月光とロマン

 いつか話すよ。

 伏せられた目、揺らぐ瞳。込み上げてきたのは痛みだった。

 わたしはまだ、景湖に何も届いていない。という強い痛みだった。

 翌日になって初めて、わたしと景湖の間に流れる空気が今までとは絶妙に異なることを感じ取った。いつもの挨拶、いつもの一方的なスキンシップ、いつもの打ち合わせ。だけどいつもと何かが違う。

 目が、あまり合わないのだ。

 合わせようとするとふいと逸らされる。それも絶妙なタイミングで、いかにも自然ですよという風に。

 わたしも景湖も大人だから、普段通りに接している。だがその心には圧倒的な距離が生まれていた。

 不安が曇天のように心を覆う。その不安が表に出たのか、公式練習では普段はあまりしないようなミスが続いた。

「本日の練習中、冒頭の3回転ルッツから転倒というミスが見られましたが、明日のショートへ向けての調整というのはどうされますか」

 そんなの分かってるよ、コーチに聞いてくれよ、そう叫びたいくらい心は荒れていた。

 モントリオールに暗雲が立ち込める。

 なんとか理性を保って囲み取材を終えると、今度は小説家の空木がわたしを待ち構えていた。本当なら、この後今日の練習についてのフィードバックを景湖とする予定だったが、今は彼女と物理的に距離を置きたかった。景湖に許可を取ると、彼女も取材を了承してくれたので、空木の誘いで2人で近くのカフェに入ることになった。

「なんか荒れてますね、今日」

「え?」

「ここが」

 彼がトントンと胸を指し、苦笑する。まさか見抜かれていたのか。少なくとも態度には出さないよう努めていたはずなのに。

「すみません。試合前なので精神的に不安定になってて」

「あれ、俺の見立てでは朝日さんと何かあったと思ったんだけど」

 目を見張った。この男は何者なのだろうか。いや、小説家なんだろうが、観察眼が只者ではない。

 考えを巡らせているうちに、彼が店員を呼び止めてコーヒーを注文した。発音は拙かったが、十分に通じるレベルの英語だった。あなたはどうする? と店員に促され、ホットのルイボスティーを頼んだ。

 注文をせかせかとキッチンに伝える店員の背中をぼんやりと眺める。緩やかな時間が流れていた。まだ時差ボケが治らないのか、単なる練習疲れなのか、カフェのBGMが眠気を誘う。

「さっきの話」

 空木の声で現実に引き戻された。なんでしたっけ、と顔を上げる。彼は、朝日さんと何かあったっていうやつ、と補足して続けた。

「あれ間違ってたらすみません。不快に思いますよね、突然そんなこと言われたら」

「いえ______」

 一瞬考える。出会って間もないよく分からない小説家に内情を話しても良いのだろうかと。しかし、関係性が築かれていないからこそ話せることもあるかと思い直した。

「合ってるので。恥ずかしい話、今コーチとの距離感が微妙な感じなんです。試合前なのになんでこんな、って思ってたら練習もダメになっちゃって」

「絶妙とは」

 今までの景湖に対する気持ちが思い出されては消えてゆく。不安、期待、羨望、そして失望。

「元々、わたしに何か隠し事してるのかなとは思ってたんです。でもそれが昨日、後ろめたい事なんだなって気付いて。そうしたら信頼してたはずのコーチの事、分からなくなってしまって」

 それこそ太陽と月のように。わたしは近付きすぎた。景湖という太陽に。

 勝手に触れようとし、その熱が怖くて核まで辿り着くことなく距離を置いた。知りたい形と核のそれが違っていた時の失望感を味わいたくなくて、避けた結果こんな中途半端なことになってしまった。

 知りたいと思ったのに、知ることの恐さを味わってしまった。

 先程の店員が注文の品を持ってテーブルにやって来た。どちらのカップからもほわほわと白い湯気が立っている。空木はそれに口をつけ、目を上げた。

「氷魚さんは、何故朝日さんが隠し事をしてると思いますか?」

「なんででしょう……。想像がつきません」

「少なくとも俺は、氷魚さんの為だと思いますけどね」

 黒々とした瞳が輝く。

「俺が思うに人との距離感は難しいです。朝日さんのように、真っ向から自分を見せてくる癖に大事な核は見せない、そんな強そうで弱い人なんて沢山います」

「強そうで弱い……」

「スケートやってる者同士、弱い部分は色々想像つくんじゃないかな」

 弱い部分。そんなところが景湖にあるなんて想像もしたことなかった。

 本番前にプレッシャーに圧される彼女も、カメラを向けられて石膏のようになる彼女も、みんなわたしが見てきた“朝日景湖”とかけ離れている。

 きっとわたしは、“朝日景湖”という存在にフィルターをかけていたのだと思う。絶対的女王、氷上の女神、そんな幻想を。

 そんなんじゃない。彼女も人間だと認めなければならない。綺麗な部分もそうじゃない部分もあるのが人間だ。

「この壁を越えたらきっと、良い景色が見えますよ」

 空木はどこまで見通しているのだろう。

 その景色が見てみたくなった。怖くても、拒絶されても、触れなくてはならない壁がある。思えばわたしは生涯で一度もまだその壁を乗り越えたことがない。

 景湖とその壁を乗り越えた先に見えたものが、天国でも地獄でも越えなければいけないと思った。そうして築いたものが価値あるものだと空木と話していて分かったからだ。

「空木さんって何者なんですか」

 やっとルイボスティーに口をつけた。ほんのりメイプルの風味がする、優しい味だった。

「えっ、俺ですか? 小説家とも呼べないただのフリーターですよ」

 フリーター? と首を傾げる。

「元々はウェブ小説サイトで書いてたんだけど、たまたまヒットして書籍化ってなって。今は文芸誌で連載持ってるけどそれだけじゃ食ってけないから、ほぼ居酒屋でバイトって感じかな」

 この彼が居酒屋でアルバイトをしている様子を想像して、なんだかおかしくなった。何をやらせても器用そうではあるが、サロンを巻いていらっしゃいませと声を出す姿は、彼には似つかわしくない。

「だから氷魚さんが凄いなって思って。日本人の女子シングルって今、氷魚さん以外に活躍してる選手なかなか見ないから。去年あんだけの事があって、それでも戦えるって強いなって。だから知りたくなったんだ、君のこと」

 ざあっと風が吹き付けて、街路樹が揺れる。

 ────あなたは強いんだよ。

 サマーカップの時、景湖に言われた言葉だった。わたしは、強い。

 きっと、競技者としての強さではなく心の面での強さを言いたいのだろうが、わたしにはそれがイマイチ理解出来ない。わたしの弱さはメンタルの弱さそのものだから。

 しかし、景湖と空木がそれぞれわたしをそう評してくれるのならばそうなのだろう。わたしは強い。そう思うだけで、勇気が湧いてきた。

 そして、そんなわたしのことを知りたいと言ってくれた空木に対して興味が湧いた。わたしも知りたくなった。空木晴月という人間のことを。壁を越えたいとまではまだ行かないが、月の模様がはっきりするまで近付きたいとは思った。

「何でも聞いてください。わたしも空木さんの話、聞きたいです」

「じゃあとりあえずその“空木さん”てのやめよ。あと敬語も。晴月って呼んでよ。俺、自分の苗字そんな好きじゃないんだ」

「ってことは本名なんですか?」

 思わず身を乗り出す。ソラキハヅキ。なんて綺麗な音の響きなのだろうか。

 対して晴月は辟易したように頷く。

「まあ半分は。親が離婚して今の苗字は別にあるんだけどそんな話はいいや」

 半分は、ということは晴月の部分は本名なのだろう。苗字が変わることなど昨今よくある話だ。いきなり深い部分に触れすぎたかなと少し反省する。

「わたしのことは舞って呼んでくださ……あ、呼んで。フィギュアスケートの小説、書きたいんでしょう。フィギュアのことなら何でも答える」

「その協力的な姿勢助かる~やっぱ本物に聞くって違うからさ」

 言いながら、晴月は大きなスケッチブックを取り出した。聞けば、ノートよりもこっちの方が枠が無いのでアイディアを書き溜めやすいらしい。元はチラシの裏側に小説のアイディアを書き溜めており、その癖が今も抜けないという。

 不透明だった彼の輪郭が急に人間味を帯びて少し笑ってしまった。

 早く、景湖ともこの距離感で話したい。


 取材を終え、ホテルに戻るとロビーで景湖の姿を発見した。晴月と上手い距離感を築けたように、彼女とも、なんて上機嫌のまま近付いてみたは良いが、彼女の顔を見るとその気持ちがみるみるうちに萎んでいった。

「遅かったね」

「ちょっと……話し込んじゃって」

 なんだろう、なんかトゲトゲしている。今日の練習が上手くいかなかったから? フィードバックをほっぽり出して小説家と話し込んでいたから? 理由はいくらだって思いつく。

「明日、10時にロビー集合。今夜はしっかり寝るんだよ。ショートとフリー、2日連続だし」

「はい」

 景湖は、雰囲気こそ柔和だったがその中にやはりトゲのある物体があるように見えた。それが彼女自身の中の葛藤なのか、わたしに対する怒りか何かなのかを見極められるほど、わたしは対人関係が得意ではない。

「それだけ、ですか」

「うん。それだけ伝えたくて」

「今日の、練習の様子とかは」

 少しでも話したかった。そこに活路を見出したかった。

 景湖は表面上、いつも通りとも言える笑顔を浮かべて言った。

「いいんでない? 明日も勝てるよ」

 その様子に頭がカッと熱くなった。

「勝手に終わらせないでください!」

 わたしの声がロビーに響き渡る。何人かの客がこちらを振り返った。それでも良かった。

「なんですか昨日からわたしを避けて! わたしをちゃんと見てください、わたしの目を見てください!」

「ちょっ、舞ちゃん」

「どうしてわたしのコーチになったかって質問が景湖さんにとってそんなに悪かったんですか? どうしてそれくらいで、わたしの練習ちゃんと見てくれなくなったんですか?」

「ッ、じゃあ言わせてもらうけど」

 もう止まらなかった。止められなかった。景湖の表情が一変する。それは氷のように冷たく、心臓を直接手で抉られるようなそんな痛みを伴う表情だった。

「今日の練習のあれはなに? あなたの仕事はあたしの顔色を伺うことじゃないでしょう? いつも心配しすぎ、どうしてそんなに繊細すぎるの? 何に怯えてるの?」

 カツカツと景湖のヒールの底が大理石を叩く。

「あたしはあなたを世界一にするためにここにいる。あなたは? あたしばっかり浮かれてたのかな」

 違う、と叫びたかった。でも、舌がカラカラで言葉が出なかった。

「それでいいよ。あたしの顔色一つで崩れるようなメンタル、今後氷上では生きていけない」

 瞬きさえも許されなかった。景湖は氷のような表情を崩さないまま、踵を返して外へ出ていく。その背中が見えなくなった頃、ようやく力が抜けて近くのソファにへなへなと座り込んだ。


 やってしまった。

 気付いた時にはもう、遅かった。

 舞の見開かれた大きな目、呼吸を縋るような口、全てがあたしに恐怖したと語っていた。

 もうダメかもしれない。

 ホテルを出て、近くのベンチに腰を下ろす。深くため息を吐いて項垂れる。

 口からついて出た言葉の全てが本音だったわけじゃない。言えば言うほど止まらなくなって、結果舞にああいう顔をさせてしまった。

「コーチ失格だなあ……あたし」

 舞のメンタルは飴細工よりも繊細だ。それは数ヶ月間そばに居た自分が一番よく分かっている。明日の演技は今日の練習よりも悪いものになるに違いない。

 囲み取材で詰められる舞を想像して胸が痛くなった。謝らなければ。謝って、舞のメンタルを回復させなければ。

 思えば思うほど、脚が鉛のように重くなる。

 今後氷上では生きていけない、なんてコーチが言っていい言葉じゃない。最も、舞を氷上で生かそうとしているエゴの持ち主が言うことじゃない。

 舞はあたしがコーチになった理由を知りたがっている。何故だか知らないが、あの小説家の元から帰ってきた彼女はどこか上機嫌で、あたしが与えられない影響をあの子に与えたのだと思うと心の底から嫉妬心が湧いてきた。

 大人げなかったなと思う。同時に、舞のことをよく知らなかったとも。

 思えば、男性と話している姿を見たことがなかった。どんな表情で話すのだろうか。かつて恋人は居たのだろうか。(今居ないのは知っている。母から聞いたから)あの小説家からどんな影響を受け、それが演技にどう反映されていたのか、知りたかった。

 顎を突き出すようにして、モントリオールの空を仰ぎ見る。こんな時でも夕陽は憎らしいほど美しい。

「壊したものは、自分で直さなきゃ」

 今、舞はどんな表情をしているだろうか。少なくとも今夜は会わない方がいいだろう。

 刻々と落ちていく太陽と共に、罪悪があたしを蝕んでいくのを肌で感じた。


 翌朝。約束の時間に景湖と落ち合ったは良いが、昨日よりも気まずい空気がわたしたち2人の間を漂っていた。それは傍目から見ても分かる程のものらしく、すれ違った元リンクメイトにどうしたのと怪訝そうに訊ねられたくらいだった。

 結局、必要最低限な言葉しか交わせないまま、試合は進行し、とうとう衣装に袖を通した。美しい衣装と反比例して曲がった背中が情けない。

 何度か話が出来そうな機会はあった。それは景湖から話を振ってきた時だったりとか、わたしからだったりとか、そういうサインはあったんだと思う。だけどその度に昨日の言葉が反芻して、言葉に詰まった。

 ────あたしの顔色一つで崩れるようなメンタル、今後氷上では生きていけない。

 その通りだと思った。思ったから、よりその言葉が深く刺さって抜けない。頭の中で何度も何度も回転し、こびり付いて離れない。

 知りたいと思ったから近付こうとした。しかし触れ方を誤った。核は棘となり、両者の間に立ちはだかる。触れることは許されない。こんな壁、どうやって乗り越えれば良いのだろうか。

 名前が呼ばれ、6分間練習が始まる。行っておいで、という言葉を景湖に掛けられてようやく、彼女の顔を見ることが出来た。

 酷く傷付いていた。彼女もまた、心に傷を負っていた。

 胸が苦しくなる。彼女が自ら発した言葉に傷付いているのだと分かったから。

 選手たちが一斉に練習を開始する。ワンテンポ遅れてわたしもリンクへと飛び出した。

 誰かが技を決める度に拍手と歓声に包まれる。さすがは国際大会。熱気はサマーカップと比べ物にならない。

 選手たちの合間を縫って滑ってゆく。頭の中は色々な音で溢れ、集中出来る状況じゃなかった。

 このまま終わりなのではないかというネガティブな考えが頭をよぎる。

 元は景湖に氷上に引っ張り戻されたようなものだったが、今は続けていて良かったなと思う。フョードルへの追悼も、フリープログラムの解釈の完成も、景湖が居なければ出来なかったことだ。

 終わらせたくない。終わりたくない。

 強い思いが胸を圧す。このまま終われば、景湖は二度と氷上に戻らない。そんな予感がした。

 彼女の責任感の強さを知っている。彼女の底抜けな明るさも知っている。わたしに手を差し伸べてくれた優しさも、勝利を信頼してくれる強さも。

 なんだ、わたし知ってることも沢山あるじゃん。

 知らないことにばかり目を向けていたが、この約4ヶ月で彼女の多くを目にしていたことに気付いた。孤独で居られるからと選んだ氷上だったが、いつも隣には景湖が居た。彼女が居たから、わたしもここにいる。

 絶対に終わらせない。

 6分間練習終了のアナウンスが流れる。わたしを応援してくれている観客たちが不安げな顔を浮かべているのが見えた。わたしは6分間、何もしなかった。何もしないまま、だけど得たものは大きかった。これで良かった。

「舞ちゃん」

 リンクサイドに上がる。景湖はわたしにかける言葉を測りかねているようだった。6分間何してたの、ショートは大丈夫なの、そんな言葉たちが彼女の中で渦巻いていた。

「景湖さん」

 そっと彼女の手を取った。彼女の手は氷のように冷たかった。

「わたしを見て」

 第1滑走の選手の演技が佳境に入る。スペイン出身の選手による情熱的なタンゴ。

「わたしから、目を離さないで」

 声援。割れんばかりの拍手が会場を包み込む。

 景湖はわたしの目を真っ直ぐに見て答えた。腫れぼったくても、やっぱり綺麗な瞳をしていた。

「わかった」

 前の選手の点数が表示される。これまた拍手が沸いた。以前なら上手く出来るかなと不安に思っていた。でも今は、穏やかな気持ちだ。

 興奮が残る会場が水を打ったように静まり返る。景湖の目を、見た。

 3回転ルッツ。着氷時僅かにバランスを崩したが、なんとか耐え切った。6分間練習で跳んでない割に身体が動いている。

 柔らかな布が腿をくすぐる。

 足換えコンビネーションスピン。動画で確認したら、昨シーズンよりも腰は低く落ちるようになり、ポジションが安定するようになっていた。爪先まで集中を行き届かせ、彫刻のような景湖を想像する。

 氷上で舞う景湖は女神そのものだ。すらりと長く伸びた手足にピンと張られた背中。代名詞であるトリプルアクセルはもちろん、他の技も朝日景湖という名を冠して堂々としているように見える。

 光があれば影があるように、景湖にも影がある。今まで理想ばかり彼女に押し付けて、影の部分を見ようとしなかった。あれだけ強い光を放つ人だ。影が長く伸びていても仕方がない。

 景湖は縋るようにわたしを見ていた。

 イーグルから入り、3回転フリップ+3回転トウループ。音楽と共に氷を削る音が美しくはまった。

 景湖にだって弱い部分がある。わたしと喧嘩をして目を腫らす程の優しい心の持ち主だ。

 今まで核を見たいとばかり願ってきたが、わたしだってまだ本当の自分を景湖に見せた覚えがない。あんなに怒ったのだって、いつぶりだろうか。笑って泣いて怒って、裸の自分を見せることは恥じゃない。

 太陽と月だってきっと分かり合える。自分を美しいと認め、互いの美しさだって肯定し、冷たさも熱さも全て溶け逢えたらきっと。それこそ夜と朝が混在する黄昏時のように、太陽と月が手を取り合った景色は美しく、儚いものになるのだろう。例えそれが刹那の間に見せる幻のような存在だとしても。

 今シーズンだけは、景湖と共に歩いていきたい。今後どうするかは今シーズンやり切ってから、せめてグランプリファイナルが終わるまでは考えないでおこう。

 今はただ、景湖と一緒に滑りたい。美しい景色を追い求めて、壁を越えてゆきたい。伸ばしても伸ばしても届かない、光へ。その先へ。

「見てて」

 瞬きさえも許さない。

 トリプルアクセル、彼女の代名詞。彼女から受け継がれた、彼女の代名詞。世界でわたしだけの、宝物にしてやるその日まで。

 太陽と月はまわり続ける。美しさの中に残酷さを秘めていることをお互い知りながら。

 音楽が止む。拍手の音が耳で弾ける。四方に頭を下げながらも、景湖の姿を目で探した。

「景湖さん……っ!」

 彼女は笑っていた。その眦に浮かんだ涙が、喧嘩の終わりを告げていた。

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