一度のごくわずかな効果時間を最大限に活かすため、太一がずっと練習につきあったのも一因だが、何より礼央のやる気が大きかったのだろう。投球技術はみるみる向上し、たちまち周辺地域のチームに対等な勝負ができる打者はいなくなってしまった。
当然、練習試合は連戦連勝。エースとしての実力が開花した礼央は、地域の少年少女達のヒーローとなり、野球に関わる大人たちからも注目される存在となった。
葛葉はあのころのことを思い返すと、胸が熱くなるような感覚を覚えずにいられない。ごくわずかではあったが、確かに充実した時間だった。礼央と一緒に太一と葛葉も素敵な夢を見ることができた。
短い夢だった。すぐに夢は形を変えていく。
おまじないはある強力な呪を生むきっかけとなり、彼らを
悪夢の始まりは、少女同士の
いや、あれを諍いと呼ぶのは適切ではないだろう。ひとりがもうひとりを一方的に責めているのだから、喧嘩とも言えない。
葛葉の脳裏に、忘れていたはずの、あの日の姫子の恐ろしい形相が蘇ってくる。優しく、話好きだった少女が、人が変ったように我を忘れて、自分たちを罵る様を。
――ぜんぜん、効き目なんかなかったじゃない……。
――こんなの、わたしは望んでなかった。こんなのじゃ……、ない!
――わ、わたしは、わたしは……、ただ、好きになってもらいたかっただけなのに……、礼央に好きって言ってもらいたかっただけなのに。だけど、なによ! 結局、嫌われちゃったじゃない! わたしを見ようともしてくれなくなったじゃない!
――どう、責任とってくれんのよ! ねえ、どうしてくれんのよ!
幼い葛葉は、なすすべもなく姫子の叫びを聞いている。ただ、その場に立ちすくむしかない。反論することもできない。
確かにわたしが、わたしたちの考えがあまりにも浅はかだったせいなのだから。
もとは姫子のためのおまじないだったのだ。それがまったくの逆効果だったのだから、非難されても仕方がない。
でも、初めて友達になれたと思った同世代の少女のこのような姿を見るのは、とてもつらかった。つらくてつらくて、目に涙が溢れてきそうになるのを耐える。
いついかなる時も人前で涙を流してはいけない。
それが壱絆家に生まれた葛葉に課された掟だ。このような状況であっても、掟は守らなければならない。掟を破ればさらなる災厄に眼前の姫子を巻きこんでしまうかもしれない。だから、必死に涙をこらえた。
ことの発端はその日の試合中に姫子がしたエラーだった。
エラー自体は何と言うことのない凡フライのキャッチミス。重要な場面でのミスではなく、流れに大きな影響を与えることもなく、試合自体は勝利で終えることができた。
しかし、姫子のエラーに、礼央がいつになく苛立ちをあらわにしたのがいけなかった。
予兆は以前からあった。
連勝が続く中、チームは礼央ひとりに全てを任せきるスタイルにすっかり変貌してしまっていた。彼が投げれば基本的に打たれることはないし、バッティングでもヒットを連発。
当然、ひとりの選手に頼りきる野球などつまらない。最初こそ勝利の熱気にうかれたチームメイトたちが自チームの勝利に喜びを感じなくなるには、時間はそうかからなかった。
主役になりたくて仕方がない年頃の少年たちにとって、脇役になる機会すら与えられない試合など、なんの楽しみも見いだせるはずがない。
あれほど仲の良かったチームの人間関係は着実に崩れつつあった。そして、その日のエラーがついにチームの抱えた歪みを表面化させた。
まず、礼央がチームメイトの守備のまずさに対する不満を爆発させた。
――以前はこの程度のエラーなんかありえなかった! なのに最近は連発だ! お前ら、気がゆるみすぎなんじゃないか!
礼央の言葉は必死そのもので、心から友達と野球を楽しみたくて叱咤しているのだが、彼らの胸に響くはずもない。
ボールが常に飛んでくる可能性があった夏休み前半と、たまに相手の打ち損じが飛んでくる程度の今では事情が違う。単純な凡フライでも、気構えが出来ていないとミスしやすいのは当たり前。小学生に常時集中力を保てというのも無理な話だ。
そもそもこんなことになったのは礼央のせいなんじゃないかと少年たちは考えてしまう。
ひとりだけ勝手に上達して、おれたちを置き去りにしていったくせに、まるでおれたちが努力しないのが悪いみたいなことをいって怒るなんて、王様にでもなったつもりか――チームメイトたちから口々に反論が上がり、激しい言い争いへと発展した。
エラーの張本人である姫子が礼央に謝ることで喧嘩を止めようとしたものの、それぞれの言葉がヒートアップしていき、口汚さを急速に増していく中では、彼女の努力も逆効果だった。むしろ、野球が上達して調子にのった礼央が幼馴染をいじめているような雰囲気になって、場をさらに紛糾させた。
葛葉もこの場をおさめようと焦りはするものの、何をすればよいのかさっぱりわからない。太一にすがるような視線を向けるが、当の太一も日頃見せることのない困惑の表情を浮かべている。間が悪いことに、監督は急用があってすでに帰宅してしまっていた。止めに入ってくれる大人は誰もいなかった。
そして、その後の運命を決定づける一言が飛び出たのは、皆が口論に疲れ果て、最悪の空気ながらも、とりあえず解散の流れになったあとのことだった。
グラウンドには礼央、姫子、太一、葛葉が所在なく立ち尽くしている。
礼央が発したその言葉は、幼馴染の姫子にではなく、太一と葛葉にむけられた。
――なあ、太一だったらさ、あんなフライ楽勝で捕れたよな。葛葉もさ。お前らだったらわかってくれるよな。なんであいつら、わかってくんねーのかな。野球をもっと楽しみてーのによ。
その瞬間、姫子の中で何かが崩れた。
礼央はわたしを見ていない。礼央が見ているのは太一と葛葉。頭も運動神経も良くて、見た目もアイドルが逃げ出すレベル……。わたしなんか比較にならないくらいに素敵な友達。
激しい衝動に駆られ、姫子はその場を逃げるように駆けだした。
誰かが追いかけてきた。
礼央かな? いや、葛葉と太一だけ。
なんだ、追いかけてきてくれさえしない。
おまじないなんて効かないじゃない!
◆
自分を責めさいなむ声に、葛葉は叫び声を上げそうになった。
――あの日、ヒメちゃんが感じた痛み……、嘆き……。
姫子の叫びが、怒りが、絶望が、哀しみが、生々しい感情が心中に満ち溢れ、ともすれば
苦しい! やめて! 許して! そう叫んでしまえば、どれだけ楽になれるだろう。しかし、葛葉は衝動をすんでのところでこらえる。
そう言わせるのが土蜘蛛の狙いなのだ。あの日も葛葉は結局涙を流さなかった。家の掟を守り通した。それが翌日のさらなる引き金になったともいえるが、あの日泣かなかったこと自体は後悔していない。
姫子の激情を忠実に再現し葛葉に追体験させることで、土蜘蛛は葛葉の精神を完膚なきまでに打ち砕くつもりだ。なんと、卑劣な手段があったものか。
あの騒動があった翌日、姫子は鬼へと姿を変えた。
――彼女を鬼へと堕としたのは、わたしたちだ。そして、礼央から野球を奪ったのも。
その責任を忘れて今までのうのうと暮らしてきた。そう思うと、それが敵の罠とわかってはいても、後悔は激しい痛みとなってなおさらきつく胸をしめつける。
何も忘れたくて忘れたわけではない。
おそらく記憶喪失の原因は、当時壱絆家の宗主代行であった叔父の指示によって西中島先生が関係者全ての記憶を消し去ったためだろう。霊障の治療がまず第一義、陰陽道の存在を一般社会から秘匿するのが第二義。いずれにしろ必要かつ適切な処置ではあったはずだ。叔父や西中島に責任を転嫁するつもりはない。
それでも、「なぜ?」と問わずにはいられない。なぜ、わたしたちの記憶まで封じこめてしまったの? わたしたちから
「ふん、思うたよりは忍耐強い小娘よ。だがのう。ほれ、もっとわしをよく見てみるが良い。ほれ、わしのこの顔を。さあ、さあ。とくとご覧じろ。この
言い放つや、蜘蛛の醜悪な顔がどろりと溶け、人の顔が現れた。葛葉は思わず声にならない呻きをあげた。
取ってかわったのは、美月の顔だ。
その肌は青白み、両の目は蜘蛛に憑かれた時のように朱に染まってはいないが、涙で潤んで芒としている。
「……く、くずちゃん……、ごめん……。ごめんね……、ごめんなさい……」
「……どうして、どうして、ミッキーが謝るの……。悪いのはわたし……。全てわたしが悪いのに……」
はたして、今、葛葉の目に映っているのは、美月の姿か、それとも。
美月は美月で、葛葉の声が届いていないのか、ただひたすらに謝罪の言葉を繰り返す。
繰り返すたびに、青白い顔に徐々に朱がさし、夕日よりも濃い紅へと染まっていく。
ああ、それはまるで……。
そう、まるで姫子が鬼へと変じたあの日の再現だ。
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