第4章 - ⑥ 調伏

 あの日と同じように。いや、あの日以上の胸の高鳴りを感じつつ、リストバンドの代わりに懐中時計の文字盤を天にかざす。あの日以上の決意を抱いて、同じ呪文を、術を今一度、我が身に行使する!


「こー、わっ……、ぱぁー、がぁー!」


 術の発動に呼応して、こちらへとむかってくる蜘蛛の声が、動きが、時間そのものが体感的に引き伸ばされる。忘れていた――しかし、それは確かに懐かしい、特殊な感覚。


 太一と葛葉、――そして、姫子が与えてくれた力。本来なら、二度と使うことも思い出すことすらもなかった力。その力を持ってして、過去を――かけがえのない思い出を、現在を――何物にも変えることのできない仲間を汚そうとする蜘蛛を撃退する!


 まずはじっくりと敵の動きを観察し、頭の中でメリッサに与えられた攻撃予測パターンに当てはめる。


 さいわい、蜘蛛は一番単純な行動である『突進』を選択した。


 礼央は懐中時計からスマートフォンに持ちかえ、炎塊をまっすぐ飛ばす。続けて鋭く左斜め方向に曲がるような軌跡で。さらには直前で落ちるような挙動になるように。


 ストレート、カーブ、フォーク。多彩な球種でバッターを翻弄する投手の如く術式を自在に使いわける。


 炎塊は突進する蜘蛛によって簡単に切り払われ、かき消される。「なめるな!」と蜘蛛が眼差しのみで語るのがわかった。


 だが、それでいい。それで充分だ。

 再度、連続で炎塊を放つと、礼央はスマートフォンをポケットに仕舞った。


 今の礼央にこそふさわしい、この手に馴染んだ決め手がある。高校生である礼央の日常の象徴ともいえる武器。今を守るため、仲間から託された切り札を固く握りしめる。


 M92F――現米軍制式採用拳銃のデザインを模した電動エアガン。

 その照準を炎塊の攻撃を捌く蜘蛛の胴体にピタリ据える。確実に的をとらえることができるように、一番、装甲が剥げ落ちた面積の広い部位に狙いをつけ、引き金を絞る。


 眼前で暴れる蜘蛛の姿に――


 あやかしに取り憑かれ、我を失い、生きながら鬼と化した美月という少女に、かつての幼馴染の姿がかぶる。

 自分の手で助けることができなかった少女。助けようと飛び出したものの、結果的におのれさえも傷つけ、大人の手をわずらわせることになってしまった惨めな自分。


 それを今、わずか直径6ミリのちっぽけなバイオBB弾が打ち砕く。


 プラスチック製の、しかし、魔を祓い土へと還すという特殊な意味がこめられたBB弾が、少女への救いの手となり、目標へと突き進む。

 蜘蛛が大きく口を開くのが見えたが、ゆっくりと進む時間の中では、なんと叫んでいるのかもわからない。


 かまわず、礼央は弾層が空になるまで、引き金を何度も引き続ける。


 まめだの分身と対魔仕様BB弾による、内部と外部、両面よりの駆逐作業。その相乗効果は絶大なはず。


 だが、苦しみ、雄叫びをあげながらも、蜘蛛が突進をやめる気配はない。

 伝わってくるのは、完全にこの世から消え去る前に、礼央と美月だけでも共に連れていくという邪悪な意志。


 もうすぐ、時間の流れが元に戻る。


 生身で、陰陽の術の力なしで蜘蛛に対抗することができるのか? すでに覚悟はできている。メリッサの計画はここまで予測済み。

 高層ビルの屋上と屋上を渡る危険な綱渡り。今がまさに強い風に煽られた危険な瞬間。強風をしのいで、ゴール地点へと渡りきれるか、どうか。一番の勝負どころ。


 ガード姿勢をとりつつ、術の効果が切れるぎりぎりの瞬間まで、蜘蛛から目をそらさない。

 挙動を目に焼きつけ、その後の動きを脳内でシミュレートする。


 そして――効果時間が終わりをつげた。

 時間の流れが通常へと戻る。


 当然、蜘蛛の強烈な一撃も礼央目掛けて襲いくる!

 初撃の備えはできている。右手による強烈な一撃を、ガード体勢のまま蜘蛛のふところへと突っこむように潜りこんでかわす。続く左の一撃は逆に上体を大きくそらしてかわしきった。いいバネしてるぜ、と礼央は感心する。太一特有のしなやかな肉体だからこそできる動作だ。


 続く右ハイキックは全身で防御体勢を取りなんとか耐える。姿勢は完璧にも関わらず腕に走る強烈な痺れと痛み。骨にひびがはいったかもしれない。借り物の身体ゆえ、極力無傷で切り抜けたかったが、流石に厳しかったか。次の攻撃を食らえばあばらの二、三本は持っていかれるかもしれない。葛葉との約束もあるし大怪我はまぬがれたい。


 絶体絶命としか思えない状況、防御体勢をとった礼央が浮かべた表情は――笑顔。


「こわっぱが、この期に及んで何を笑う! 愚弄もそれまでよ! くたばれぇっっ!」


 叫びを上げつつ、蜘蛛が渾身の力を込めた右拳を振りあげる。


 その一撃は――

 放たれることがなかった。


 蜘蛛が宙に拳を振り上げたまま、石像のように固まって静止している。

 礼央の笑みは蜘蛛に向けた挑発のそれではない。視線は蜘蛛の肩越しに注がれている。そこに立つ人影にむけた、勝利を確信する笑みだ。 

「あとは任せたぜ、お前ら」

「おう、ばっちり任されたぜ! さあて、仕上げだ! 蜘蛛! 観念しやがれ!」


 立っているのは七条袈裟に豪奢な横被を纏った僧形の男。装いの格の高さに見あわず、外見年齢は若々しく、くだけた喋り方も不釣合いだ。

 その正体は――まめだ。僧形は彼が人に化ける時に好んで用いる姿だ。

 その手には両端に刃を持つ密教の法具――独鈷杵とっこしょが握られ、さらにその背後には天井に頭が突きそうなほど巨大な不動明王像が鎮座している。


「オイラたち――タヌキは弘法さまとは浅からぬご縁がありやしてね。まあ、オイラ自身は生まれが四国じゃないとはいえ、慕わせてもらってるんでさぁ。そんなわけで密教の秘術についてもちょいっとばかり学ばせてもらってるってわけでね」

「キツネとしてはちょっと不満なエピソードだけどね。まあ、この際、それは置いとくよ」

 独鈷杵に化けたくろこが口を挟む。

「「「「「キー! 地味な役回りだがしょうがねえ! オレたちの力、貸してやっから、きっちり化かしきれよ! タヌキ!」」」」」


 不動明王に化けた小鬼たちもまめだに声を掛ける。


「おうよ! キツネ七化け! タヌキは八化け! 化かしあいならオイラが一番! 陰険蜘蛛の化けの皮、ここらでとっとと剥がしてやらあ!」

「ぬ! ぬぅぅぅおおおぉぉうぅぅ!」


 蜘蛛の上げる雄叫びをかき消すように、まめだが独鈷杵を宙に掲げて振りおろす。


 ――ノウマク サンマンダ バザラダン カン


 その不動明王の真言には、今までのおどけた振る舞いとは、打って変わった荘厳な響きがあった。厳しさだけではない。日が落ちた薄暗い夜の図書室が柔らかな光で満たされていくような錯覚を礼央に与えた。


 実のところ、図書室の光源はわずかに増えている。蜘蛛は気づいていないようだが、礼央はそのことを知っている。その光源に火を灯したのは他ならぬ彼自身だからだ。


 電算コーナーに並ぶデスクトップパソコン。それら全ての電源がオンになっていた。

 モニター上に映し出された画像は、知らない人が見れば普通の仏教画としか見えないだろう。いくつもの仏像の姿を連ねて描いた図柄から、曼荼羅という言葉に思いあたったとしても、そこにこめられた意味を読みとれるものなど、そうはいない。画面上に表示された曼荼羅がプログラムで組み上げられた妖魔調伏の儀式がパソコン上で行われていることなど夢にも思うまい。


 礼央が与えられた最大の役割は、端的に言えばプログラムを実行することだった。

 メリッサからメールで送られてきたファイルを、蜘蛛に気づかれないように、パソコンにインストールする作業は、くろことまめだの二匹が上手くひきつけてくれたお陰で難なく成功した。パソコンの遠隔操作も回復や攻撃呪符の操作を合間に織り交ぜて上手くごまかした。


 美月の身体から蜘蛛を祓う術式を、内と外の両方ともに、成功させなければならない点が最大の難関だったが、それらすべてを乗り越えることができた。


 法具と不動明王に化したくろこと小鬼の力、そして、まめだが発した真言が決定打となり、土蜘蛛調伏プログラムは完成をとげた。


 何の変哲もないパソコンが、今や即席の護摩壇となって、邪を祓い、障りをのぞき、少女を迷い道から抜け出させる道標となる。


 部屋を満たした蜘蛛の瘴気は祓われ、清らかな気が満たされていく。


「終わりだ! 蜘蛛野郎! 今度こそ、人を弄んだ報いを受けやがれ!」

「くうぅぅぅ! そぉぉぉぉおおお! ぎゃぁぁああああ!」


 天を揺るがすほどの悲鳴を上げながら、蜘蛛の――美月の身体が激しく震える。血管を蠢く瘤もさらに激しさを増す。


 そして、美月の身体から、次々と蜘蛛の死骸が零れ落ち、煙のようなものが立ちのぼる。その色は黒。幾万の怨嗟が濁りこごった霧状の彼岸花。


「おぉおぉのぉれぇええ! ゆうぅぅるうぅぅさぁぬぅっぞぉ! ゆうぅぅるうぅぅさぁぬぅっぞぉ!!!」


 もはや喚き声は瘴気から生じていた。錆びつき、ヒビ割れ、汚れた聞くにたえない空虚な叫び。もう、うんざりだ。いい加減、終わらせてしまおう。ねじれた理想に、堕ちてしまった想いに安らぎを与えよう。


 ポケットからBB弾を一発取り出し、礼央は美月のもとへと一歩近づく。


 BB弾を握りしめ、宙に放ろうとしたところで、遮る手があった。


 白くか細い少女の手。先ほどまで捕らわれの身であったせいか、指先はまだ小刻みに震えている。少女は言った。揺るぎのない芯の通った言葉を。


「最後はわたしにやらせてなの」

「りょーかい! じゃ、シメは頼むぜ。こいつで決めてくれ」


 葛葉は託されたそれを空中に投じる。

 重さ0.2グラムの小球が放物線を描く。

 それが美月の頬の位置に来たところで、思いっきり右手を振りぬいた。


「わたしの友達をバカにするな!」


 図書室に平手打ちの音が鳴り響いた。

 叫び声がやみ、しばしの間、室内を静寂が支配する。


 しばらくして、BB弾が落下し床を転がる音と、倒れかけた美月を葛葉がしっかりと抱きとめる音が聞こえた。


 すすり泣く美月の背を優しくさする。


「クズちゃんの、びんた。効いたよ。ありがとう」


 ふたりの少女がそっと笑いあう。

 礼央が胸を撫でおろし、あやかしたちと共に笑う声が続いた。

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