第5章 - ⑦ 白鬼夜行

「――白面金毛九尾はくめんこんもうきゅうびの狐。それこそが正体よ」


 玉藻前たまものまえなど様々に名と姿を変え、国を滅亡に追いやったとされる、もっとも狡猾にして凶悪な妖狐。悪事の限りを尽くした果てに倒され、殺生石を生んだ伝説の大妖怪が、今まさに礼央たちの眼前に立っているというのか。


「いかにも。かような名で呼ばれたこともあったわ」

「伝承にある九尾の狐の魂をそのまま受け継いでいるのか、それとも殺生石に残された残留思念が独立して新たに意思を持ったのかはわからないけど、性根の捻じ曲がり具合に関しては伝承そのままと考えてよさそうね」

「じゃあ、ヒノさん。大和が言ってた白鬼ってのは……」

「ええ、おそらく相馬家に連なる陰陽師が九尾に取り憑かれて――」


 西中島が口にしようとした推論は、突然の九尾の哄笑にかき消された。


「クッ! ククッ! ハハッ! それは違う。見当違いだぞ、陰陽師」


 あざけるような態度は一撃を受けた時に見せた取り乱した様子とはほど遠い。虚勢をはっているだけなのか、それともまだ何か奥の手を隠しているのか。礼央は九尾の内心を想像してみようとしたが、相手は永き時を生きた狡猾な妖狐である。考えるだけ無駄だ。


 次に礼央は、有利な状況のまま一気呵成いっきかせいに攻撃を仕掛けて撃破してしまうべきか、それとも九尾が饒舌になっているのを利用してできる限り情報を引きだすべきか、思案する。なんとも判断に迷う状況だ。


「白鬼じゃないのだとしたら、あなたは誰の肉体を借りているのかしら? あなたの目的も知っておきたいわね。目的を聞かずに倒してしまったら、もやもやが残ってしまって気持ちが悪いもの」


 西中島が選んだ選択肢は後者――ではなかった。ごく自然に九尾に質問を発しながら、アンチマテリアルライフルのトリガーを引いてみせた。


 しかし、予想外の行動を取ったのは西中島だけではない。


「残念だが、詰みには一手足りんな!」


 魔弾の射手を前にした手負いの獣は、両手を手刀の形にし、自らの腹部と頭部に同時に突きたてた。

 腹部から噴き上がった鮮血の勢いは、先刻メリッサと太一が演じた茶番の比ではない。頭部のほうは損傷部位が広がり、破片が盛大に飛び散る。


 もはやこれまでと悟ったゆえの自決とは違う。これこそ九尾がさらなる逆転を狙った会心の一手。


 ヘリコプターが巻き起こす爆風によって血液が濃霧のように広がり、破片があっという間に周囲に散らばったことが、さらに西中島にとって災いした。

 九尾目がけて進むはずだった源翁の弾丸が、急激に減速し目的地を見失い、蛇行を繰り返して落下した。


「その血、まさかッ!」

「そうよ、我が宿主が相馬の巫女であることは認めよう。だが、血はひいておらん。むしろ、壱絆。こやつは、打ち捨てられたお前らの血族よ!」


 源翁心昭の弾丸とは殺生石――妖狐因子を含むものを破壊することのみに特化した呪具。つまり、自動追尾の仕組みは妖狐因子にひきつけられる性質を利用した呪術である。

 太一に篭手をひっこめさせ、さらにくろこによる結界まで張ったのは、安全確保と同時に、誤動作を防ぎ、狙いを一点に集中させる意味もあった。


「さすがね。古狐の狡猾さをあなどってたわけじゃないけど、おそれいったわ」


 西中島は悔しさと感嘆の入り混じった表情を浮かべた。西中島だけではない。礼央たちはそれぞれ改めて九尾という妖怪の底知れなさに戦慄する。


 が、この秘策は根本的に大きな問題がある。魔弾を無効化するために、自身を傷つけるのでは、いずれにしろ行きつく先は滅びしかないではないか。いや、老獪な妖狐がそのような愚策をとるはずがない。抜け道があるからこその一手だ。


 礼央は直感するも、その一手を遮るタイミングはすでに逸したあとだった。


 面の左半分が砕け、無貌の――九尾の宿主とされた何者かの素顔が覗いていた。露わになったその顔は以外にも老いてはいなかったし、鼻梁は整っていた。ただ、あまりにも生気に欠けている。その瞳も奥底に淀んだ絶望や怨嗟えんさをあらわすかのように漆黒に塗りこめられていた。巫女という言葉がなければ性別の判断はつかなかっただろう。


 一方、面の右半分。こちらは今や文様が消えさり、純白の素地にはところどころ鮮血が斑点のように散っている。そこに染まった右手がべたりと押しつけられた。そのままずるずると手を横に引く。右手が離れたあとには、新たな文様が――獣の顔が描かれていた。


 キツネだ。


 あまりにも邪悪な、全てを闇で覆うような朱色のキツネ。そのキツネが静かに――、しかしヘリの立てる爆音にも負けぬよく通る声で発した。



「――白鬼夜行はっきやこう!」


 瞬間、溢れんばかりの闇が生じ、九尾と宿主の全身を覆い隠した。闇は即座に爆発したように拡散し、空へと舞い上がる。


 さらには空が一転かき曇り、月と星の光を遮った。真の闇が学園を包みこんでいく。


「ヒノさん! いったいなにが!」

「おそらく、九尾が――面に宿った邪霊を全て解き放った。それ以上は、これからなにが起こるのか、わたしにも見当がつかない」

「どうやら九尾はその答えをCM明けまでひっぱる趣味はないみたいよ。かなりの難問が出題されちゃったみたいだけど」

「ああ、メリッサ。とにかくヤベェってのはわかるぜ」


 屋上が――振動していた。巨体を有した何物かがこの屋上にむかって、一歩、また一歩と迫ってくる。その地響きによって、学園全体が揺さぶられている。

 メリッサが言ったとおり、巨体の正体はすぐに明らかになった。


「こ、これは!」

「ああ、入場ゲートの……、市ヶ谷の力作……だな」


 言葉をつまらせた太一のあとを、礼央があきれたように繋いだ。


 チヌークは異変と同時に高度を上げて退避し、上空から様子を見守っているが、操縦席に座した市ヶ谷もさぞかし驚きで目を丸くしていることだろう。昨夜、ほとんど徹夜作業で完成させた骸骨の化け物が、眼下で進軍しているのたわから。


 ――がしゃどくろ。国芳の『相馬の古内裏』に描かれたような化け物が――作り物の悪夢がまたひとつ現実と化してしまった。


 元々異様な完成度を誇るオブジェではあったが、今やその質感は完全に様変わりし、硬質さと重量感を兼ね備えていた。もはや張りぼてではなく、確かな破壊力と強度を与えられているに違いない。


 ヘリポートを備えた星辰学園は免震構造を備えている。揺れによってすぐさま建物が倒壊するということはないだろうが、生身の人間がその一撃をくらえばひとたまりもないだろう。


 巨大な脅威の前に焦りを見せる礼央たちを尻目に、九尾が骨壷を抱えて地を蹴った。そのままどくろの右肩へと降り立つ。


「目的の話をまだしておらんかったな。我にそんなものは一切ない。宿主と違ってな。こやつの目的を叶えてやらんこともないかと思っておったが、そんなものは貴様らを前にしたらどうでもよくなった。そうよな、今の我はただただ貴様らを蹂躙したい。望みを踏み潰したい。いて言えば、それが目的かの」


 闇夜に嘲笑が轟いた。九尾の言葉にあわせるように、どくろがカラカラと笑っていた。一方、九尾の語りそのものは淡々としている。なにもかもがつまらないと言わんばかりの態度。礼央にはその態度が自分たちに対してだけでなく、おのれの宿主すらもあざけっているかのように見えた。


「なんだ、それ。……んなのマジで目的にも理由にもなってねえぞ。宿主とやらの目的がなんなのかは知らねえが、おれたちにとっちゃ迷惑以外の何もんでもねーのはわかってるが、それでもそいつはそれなりに腹くくった上で、お前の力に頼ったんじゃねえのかよ。その覚悟を他の誰でもないお前が笑うのか!」


「ほう、この上、敵である我が宿主の事情までも慮ろうというのか。おもしろい。おもしろいぞ、小僧。だがな、おぬしが想像するほどにはこやつの事情もたいそうなものではないぞ。こやつは、この遺骨の主――白鬼に拾われ巫女として育てられた孤児よ」

「――、そ、そんな! まさか!」


 驚きのあまり、声を上げたのは大和だ。


「相馬玄鳳が――、ぼくの曽祖父様が――白鬼だって!」


「そうよ! あやつの呪具であった我が言うのだ。間違いなどないわ。尊王やら攘夷やらに翻弄された挙句に命を落とすところなぞ、なかなかおもしろい男であったぞ。そう、ごくありふれた願望――愛しいあの人と今一度会いたい。それだけのつまらぬ理由で我に頼ったこやつよりはな」


 九尾の語りにあわせて、どくろが合いの手をいれるように笑う。それが礼央たちの神経をさらに逆撫でする。


「たったひとりをこの世に呼び戻さんがためにおまえらを害そうとしたのだぞ。世の有りようを正そうとするためでもなく、一族に受け継がれた使命を果たすためでもない。ただおのれの願いの成就のためにのみ、こやつは動いておるのよ」

「それがどうしたってーのよ。むしろそーいう理由のほうが、わたしは好感持てるわね」

「だからといってこの身を捧げるわけにもいかないが――今のわたしは相馬の巫女とやらの気持ちが痛いほどにわかるよ。誰かを愛し、その誰かに愛されたい。それ以上に、人が呪を――まじないを求める動機などあるものか」


 メリッサと太一がすかさず反論し、その場にいるもの全ての視線が太一の左手に注がれた。太一はある少女の願いの象徴を再び顕現させる。少女の願いは独りよがりで醜悪で愚かだったかもしれない。だが、少女が少年にむけた想いに嘘は微塵もなく――純粋だった。


 もたらした結果が災厄だとしても、その純粋な感情だけは決して恥じる必要などないはずだ。関係のない誰かが無責任に笑ったり、批判したりして良いものではない。


「くだらん……。くだらんな、貴様らは。愚かな貴様らに教えてやろう。呪は壊すこと以外にはなにもできん。あとわずかで百を手にできるかと思えた際に、常に何かがひとつ欠けるものよ。まじないで願いを叶えようとも、得たものはすぐまた別の誰かに奪われる。その繰り返し。満足することなど永遠に叶わぬのだ」

「そう。『一』足りないから、満ち足りないっていうのね。なるほど、ありとあらゆる欲に溺れた末に討伐された妖怪らしい、それなりに含蓄のある言葉ではあるわね。で、全てを手に入れられなかったあなたは、いっそこんな世はいらないと思ったと。それまでに手にした九十九の大切な宝も色褪せてしまうなら、自ら壊してしまおうってわけね」

「そんなの、それこそくだらない考えなの」

「おれもヒノさんと葛葉に賛成だ。これ以上こいつの戯言につきあうのは時間の無駄だ。おれたちが話を真剣に聞かなきゃいけないのはお前じゃない!」

「そうだな。九尾の面を被った無貌じゃない。素顔の無貌と話をしたい。礼央の中に潜んでいた姫子の思いと語りあったように」


 礼央と太一の言葉に、メリッサたちもうなずき同意を示す。蜘蛛だろうが、妖狐だろうが、手前勝手な理屈を振りかざして理不尽と悲しみを他者に押しつけようとするような邪悪を前にして、その力が強大だからといって退くことなどできるわけがない。

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