太陽と氷 3

 風を感じる。普段よりもスピードに乗れている証拠だ。勢いの付けすぎに注意しながらジャンプの体勢に入る。

 景湖と目が合った。しなやかに膝を曲げる。

「その調子!」

 景湖の弾んだ声が聞こえる。最近の中では一番の手応えがあった。試合前にこういうジャンプが跳べるとは幸先が良い。先程景湖に掛けられた言葉が効いているのだろうか。想像していたよりも周囲の視線を気にすることなく、自分の演技に集中出来ている。

 勢い付いてトリプルフリップ+トリプルトウループのコンビネーションを跳んでみた。これもまた歓声が飛んだ。僅かに緩む口角を隠すようにして景湖の元に戻った。

 シニア女子シングルのショートは翌日朝イチから始まる。気怠い身体を朝日で起こし、ストレッチで伸ばす。いい緊張感だった。朝食の際、昨日はよく眠れたかと景湖に問われた。夢も見ませんでした、と答えると、景湖は満足そうに頷いた。

 本日の滑走順は丁度真ん中辺り。ショートはシニア女子だけでも50人近い選手が出場するため、スケジュールは分刻みで行われる。どこへ行っても人だらけの中で、ひたすら順番を待った。イヤホンで外の世界を遮断し、音楽の世界に自分を埋めることで気持ちをコントロールするよう努める。

 伸ばせるところは全て伸ばした。身体も温めた。わたしに足りないのは精神力だけだ。

「第6グループの方、リンクにお願いします」

 ようやく順番が来た。通りざまに鏡をチェックし、髪のほつれがないかを確認する。

 ピンクや赤の衣装がひしめく中でわたしの黒の衣装は一層際立って見えた。裾から胸にかけて白のグラデーションがかったわたしだけの勝負衣装。

 前のグループの選手たちとすれ違った。大半の表情は晴れやかだったが、中には現実を目の当たりにし、諦観の混じった顔の子も居た。自然と去年の自分と重なった。

 6分間練習が始まる。リンクの状態はまあまあだった。どちらかと言うと悪いと言うべきか。肩慣らしに2アクセルを跳んでみる。気持ち的にも余裕を持って跳べた。どうやら緊張状態は悪くなさそうだ。

 ジャンプを数本跳んで、自分とリンクの状態を確かめる。景湖も満足そうな表情でこちらを見ていた。

 あっという間の6分間。一番滑走の選手が緊張の面持ちでリンクに残る。哀愁漂うクラシック。最初のジャンプはステップアウトした。青ざめながら演技を続ける彼女をどこか遠くの景色のように感じられる。わたしはまだ冷静だ。

 静かに景湖が隣に立つ。肩に置かれた手がじんわりと熱を伝えてきた。

「33番、氷魚舞、H大学」

 前の選手と入れ替わるようにして氷を蹴った。

 一瞬の静けさ。曲が始まる。柔らかくそして重厚なピアノが会場に響く。

 3回転ルッツ。綺麗に着氷した、と思う。今は自己評価している暇なんてない。思っていたよりも力が抜けている。中国大会の時のショートとは違う。冷静に物事を俯瞰出来ていた。

 太陽と月という曲は、太陽と月の応酬がメインとなっている。曲の解釈は人それぞれだが、舞とフョードル、そして舞と景湖はこれを太陽と月の共存へ向けたやり取りだという方向でイメージを固めた。

 月は太陽が居ないと輝けない。その事を気にして卑屈になっている月に太陽は優しく語り掛ける。

 あなたがいないと夜が寂しいと。

 互いがいるからこそ輝ける存在を、歴史に名を残せなかった作曲家は表現したがった。

 3回転フリップ+3回転トウループ。若干高さが足りなかっただろうか。トウループの勢いが削がれた気がする。

 思うに、人生では互いの存在が近すぎてうんざりする出来事に直面することが多々ある。相手のことを知りすぎて、知りたくなかった部分まで見えてしまった時、人はそれを失望と呼ぶ。太陽と月くらいの距離感がちょうど良いと思っていた。最も輝いている瞬間からは目を背けられ、美しい部分だけを見ていられる。

 だが、景湖は違った。わたしの良い部分も悪い部分も自ら踏み込んで知ろうとしてくる。彼女はいついかなる時も太陽であることを徹していた。人に対して感情を見せることを臆さないくせに、自らの本当の核の部分は見せてくれない。熱のようにコロコロと変わる表情も、わたしを輝かせようと努力する様もみんな太陽である証だ。

 じゃあわたしは? ずっと人に照らされるだけで良いの? 自分で輝くことは出来ないの?

 月の劣等感がよくわかる。

 あなたがいないと夜が寂しいと言われても、そもそも太陽がいなければ夜に輝けない。

 あなたがいなければ存在していることすら気付かれない。

 太陽と月は共存できない。それがわたしの答えだ。だけど月の劣等感も一緒に肯定し、輝くことがわたしの使命だと思った。世界中に存在する全ての月たちに、あなたも輝けると自信を持って言ってあげたい。太陽にはなれないけれど、月は月としてここに存在している。

 わたしは、ここにいる。

 氷を蹴る。勢いのまま、両腕を上げた。

 今日一番の興奮の拍手。コーチの代名詞、トリプルアクセルが久しぶりに決まった瞬間だった。

 曲はまだ終わっていない。息が上がる。

 太陽が核を見せないように、景湖が笑顔のヴェールで隠す感情をわたしは知りたい。何故、わたしのコーチになったのか。あれだけの才能を見込まれて何故、わたしの、わたしだけのコーチに。

 何故、と言葉が零れる。

 最後のスピン。

 一瞬景湖と目が合ったような気がする。どんな表情をしていただろうか。わたしの演技に対して何を思っているのだろうか。

 思えば彼女に叱られたことが一度もない。わたしという範疇に土足で踏み込んで来るくせに、わたしは朝日景湖の全てを知らない。

 全部知りたい。あなたのこと。

 歓声が聞こえる。少し遅れてから四方に向かって頭を下げた。

「なんか言ってたでしょう」

 キスクラに向かいながら、景湖が隣でニヤニヤと笑みを浮かべる。

 普段なら演技中に何を考えていたかなんていちいち覚えていない。でも今日は強烈に残っていた。あなたのことですよなんて間抜けに言えるわけもないので、顔を逸らして誤魔化す。

「別に」

「ええー! ケチー!」

「演技のことですよ」

「絶対うそ!」

 無視してキスクラに座るともう一度歓声が上がった。見上げると、大きなモニターに自分の姿が映っている。おかえりという温かい声も聞こえた。それに応えるように、力いっぱい手を振った。

「氷魚舞さんの得点」

 きゅっと息を吸った。この時ばかりは神に祈る仕草をする。信仰しているものは特にないが、それだけ何かに縋り付きたくなる。

「76.38」

 会場がどよめく。脳が熱くなる。

「舞ちゃん!」

 ぎゅっと小柄な景湖に抱き締められた。

 そこで初めて、わたしの点数がパーソナルベストを更新したことを知った。

 認定試合ではない為、記録に残ることはないが、それでもワールドレコードにも迫る大きな点数だった。

「まだ独りで滑ってたけどとりあえずは許そう」

 それから、よしよしと犬のように撫でられそうになったので、さすがにそれは遠慮した。

 去り際にスポーツ紙と、地元紙、ほか数社の記者に囲まれた。一瞬、わたしを守るようにして景湖が前に出るがいつまでも月では居られないと前に出る。

 わたしに向くカメラに怖気付いていてはこの先には進めない。

「まずはショート、お疲れ様でした。昨シーズンからの本日の滑り、ご自身ではいかがでしたか」

 マイクが向けられる。ライトがギラギラと眩しい。しかし脳はクリアだった。背筋を伸ばしたまま答える。

「良い緊張状態で挑めたと思います。認定はされませんが、パーソナルベストも出せて良かったです」

「新コーチ朝日景湖さんを迎えての今シーズン、何か変化はありましたか?」

 変化だらけだ。挙げればキリが無い。

 まず母国語が違う。フョードルの第一言語はロシア語で、わたしとは常に英語で会話をしていた。しかしどうしても互いに言語が違うことによるニュアンスの齟齬が生じ、上手くいかないことも沢山あった。それが今はフラットな状態で、凄くやりやすさを感じていた。

 だがメディアには分かりやすくかつ、競技者らしい回答をしなければならない。

「そうですね、今まではコーチ主体で物事を決めていくことがわたしの中での当たり前だったのが、今回からコーチとわたしと決めていくというのが大きな変化だと思います」

「例えば?」

「未発表の新プログラムがそうです。構成や曲はコーチと話し合いながら決めました」

 エキシビションだけだけどね、と心の中で毒づく。

「では明日のフリーに向けての意気込みをお願いします」

「今日のショートと明日のフリー合わせて、亡きフョードルコーチに届くようにしっかりと演じきります」

 そう。これはシーズンの序章に過ぎない。フョードルへの想いを断ち切り、ようやく本腰を入れて去年の悪夢と戦うことが出来る。謂わば前哨戦だ。

 記者らに軽く頭を下げ、その場を後にする。良かったよ、と景湖に小突かれて思わず頬が緩んだ。


 翌日の朝は比較的遅かった。朝食を摂りながら、昨日と同じくよく眠れたかと聞かれた。よく眠れましたと答えると、稽古はまた満足そうに笑ってスクランブルエッグを頬張った。

 フリープログラムはショートの上位24名が出場を許されており、その為か昨日よりも人は少なく感じられた。

 氷魚舞の順位は昨日の時点で1位。抽選の結果、滑走順は最終グループの最後から2番目となった。最終滑走は、あの東雲詩音だった。

 淡々と試合が進行していく。

 今日の衣装は木枯らしに合わせたブラウン。裾の部分がところどころ丸くくり抜かれており、まさに枯葉のような美しい衣装だった。昨シーズンこの衣装を受け取った時、あまりの美しさに惚れ惚れしたものだが、結局着る機会も少ないままシーズンを終えてしまった。みんなに見せてあげようね、と衣装にも誓う。

 イヤホンを耳に、裏通路で軽く走りながら身体を温めていく。心做しか、周りの選手たちの目がギラついて見えた。追われることには慣れているので知らない素振りで通り過ぎた。いい精神状態だった。

「最終グループの方、お願いします」

 昨日と同じスタッフが呼びに来た。鏡で軽く髪の毛をチェックし、立ち上がる。ブラウンの裾が煌びやかに揺れた。

 最終グループ6人全員が順番にリンクに出る。6分間練習の途中、詩音と目が合った。淡いピンクの衣装を纏った彼女はとても綺麗だった。

 リンクの状態は昨日よりも良く、ジャンプを何本か跳んだ後に注意点をさらって練習を終えようとした。

「ッ!」

 声にならない声。氷が深く削れる音がした。振り向くと、詩音が尻もちをついてくるくると回転していた。相当勢い良く転んだのだろう。

 声を掛けようか悩んだが、その役目は彼女のコーチのものだった。大丈夫かと問われ、強く頷く彼女が見えた。怪我はしていないようだった。

 ホッしたその時、6分間練習の終わりのアナウンスが流れた。一斉にリンクサイドに上がる。

「彼女、最終滑走に弱いタイプだね」

 第一滑走の音楽が流れる中、景湖が詩音を見遣りながら耳打ちしてきた。

 他の選手を気にする余裕なんて今まで無かった為、同じ大会に出た時の彼女がどうだったかなんて記憶にないが、景湖が言うならそうなのだろう。

 確かに今も、第一滑走の選手の衣装顔負けの真っ青な顔で震えている。横でコーチが励ますが、どうやら耳に入っていないようだった。

「こういう時、舞ちゃんならどうする?」

「どうするって」

 どうもこうもない。選手のメンタルは選手だけのものだから。外側の世界が干渉できる問題ではない。そう信じて疑わなかった。だが、景湖の目を見るにわたしに何か出来ることがあるのだろう。

 わたしはこんな時、どんな言葉が欲しかっただろうか。フョードルが急死してひとりぼっちだった時、どんな言葉を掛けられていたら、あんな事態にはならなかっただろうか。

 わたしの一つ前の演技が終盤に差し掛かる。時間が刻々と迫ってくる。

「詩音ちゃん」

 ふるり、と長いまつ毛が上を向く。衣装を握る手は細かく震えていた。今にも壊れてしまいそうな小さないきもの。だったらわたしは、壊れないように優しく大きな手で掬ってあげたい。

「見てて」

 名前を呼ばれ、氷を蹴る。

 微かな音で始まる、静かな始まり。

 そして枯葉は気が付く。自分は今、木から落ちて自由になったのだと。目が覚める。

 風と遊ぶ。一緒になろうと両腕を広げるが、景湖の言葉が引っかかった。

 わたしは独りではない。

 衣装が大きく膨らみ、はためく。

 風を置いていくのではない、一緒になるのも違う。ならば、と風に向かってそっと手を差し伸べた。

 風はおずおずとわたしの手を取ってそれから跳ねた。回った。

 そうか、わたしはわたし、風は風としてそこに存在していていいんだ。手を取り、共に果てしなく青い空を仰ぐ。

 そうと気付けば、迫る大きな波だって怖くなかった。一緒に遊ぼうよと手を差し伸べる。水と遊べとはこういうことだったのだ。

 水は途端に大人しくなってわたしの手を取った。水滴のような小さな水も、津波のような大きな水も一緒になって戯れ遊ぶ。

 枯葉は生命を取り戻そうとしているんじゃない。生命の終わりを感じているんだ。生命は終わりがあるからこそ儚く、美しい。その一瞬の閃こそが枯葉の美しさの所以だ。

 枯れ木のような手を精一杯伸ばして風と、水と、そして自然と手を繋ぐ。みんなと一緒になって生命の悦びを叫ぶ、叫ぶ。

 若さだけが全てじゃない。甘やかに溶かされた若さだけが、わたしたちの正義じゃない。

 歓声が飛ぶ。終わったと気付くまで時間がかかった。届いただろうか、彼女に。

 顔を上げると、淡いピンクの裾を握った詩音の姿が目に入った。一瞬泣いているのかとぎょっとしたが、次の瞬間、パッと咲いたコスモスのような笑顔の詩音がこちらを向いて強く強く頷いた。伝わった。言葉は必要なかった。

「やるじゃん」

 氷の上で精神を整える詩音をぼうっと見つめていると、エッジカバーで肩を小突かれた。それを受け取り靴に取り付ける。

「フィギュアスケーターだから言葉は要らないかなって」

 普段わたしたちは可視化された言葉の中にいる。だがわたしたちが生きているのはリアルなのだ。今この瞬間、目の前を大切にして欲しい。最後はなんだか説教臭くそんなことを思いながら滑っていたような気がする。

「さっすがわたしの舞ちゃん。独りじゃないってのも分かったみたいだし」

 演技の精度はともかく、イメージの中では今までで一番納得感のあるスムーズなストーリーが演じられた。いくつかミスは見られたが、それが気にならないほど心は晴れやかだった。

 げんさんサマーカップは堂々の優勝に終わった。意外にも景湖は結果発表の際にさも当然というような顔をしていたし、囲み取材でも似たようなことを口にしていた。景湖にとってこの大会は、デビュー戦でも何でもない、“氷魚舞”なら優勝して当然の大会だったのだ。

 しかし、なんだかんだ言って不安な部分もあったのか、後になっていつもの調子でわしゃわしゃと頭を撫でられた。その無邪気な様子に、「あなた、世間ではクールな氷の女王って呼ばれてるんですよ」とは突っ込めなかった。

 一方で詩音の結果は準優勝だった。あのメンタルから持ち直したフリーの得点はわたしに迫る勢いで、景湖曰くショートでの点数差が無ければどうだったかなんて話だ。この数ヶ月の急成長は目を見張るものがあると後に見かけた記事にもあった。GPシリーズではどんな戦いになるか楽しみだ。

「舞さん。写真撮ろ? ほらメダル持って」

 授賞式後、人懐っこい笑顔で詩音に話し掛けられた。片手にはスマホ。数日前の光景がフラッシュバックする。

 カメラを怖がる必要なんてどこにあるのか。言われるがままにメダルを顔に近付けた。

「はいちーず」

 何枚かシャッターが切られる。撮った写真を確認しては、一緒に盛れてるじゃんと笑い合った。そんなわたしたちのやり取りを、景湖は優しく見守ってくれていた。

 実家では大きなケーキがわたしたちを待ち構えていた。大会に優勝した時恒例の父の手作りケーキだ。

「まだ続いてたのこの行事」

 言いながらも、内心ワクワクしていた。だってチョコレートがたっぷり乗ったホールケーキだ。おまけにケーキの上には片足を上げたフィギュアスケーターを象った飾りまで乗っている。

「当たり前でしょや。今まで出来なかった分も含めたらこれくらいはしないと」

 以前GPファイナルで優勝した時、開催国はスペインだった。両親は仕事の関係で日本を離れられず、わたしもその後の四大陸の練習のためにロシアに残った。

 代わりに両親は大きなケーキの写真を親戚一同で囲む写真を撮って送ってくれた。その温かさに触れ、急に自分の孤独を自覚して寂しくなったのも覚えている。

「美味しそー!」

 隣で景湖が声を上げる。景湖さんもどうぞ、とのことで喜んで着いてきたのだった。実家に自分のコーチが居るという状況がなんともむず痒い。

 ケーキといえば数ヶ月前に帰省した時のケーキは何だったのかと思い、聞いてみた。あれは帰省したお祝いだと言われた。じゃあなんでもいいんじゃん、と笑いながら頬張ったケーキは見た目の割に甘さ控えめで美味しかった。

「んん! 美味しい! さすがですねお父さん」

「いやああの朝日景湖さんに褒められるなんて、ケーキ屋やってきてよかったなあ」

「そうねえ。なんせ氷魚家一同応援してきたんですから」

「舞を筆頭にね」

 待てよと思った。話の流れ的になんか嫌な予感がする。

「前にも話したと思いますけど舞の景湖さん熱がもうすごくって。推しって言うんでしょうかね、そんな感じで。あ、舞の部屋ご覧になります? 景湖さんのポスターがもうびっしり」

「ああああ! やめて! 言わないで!」

「そうなの?」

 恥ずかしい。もう恥ずかしい。顔を覆うと熱を帯びていた。きっと耳まで真っ赤になっていることだろう。

 朝日景湖のことは好きだ。憧れだ。でも本人にはバレたくなかった。ファンや推しという言葉じゃ足りないくらい、彼女のことが一スケーターとして好きだったから。それこそわたしの内側を覗かれるようで恥ずかしい。

「えー言ってくれたらサインするのに」

「いいです、もう、そんな」

「写真も撮るよ、一緒に」

「えっ、」

 一瞬「いいんですか」と喉まで出かかった自分のヲタクの部分が憎らしい。朝日景湖とツーショット。しかもサイン入り(多分してくれると仮定して)。そんなの、当時5歳の自分に言えば泣きながら喜ぶ大事件だ。絶対家宝にする。

 喉から手が出るほど欲しいですと言わんばかりの顔をするわたしに、景湖はニッと笑ってただし、と指を突き上げた。

「オータムクラシック優勝したらね」


 オータムクラシックは、毎年カナダで開催されるISU公認大会のひとつである。大抵の選手はGPシリーズへ向けての調整試合としてこの大会を利用し、今シーズンのプログラムの反応や、他国の選手の様子を見るのだが。

 氷魚舞の場合は違っていた。この時期になってもまだ新プログラムを解禁せず、昨シーズンと同じプログラムを滑ると宣言したのだから、(あたしが宣言させたのだが)世間は大きく揺らいだ。

 この勢いでGPシリーズも同プログラムを演るのではないかという考察もあったが、それは違うんだよなあとTwitterを見ながらニヤつく。画面の向こうでは今、舞が新プログラムを練習しているところだった。

「そこ」

 音を止め、リンクに出る。

「ステップの入りが遅い。もう少し早く準備しないと、次のジャンプに間に合わない」

 舞は分かりましたと頷きはしたが、どこか釈然としない様子で一考した後口を開いた。

「それだと拍がピッタリハマらなくて気持ち悪いんですよね」

「したらその前のスピン回転減らしてこっち行って~ってどう?」

 抜きで滑りを見せながら提案する。やってみて、と音をかけた。

 フィギュアスケートでは、それぞれの技にレベルというものが存在する。重要な要素となってくるスピンもまたレベルが存在し、定められた11項目(レイバックスピンにおいては13項目ある)のうちいくつ該当しているかがレベル判定の条件となってくる。レベルが上がる事に基礎点も上がるという仕組みである。

 自分が現役だった時からルールは改正され、よりフィギュアスケートという競技が複雑化したことを感じる。舞には話していないが、このプログラムを作るにあたって色々調べて勉強した。過去に囚われて夜な夜な一人で滑っていた時とは違う。

 舞が今行っているスピンはレベル4を狙ったものだった。難しい入り方やジャンプによる足換えなど、複雑な要素を取り入れたものだったが、傍目から見てもギリギリだった。後半に入る演技ゆえに、まだ体力が足りていないのだ。

 何でも今年から、スピンのレベル4の獲得条件がより厳しくなったという。それにより、どのジャッジが見ても「これはレベル4です!」と認定されるようなスピンをやってやろうじゃないかと意気込んでいたのだが。

「とりあえずの課題は体力だね」

 何度か同じ動きを繰り返し、浅く息をしながら舞が戻ってくる。ショートだと平気そうな顔をしているが、フリーだとどうも演技後半の乱れが顕著になる。フィギュアスケートは演技後半のジャンプが1.1倍とかなり大きな加点となるため、しっかり決めてもらいたいが、今の体力だと滑りきるのもやっとという感じだ。

 得意のイメージもまだ膨らんでいないようだし。ただ滑っている、というのが見え見えだ。

 しかし、オータムクラシックでは旧プログラムをやらせるという意思は変わらない。地に落ちた白魚(実際そこまで酷く言われてはいなかったが)が世界を驚かせる瞬間をこの目で見たいと思ったからだ。

 独りよがりかもしれない。それでも良い。彼女が、舞が、フィギュアスケートごと自分を肯定してくれるきっかけになりさえすれば。

 出会った頃よりも伸びた髪の毛が宙に舞う。流れる曲に耳を傾けていると、自嘲的な笑みが込み上げてきた。

 あたしは本当に自分勝手だ。

 この曲に込められた意味を、舞は理解しているのだろうか。この曲に込められたあたしの呪いを、執念を、汚い感情を、舞は分かって滑っているのだろうか。だとしたら彼女は本当の女神だ。

 8月の終わり、北海道には既に秋の風が吹いている。

「カナダには厚着してかなきゃなあ」

 いつか言わなければ。この曲を舞のフリーに選んだ理由を。

 でもそれは、あたしをきれいだと思って疑わないその心を壊すことと同義で。そんな日を知らずに滑る彼女を心から眩しいと思った。


 北海道よりも冷たい空気が頬を撫でる。モントリオールの9月の気候は10度から20度と比較的良心的だと思ったのは道産子だからだろうか。

 金や茶、中には赤といった髪色をした選手たちが次々とあたしの前を通り過ぎてゆく。日本とは違う、モザイクじみた光景に素人っぽく「海外だなあ」と感じた。

 海外に出るのは現役引退後初めてのことだった。舞のように英語が喋れるわけでもないし、日本を出る理由も無いなと思っていたら15年経っていた。時間というものは恐ろしいもので、舞に言われなければ危うくパスポートの更新を忘れるところだった。

 例え理由がどうであろうと、舞をコーチがいない環境に置くことは許されない。もう二度と、一人ぼっちになんてしない。

 そんな人の気も知らず舞はかつてのリンクメイトと仲睦まじく喋っていた。意外だった。彼女に社交性があったとは。なんて失礼なことを考える。

「朝日さん、少しよろしいでしょうか」

「はい」

 男子シングルの日本人選手のコーチだった。今大会、日本からの女子シングルの出場者は舞のみだ。それほど世界で活躍出来る日本女子が少ないということを意味していた。

 それにしても何の用事だろうか。あたしと同い年くらいの男性の日本人コーチに手招きされるがままに隅に寄る。

「いや、朝日さんにこんなお願いするのも申し訳ないんですけどね。取材の申し出がありまして」

「取材。何のです?」

「それが小説だって言うんです」

 話がよく見えない。怪訝そうな顔をしたあたしに、コーチは申し訳なさそうに手を合わせた。

「どうも女子と男子それぞれの取材がしたいんですって。だから朝日さんところの舞さん、取材受けて貰えないですかね」

 そういうことか。てっきり面倒事を押し付けられるのだと身構えていたからかえって損した。

「いいですよ別に。取材って言っても舞ちゃん、そういうの得意でないし、練習の見学とかそういうのになりますけど」

「全然! 十分だと思います。じゃ、紹介しときますんで、よろしくお願いします」

 それにしてもあの態度、相手はよっぽど面倒な性格の小説家などではないだろうか。それともただあたしが異質な存在だから話し掛けるのを躊躇われただけ? 後者なら構わないが、前者だと舞に悪い影響を与えかねない。

 数分後、スタッフに案内されながら2人の日本人がリンクサイドに現れた。20代後半くらいの女性と、舞よりも少し年上くらいの男の子。女性の方はこちらを見止めると、ペコペコと頭を下げながら近付いてきた。

「北の森文庫の小野崎と申します。この度は急な申し出だったのにも関わらず、ご協力いただき誠にありがとうございます」

「いえいえ」

 名刺を受け取る。小野崎は文芸誌の編集を担当しているらしい。北の森文庫の大本となる会社は、普段文学に触れないあたしでさえも聞いた事のある雑誌を刊行している会社だ。

「ご紹介します。作家の空木です」

空木晴月そらきはづきです」

 それがペンネームなのか本名なのかは分からなかったが、綺麗な響きだなと思った。

「もっと近くで見せてもらってもいいですか」

 スケッチブックを手にした空木がおずおずと口を開く。いいですよ、と言うと彼は頭を下げ、食い入るように選手たちの観察を始めた。

 絵を描くのかと思ったらどうやら違うようで、スケッチブックには乱雑に細かなメモが書いてある。あれが彼のスタイルのようだ。

 それにしてもフィギュアスケートを取材したいのなら、どうしてわざわざモントリオールまで足を運んだのだろうか。国内大会でも十分に取材が出来るはずだ。

「空木さんが、どうしても氷魚さんを取材したいって言って聞かなくて」

「え?」

 小野崎が隣に並ぶ。その目は散々空木に振り回されてきたと言わんばかりの苦労が滲み出ていた。

「理由は分からないんですけど、とにかく生で見たいって聞かなくて。じゃないと連載打ち切りとか言い出すもんですから、方々に頭を下げてどうにか経費落としてもらって今日ここへ来たんです」

「へえ」

 文芸の世界は正直分からない。だけど、舞に惹かれる気持ちには共感した。不安定で、でもどこかに強い芯を持っている。輝くようなスター性は無いのに、誰よりも強い光を放ちそうな可能性を秘めている。

 あとはそう、美人だ。ぱっちりとした大きな瞳にすっきりとした鼻筋。スタイルだってアスリートとしてめちゃくちゃ良い。いやまさか、と一瞬勘繰る。下心で舞に近付くようなら絶対に許さない。

「景湖さん」

 舞に呼ばれてハッとする。慌てて水筒を手渡した。

 危うく妄想の中で空木に手を出すところだった。パッと見誠実そうだし大丈夫か、なんて自己完結する。

「あ、なんか小説家さんが取材のために見学したいんだって。作家さんの空木さんと、編集の小野崎さん」

「作家さん?」

 スポーツ紙なら分かるけどと首を傾げる舞にとりあえずの経緯を説明した。舞を取材するためにわざわざモントリオールまで来たんだよ、と言うとますます分からなくなったようだ。分かる、あたしも全然理解出来てないもん。

「空木晴月です、よろしくお願いします」

「氷魚舞です。こちらこそ」

 基本顔見知りな舞は今すぐにでも練習についてあたしと話したいと言わんばかりの表情だ。空木はそんな人の気も知らず、自身のメモであるスケッチブックを繰る。

「とりあえず今は練習、見せてもらおうと思います。でも今一つだけいいですか」

 舞が不安げにこちらを見遣る。頷くと、諦めたように空木に向き直った。

「氷魚さんは何のために滑ってますか?」

 表彰台に上がるため。否、彼が求めているのはそのような答えではないことは分かった。

 舞が滑る理由。確かに聞いたことが無かったし、聞きたいと思った。勝手にGPファイナル優勝という理由付けをしてしまったが、深い部分では何を礎として滑っているのか。何を思い、誰を思い、滑っていられるのか。

「応援してくれる人のためだと思ってたんですけど、それは何かいい子ちゃんっぽいですよね。すみません、今はまだ分かんないです」

 今の舞らしい答えだった。ホッとしたような、お預けを喰らったような、そんな気持ちだ。

「いえ、いいんです。答えが見つかったら教えてください。明日のショート、頑張ってください」

 そう言って、少し離れた場所で他の選手たちの観察を始めた。

 舞は苦笑しながら「あれでよかったのかな」とあたしに聞いた。

「いいでしょ。にしてもいきなり核心つくような質問してくるね、彼」

 そういえば、と舞が笑いながら言う。

「どうして景湖さんはわたしのコーチをしてくれるんですか」

 胸の中に風が吹き抜ける。

 宝石のような瞳が心を射抜くように覗き込む。

 悪いあたしはそこから目を逸らすようにして腕を組んだ。

「いつか話すよ」

 その時舞の目が一瞬凪いだのを見て、己の心の醜さを知った。あたしは悪い人間だ。

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