第4章 - ② 鬼臆


 ◆


「きゅーきゅーにょりつりょー? って、何だよー、それ。ハハッ! 変なの! そんなのが呪文なのか?」


 ――ああ、確か幼馴染が教えてくれた呪文の言い方が妙におかしくって、おれは笑ってしまったんだ。


 後片付けを終えた日没間近の練習場。

 チームメイトはすでに帰宅し、残っているのは礼央と、対面に立つ少女のみ。


 彼女の名は高橋姫子。礼央よりひとつ年下の幼馴染。兄妹のように気心の知れた仲だ。しかし、今の彼女は緊張のあまり全身を強張らせ、リストバンドを握りしめた右手も震えている。ワンポイントに二匹の銀のキツネを刺繍であしらったデザインは姫子にしてはおとなしめだが、かっこいい。流石にセンスが良いなと思った。


「ありがとよ! ヒメ! 試してみるぜ!」


 リストバンドを礼央がつかみ取ると、姫子の表情は一転して和らいだ。


「ま、まあ、わたしがかけたおまじないだから、あんまり期待はしないでよね! あと、ちゃんと効果あったら、いっちゃんとくーちゃんにもお礼してあげてね。手伝ってもらったから……」


 そう言って、はにかんだ姫子の顔は夕日よりも遙かに真っ赤だった。


「って、呪文よりヒメの顔見てるほうがおもしれーや」


 その様子が妙におかしくて礼央がからかうと、姫子は少しムッとしてみせたが、すぐに礼央と一緒になって笑いだした。


 今まできれいさっぱり忘れていたのが嘘のように、失われていた記憶が次々と浮かび上がってくる。あまりの情報量の多さに頭がどうにかなりそうだ。


 あのお守りのリストバンドを姫子からもらったときにかわした会話が、昨日のことのように一字一句違わず思いだせるのだ。


 リストバンドを右手首につけて、おかしな呪文を唱えてから練習すると、野球が凄く上達するらしい。そういう触れこみだった。

 受け取りはしたものの、礼央は半信半疑どころか、お守りの効果を欠片も信じる気にはなれなかった。


 そもそも、小学生のころから礼央は幽霊だとかお化けだとか、そういった類は一切信じない少年だった。おまじないは単なる自己暗示で、幽霊は見間違い。クラスの女子が噂する学校の怪談はバカバカしい。不思議なことは全て科学的に説明がつくと思っていたのだ。


 ただ、妹のように思っている少女が、自分のためにお守りを贈ってくれたこと自体は素直に嬉しかった。


 それに、最近よく一緒に遊びにくる双子がおまじないの手助けをしたというのも、礼央の心をざわつかせた。


 ふたりが最初に練習場に現れた時、誰もが二歳ほど年の離れた兄妹かと思ったのだが、打ち解けることで、双子であることを知った。体格に差があるのは二卵性双生児だからということも。その整った容貌と上品な物腰から、第一印象では近寄りがたさを感じさせるふたりであったが、すぐにどちらも野球のセンスが抜群に良く、礼央の夏休みの宿題を手伝ってくれるなどの気さくな面があることも知った。


 初めて出会うタイプの友達に魅了されるのは当然と言えたし、双子の片方に対して、友情と異なる特殊な感情が心中に芽生えるのも、そう時間はかからなかった。


 ◆


 太一は、突如として左腕に電流がほとばしったかのような痺れを感じた。

 あまりの痛みに、顔に幾筋もの汗が浮かぶ。

 これは無貌の仕業ではない。礼央の記憶が戻りつつある証だ。


 肉体が入れ替わったとはいえ、まだ半日が過ぎた程度。心と身体の密接な繋がりは簡単に切れるものではない。どこかにいる礼央の心の揺れが、太一が間借りしている肉体に激痛となって現れているのだろう。

 左腕を抱えこみながら、この痛みに苦しむのが自分で良かったと、太一は思う。


 礼央の記憶を封じたのは壱絆家であるし、野球への情熱を奪う原因を作ったのも太一。ならば礼央の肉体を借りて自分が苦しみに耐えるのは、因果応報の原則に従うならば、至極当然ではなかろうか。

 だが、この状況をこのままにしておいて良いものでないことも、また確かである。


 太一には、おぼろに霞んだ黒い縄状の影が左腕に幾重にも絡み合い、蛇のごとくのたうつ様子がはっきりと見えている。

 禍々しき影の正体は鬼の瘴気だ。

 無貌と邂逅したおり、星辰神社に立ちこめた気もただならぬものではあったが、今、左腕から発せられる気の濃密さとは比ぶべくもない。


 ――凄絶な鬼の気配。


 まず、この気はどこから生じたものなのか?

 太一を封じこめるために作られた空間は、式神であるくろこを放つのがやっとなほどに堅牢な結界で封じられている。少々は外からの気を取りこむこともあるだろうが、外部からここまでの邪気が集まってくることなどないだろう。

 となると、この気の出所はひとつしか考えられない。


 礼央の身体から――

 左腕から生じているのだ。


 そう、封じたのは少年の記憶だけではない。

 かつて、少年へと向けられたある少女の『おもい』が『鬼』と化した。その『鬼臆きおく』の断片こそ、蘇りつつある瘴気の正体であり、礼央の中に封じられていたものであった。


 ◆


 リストバンドを姫子から渡された翌日、礼央はとりあえず効果を試してみることにした。

 姫子の説明を頭の中で繰り返してみる。

 練習前に右腕を天に掲げて「きゅーきゅーにょりつりょー」という呪文を唱えること。そうすれば必ず野球が上達する。ただし、使用は必ず一日一回のみ。何回も唱えすぎると良くないことが起こるかもしれない。


 姫子は特におまじないの使用制限に関する点を強調していたが、どんなペナルティーがあるのかという具体的な説明はなかった。怪談めいた曖昧な語り口で濁してはいたが、どうやら姫子自身、はっきりとはわかっていなさそうだ。


 ――と、とにかく! それだけ……えっと、れ、れーげんありゃりゃかなおまじないなのよ! だまされたと思って一度使ってみて!


 姫子の説明はなんだかぐだぐだなまま終わった。霊験あらたかを噛んでしまって言えてないところから、どうも誰かから又聞きした知識をそのまま暗記して喋っているように思えたが、特に気にはしなかった。


 おまじないに呪いじみた使用制限があるあたりも、効果を強調するためのはったりだろうと思っただけですました。


 「きゅーきゅーにょりつりょー」というのが、陰陽道で用いられる呪文であることは、すでに調べてある。漢字で「急急如律令」と書くことも。どうやらマンガなどでわりと使われているみたいだ。


 姫子から聞いた時は、きゅーきゅーは九球のことかな、と思ったのだが、それは違った。三球三振で打者を三人連続で切って捨てれば、ワンイニングは九球で終わる。そこからの単純な連想だったが、確かに野球上達の呪文として縁起が良いような気がする。


 冗談めかした調子で唱えてみた。効果を信じているわけではなく、若干の照れ臭さを感じてもいたので、おのずと小声になる。

 まじないとは、術者が心から効果を信じることによって、初めて力を発揮するものである。礼央の態度は呪の執行者としては不適切なものといえるだろう。


 だが、それでも――


 まじないはその効果を発現させた。


 リストバンドの裏に記された太一の文言の巧みさと、葛葉の祈祷の敬虔さ、姫子の礼央に対する想いの強さ。それらの要素が絶妙に噛みあった結果、まじないは呪として成立してしまった。


 一瞬、眼前の光景が一時停止したかのような感覚に見舞われたあと、礼央の周囲のみ世界の有りようが急激に変じた。


 グラウンドに舞い散る砂塵の動きや、空を飛ぶ鳥の規則的なはばたきが、ごくわずかな動作までつぶさに見てとることができた。自分ひとりが時間から切り離され、世界から取り残されてしまったかのような孤独感に襲われ、礼央は思わずその身を震わせた。


 ――なんだよ、これ……。


 時間の流れが変わっちゃったみたいじゃないか! おれは夢でも見てんのか……。


 映画のSF超大作や特撮ヒーロー番組で見たワンシーンが、今まさに礼央の眼前で展開している。

 加速装置? クロックアップ? いや、礼央が唱えたのは「急急如律令」だ。それともこの五文字にはそういう意味があったのか。


 ――そーだよな。だって急がふたつも重なってんだ! 救急車よりも特急列車よりも速くなって当たり前! 九つの球よりはそれっぽい!


 頭の中は突然、非現実に突き落とされた影響で混乱しっぱなしだ。最初に感じた戦慄が薄れると、凄まじいまでの興奮状態が訪れた。


 ――す、すげー! おまじない、すげー!! これって、高速移動とかできるんだよな! 野球とどう関係あんのかわかんねーけど、とにかく、すげー! おいおい、なにテンション上がりまくってんだ! 落ちつけ! 落ちつけ! みっともねーぞ!


 アクション映画のヒーローのような立ち回りが今ならやれそうな気がして、頭の中で彼らの動きを思い浮かべて身体を動かしてみる。が、意に反して思うような動きにはならなかった。


 自分自身の動きもスローモーション映像を見るかのように知覚できるのだが、それゆえにアクションヒーローの身体の動かし方と、単なる小学生でしかない自分との差異がはっきりとわかってしまう。


 肩を落としかけた礼央だったが、次の瞬間、ある閃きが訪れた。


 ――違いがあるんなら、お手本をまねればいいんじゃねーか。このおまじないを使えば、何がプロと違うのか、すぐわかるはず!


 おまじないの効果はそこでいったん途切れた。通常の世界へと還ってきたものの、興奮は家に帰ってもまだ冷めなかった。


 その夜。礼央はある元プロ野球選手の登板シーンを録画したビデオを何度も再生し、投球モーションを頭に刻みつけた。セ・パ両リーグで活躍し、所属したチームを何度も優勝へと導いたそのベテラン投手の完成されたフォームは、野球少年たちがお手本とするのに、もっともふさわしいと評されていた。


 翌日から、本格的におまじないを活用した練習を開始した。「急急如律令」と唱える声はもう小声ではない。プロの選手のようなコントロールとスピードを手に入れるために発せられるその声には、充分な気合がこめられており、当然、呪をさらに強める効果を発揮した。

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