誰が為に夜は明ける 9
まだ理解が追いつかない脳みそのまま、ぼうっとリンクを眺めていた。リンク上ではアリョーナが鋭いオーラを放ちながら意識を集中させている。
アリョーナの名前が呼ばれ、会場がシンと静まり返る。たった今、世界歴代最高得点を叩き出した氷魚舞の演技から、流れるようにアリョーナの演技に空気が染まってゆく。否、染められたと表現しても過言ではなかった。
一瞬にして彼女の放つオーラに染められた会場は、彼女から目を離すことが許されなくなった。瞬きすらも忘れさせる。息をするのも忘れて、ただただアリョーナ・トロシュキナに心を奪われる。
曲はショパンの木枯らしのエチュード。アリョーナの木枯らしは、不安定で暴力的、そしてそれが不思議と美しいと思える、そう______芸術だった。
強い風に吹かれた、そんな衝撃で身体が震えた。完璧なスケーティング、完璧なプロトコル、どこを切り取っても美しい。暴力的でありつつも粗雑さは一切無く、わたしは瞬きすら忘れてアリョーナの演技にのめり込んでいた。
「彼女、凄い集中力」
景湖の口からこぼれた独り言に自然と頷く。
アリョーナには今、自分の世界しか見えていない。わたしがどんな点数を取ろうが関係ないのだ。ただ、この大会で優勝する。誰よりも自分を信じた結果の強い執念が彼女を突き動かしていることは間違いなかった。
じゃあどうして? どうしてそこまで優勝したいの?
突如としてアリョーナの滑る理由が知りたくなった。弱冠15歳にして世界女王として名を轟かせた彼女が、ここまで勝ちに執着する理由が分からなかった。
スケート選手だけでなく、勝負の世界にいる人間なら誰しも勝つことに重きを置く。より良い成績を残したい、ライバルに勝ちたい、世界で一番になりたい。しかし、アリョーナの執念はわたしが見てきたどの選手よりも群を抜いて強かった。演技から伝わってくる気迫がそれを物語っている。
それこそ、「負けたら死ぬ」。それくらいの狂気すら孕んだ執着に、わたしはどこか恐ろしさを感じていた。
強い、強い光が彼女の瞳には宿っている。その光が周囲を焼け尽くしそうな諸刃の剣だということを、わたしは知っている。人はひとりでは生きていけない。アリョーナのようなやり方では、今後生きていけない。選手としても、人間としても。
どこか遠くで拍手が聞こえるようだった。アリョーナが演技を終えたのだ。彼女は表情を一切崩さず、機械的に頭を下げると、さっさとリンクサイドに上がってしまった。
「景湖さん」
「ん?」
「彼女______アリョーナは、どうしてあんなに強いんでしょう」
「強いって、メンタルのこと?」
そうです、と頷くと景湖は考えるように俯いた。どうやら彼女もわたしと似たようなことを考えていたらしい。
「わからない。本人に直接聞いてみたら? 案外、話しやすい子かもよ」
「ええ……」
苦い表情のわたしに、景湖はカラカラと笑って背中を叩く。
「ああいうタイプはね、孤独を好むように見えて人一倍孤独を恐れるの。だからさ、舞ちゃんみたいな人に寄り添える心を持つ人間が、手を差し伸べてあげたら何か変わるんじゃないかな」
「わたしが、アリョーナの“月光”に?」
うん、と景湖が強く頷く。話している間に点数が発表されたようで、会場は大きくどよめいていた。
91.45。先程わたしが叩き出した得点を上回り、彼女は世界歴代最高得点を取った。それでもキスクラで涼やかな表情をするアリョーナを見て思う。
月より上にいる存在に、月がしてあげられることは何なのだろうか、と。
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