太陽と氷 2
眩しさに目が覚める。次第に寒さを自覚してきてぶるりと震えながら布団を被り直した。
布団の中で体温を上げながら、今朝の朝食のことを思って気分が落ち込むのを感じた。新コーチとなった朝日景湖が真っ先に命じたのは、食事量を昨シーズンのピークに戻すことだった。となれば、朝昼晩をバランスよくきちんと摂る事が必須となる。
昨夜の夕飯だってまだ胃の中にいるのに、これ以上食べられるわけがない。しかし食べなければ指導してもらえない。思い直し、覚醒しきらない頭のまま、ふらふらと階下に降りる。朝食の匂いが吐き気を誘った。まだまだ先は長そうだ。
スケートリンクは景湖が近年懇意にしている場所を貸してもらえることになった。彼女はスケート界からは一線退いた後も、現役当時のツテで夜な夜な滑りに来ていたという。今までは景湖本人の強い意志の元、誰のコーチもやって来なかったが何故かこうしてわたしのコーチはやりたいと言う。掴みどころのない人だ。
「じゃあ、去年のフリー、とりあえずやってみて」
初めての稽古日。アップを終え、身体が温まってきた頃景湖はそう提案した。前コーチ、フョードルからの最期の贈り物であり呪いとも呼べるプログラム。先日リンクを前にしただけでも胸を潰されるような苦しさが押し寄せてきたのに。
不安げに彼女を見遣る。彼女はひらひらと片手を振り、もう片方の手で音楽プレーヤーを操作していた。今にも曲が始まりそうな勢いだ。
「大丈夫だって。今の実力はこんな感じでーすって指標にするだけだから」
簡単に言ってくれる。大きく息を吸って、リンク中央へと移動した。シンとしたリンクに氷を削る音だけが響く。
「お願いします」
穏やかな始まり。フョードル曰く、イメージは広い湖に静かに落ちた一枚の枯葉。軽やかに、しかしどこか悲しげに漂う。
枯葉はやがて、水と戯れるようになる。弾むように、揺れるように。ふわりと浮いた感覚に陥る。水と遊べ、というフョードルの言葉を思い出す。羽が付いたようだった。手足を大きく広げ、風を感じる。気付かないうちに固くなっていた身体がイメージについて行かなくてもどかしい。
水は段々と力を増し、飲み込まれそうになる。負けじと勢いを付けて跳ねる。どんどん加速していく。曲が盛大になるにつれ、心も大きくなっていく。氷を削りながらくるくると回る。わたしは枯葉だ。今にも裸になりそうな木から落ちた、水分の抜けた茶色い枯葉だ。しかし今再び生命を取り戻さんばかりに水と戯れている。風と遊び、水を操り、自然と一体化して空を舞う。
削れた氷が宙を舞い、細かく光を反射する。嫌な光ではなかった。ダイヤモンドのような光だった。
「良かった! うん、悪くないね!」
景湖の拍手がリンクに響く。わたしは肩で息をしながら彼女の元へ戻り、どうでしたか、と顔を上げた。
「基本はさすが、全然悪くない。むしろ昨シーズンこれで滑れてたらファイナル行けたんじゃないかってくらい。ジャンプは改善の余地あり。構成も」
「構成って、レベル下げるってことですか」
「んーん。今の感じなら上げてもいいかなって」
わたしの構成表を何やら小難しい顔で見ながら、首を傾げつつも頷く。彼女的にはギリギリ上げてもいいということだろう。ならば、余裕で上げても良いと言わせなければ。
「でもおっきな改善点がひとつ」
「なんですか」
景湖の顔がグッと近付く。美人なだけ、迫力があった。
「舞ちゃん、あなた独りで滑ってるしょ」
「え?」
「自分の世界があるのは結構だし、それが舞ちゃんの良さでもある。実際、曲の物語が良く出ていて素晴らしかった。でもね、フィギュアスケートは独りじゃないの。みんなと滑るんだよ」
何を言っているのかさっぱり分からなかった。しかし、彼女が大真面目なのは目を見れば分かった。氷上は誰もが独りだ。そう信じて疑った事など一度もなかった。フョードルからも、その前のコーチからもこんなことを言われた記憶などない。
「そんなのどうしたら……」
「そんなの決まってるしょや。ココを開くのさ、ココを」
景湖は胸をトントンと指す。心と言いたいのだろうかこのコーチは。ますます訳が分からなくなった。混乱するわたしがおかしいのか、景湖はケラケラと笑いながらわたしの横を通り抜けた。
「ま、見てて」
ポンと軽く肩に手を置かれた。と思えば、弾むような笑顔が消え、代わりに鳥肌が立つようなオーラが発される。リンク中央に降り立つ女神が見えた。彫刻のように美しく決められたポーズは、彼女の現役最後のフリープログラム。
慌ててリンクから上がり、曲を探す。小さなスピーカーから発される音は割れて粗雑なはずなのに、彼女が滑り始めるとそれはオーケストラが演奏する盛大な音楽に昇格した。
朝日景湖はGPファイナル優勝後、一躍時の人となった。2年後、バンクーバーオリンピックを期待されたが怪我で欠場を余儀なくされ、そのままスケート界から姿を消した。舞よりも若い、景湖が20歳の頃だった。
現役時代に引けを取らない、むしろ洗練された景湖の滑りに息をすることも忘れて魅了された。舞い落ちる花びらのようなスピン、風に揺れるように滑らかなステップ、そして彼女の代名詞。
「そしてこれが日本が世界に誇る女王、朝日景湖のトリプルアクセルです!」
かつてテレビの前で熱狂した、あの頃の実況が蘇る。その時、美しいとはこの人の為に作られた言葉なのだと心から思った。
手のひらがじわりと汗ばむ。心が揺れる。わたしもそこへ行きたい。そう願ってフィギュアスケートを始めた。今は色褪せてしまったが、壁に貼られたポスターは朝日景湖一色だ。それ程彼女が好きだった。否、今も好きだ。現役から15年経っても彼女は色褪せず、そこに居た。
圧巻の4分間。音楽が止む。しかしまだ、リンクは熱い余韻の中にあった。ありもしない人々の喝采が聞こえる。フラッシュが焚かれる。色とりどりの花束がリンクを彩る。
「そう! その顔!」
すっかり新コーチの顔に戻った景湖が雛菊のような笑顔で戻ってくる。さっきまでリンクを支配していた女王はどこへ行ったのやら、今は紅潮した頬も相まって少女のようだった。
顔? と首を傾げる。景湖は答えをくれる代わりにウインクで返した。
「ね? あたし、独りじゃなかったしょ?」
景湖は全てと共に滑っていた。オーケストラも、花びらも、風も、みんな彼女と一緒になって力の限り歓びを伝えていた。しかし、どうすればそこへ行けるのかが分からない。分からないから、そこへ行きたくなった。そこから見える景色が見てみたくなった。
「わたし、景湖さんと行きたいです。ファイナル」
「うん。あたしも行きたい。行こ」
気軽な言葉で差し出された大きな約束。だけどそれが心地良かった。いつの間にか握られていた手はわたしのよりも一回り小さかったけれど、ずっと暖かく、頼もしかった。
練習を開始してしばらく経ってから、景湖が次の大会を提案してきた。げんさんサマーカップ、トップ選手も多く出場する、国内ではレベルの高いローカル大会である。
大会まで残り3ヶ月。となるとプログラムはどうするかという話から始まる。
「あぁ、去年と同じにするよ。構成もね」
「でもこの間……」
構成のレベルを上げると確かに言っていた。まさか数日間のわたしの滑りで考えを変えたのではないかと、ここ最近の練習を思い起こす。が、その表情を見て察したのか景湖は手をひらひらさせながら笑みを見せた。
「それはファイナルに向けての話。サマーカップとその後、オータムクラシックかなあ。それは去年と同じ曲で同じ振り付けでやる。練習は新プロと並行してやる事になるけどね」
「なんでですか?」
「だってフョードルコーチに舞ちゃんの完璧なプログラム見せてあげなきゃ」
さも当然と言わんばかりに空を指す。
ずっと考えていた。どうすれば彼に報いる事が出来るのかと。遠く離れた地で自分も知らないうちに倒れた師に、何をすれば良いのかと。彼の遺したプログラムを完成させる。これが弟子から師匠へ向けた最期の手向けとなると、景湖は言いたいのだろう。
途端、今まで小難しく考えていた自分がバカバカしく思えてきた。この新コーチはわたしの悩みをいとも簡単にすくい上げてくれる。
「頑張ります。フョードルに届くように」
ジンと胸の中で何かが芽生えた。プログラムをノーミスで滑り終えた時のフョードルの顔を想像したからだった。
「まー課題は山積みだけどねえ。とりあえずあたしに振り付け、教えてくれない?」
「わかりました」
昨シーズンのプログラムは、ショートは太陽と月。作曲家は不明。100年ほど前にイタリアの古い蔵から発見された楽譜で、太陽と月という相反する存在の二面性がよく現れているとその評価は近年上がってきているという。他国の主要選手が大会で使用した為にフィギュア界でも認知されつつある楽曲のひとつである。
フリーは木枯らし。正式名称は、練習曲作品25-11。作曲家はかの有名なフレデリック・ショパン。フョードルは「漠然としたイメージしかない自然というテーマをいかに表現できるか、そして表現出来た時に舞の真価が発揮される」と言い、この2曲を選んだ。
「舞ちゃんが選んだんじゃないんだ」
「はい。曲はいつもフョードルに決めてもらってました」
「じゃあ新しいのは自分で決めよ。1曲でもいいからさ。それが今週の課題」
なんかないの、と長いまつ毛が揺れる。昔はあった。景湖含め、色々な選手を見てこの曲で滑ったらどんなに気持ちが良いか想像した。最近ではただ勝てるプログラムをやりたいならコーチに任せるしかないと思い込んで、そんな事考える暇もなかった。
正直、勝てそうな曲は何曲かある。正しくは勝ち筋が見える程の力を貰える曲だった。
「明後日にはリスト作ってきます」
「楽しみにしてるね」
その日の練習後は飛ぶようにして帰り、近代現代ジャンル問わず勝てそうな曲を一挙にさらった。曲のイメージがどんどん膨らんでいく。このタイミングで跳んだら気持ちいいんだろうな、とか、ここは余韻を残しつつスピンだろうなとか。
「おはよ~」
「おはようございます」
朝8時。景湖が迎えに来る。わたしの実家からリンクまでは車で1時間の距離にあり、わたしが免許を持っていないと明かすと景湖がドライブがてら毎日の送り迎えを買ってでたのだ。景湖チョイスのプレイリストを聞き流しながら、山の中を抜けてゆく。
「曲、見つかったみたいだね」
「はい」
普段は景湖が一方的に話し掛けてきて適当な相槌を打つようなドライブだが、今日は違う。
「聴かせて」
景湖がタッチパネルを操作し、Bluetoothを接続出来るようにしてくれた。1曲目は壮大なクラシック。採用されたらフリーに使おうと思っている楽曲だった。
「次」
「あ、はい」
さらりと流される。なんだろう。案外刺さらなかったのかな。
次の曲は小鳥がさえずるような静かな始まりで、後半にかけて小鳥が大鷲にでも化けたかのような変貌を遂げる楽曲だった。だが、大鷲に化ける前に景湖は「次」と促す。
その後も大して聞き終えないまま、景湖は次の曲を促した。ハンドルを握る彼女の横顔はどこか苦々しく渋い。
「以上です」
「舞ちゃん……」
信号が赤に変わる。重々しい溜め息。柔らかい茶髪が顔に掛かり影を落とす。
「やりたい曲はないの?」
「だからこれがやりたい曲で」
「やりたい曲じゃなくて、勝てる曲選んだでしょう」
目を見開いた。他でもない、図星だったからだ。
「あたしは勝てる曲じゃなくてね、舞ちゃんの本当の心からやりたいって気持ちのある曲が知りたかったの。まあでも……うーん……そっかぁ……」
現役時代あたしもそうだったしなあ、とか何とか言って、景湖は顔を上げる。信号が青に変わった。もうすぐリンクが見えてくる頃だ。
不安感が胸を圧す。何か間違えたのだろうか。普段柔らかい少女のような彼女なだけに、無言になると何を考えているのか分からず怖かった。車は重苦しい空気のまま駐車場で停車した。
「とりあえず、とりあえずね。あたしが決める。気持ちはそこから一緒に作っていこう」
「何が、」
ダメだったんですか。言葉が詰まって言い切れなかった。しかし景湖は気持ちを汲んだ。優しく目尻を下げる。
「ダメだったわけじゃない。一生懸命探したんだって分かったよ。でもね、“勝てそうな曲”じゃいつか感情が追い付かなくなる事もあるんだよ」
感情が追い付かなくなる。その点については覚えがあった。フョードルが決めてくれた楽曲の数々。時々、自分の形にすっぽりはまらなくて無理やり理由をつけてそこに感情を当てはめようとした事がある。感情に名前を付ける作業は、己の想像力の欠如と同義と思い、辛く苦しかった。試合中も、ああ、ここは何か違うなと感情のスイッチングが上手くいかずにミスした経験がある。その事を景湖は言いたいのだろうか。そこまで見抜いているのならば、この人はやはり凄い。
間もなく、景湖が決めた曲での新プログラムの練習が開始された。しかし、わたしの中ではあの日の景湖の言葉が残り続けていた。
「わたしが本当にやりたい曲……か」
壁を埋め尽くす程の朝日景湖のポスター。これを彼女に知られたらどんな顔をするか。またあのキラキラとした笑顔を浮かべるだろうか。彼女に憧れてフィギュアスケートを始めた。同じ舞台に立ち、同じ景色を見たいと思った。それは今も変わらない。だが、何かが決定的に違う。
わたしは作り替えられてしまっていた。フィギュアスケートという競技を純粋に楽しむのではなく、競技として勝ちたいという意欲だけが前のめりになった生き物に。選手のモチベーションの保ち方はそれぞれだが、景湖はそれは感心しないと数週間共にしていて分かる。景湖は、フィギュアスケートを純粋に楽しみ、そこに結果がついてきたという選手だから。決して自分の実力を誇示する道具として使おうとなんてしていない。
棚に飾られた小さな小さなメダルが目に入る。他よりも丁寧に手入れされたそれは、暗い部屋で一層目立って見えた。手に取ると、スケートを初めたばかりの頃に出たクラブチーム内での大会のメダルだった。順位問わず、出場者全員に贈られるものだったが、当時はそれが堪らなく嬉しかった。
ふっと何かに背中を押される。これだ。この気持ちだ。
「お母さん!」
弾けるように部屋を飛び出した。母は父と共にリビングでのんびりテレビを見ていた。只事ではない興奮を抱えたわたしに驚きながら、どうしたのと顔を向ける。
「わたしの最初の大会のビデオ、まだ残ってる!?」
「残ってるに決まってるしょ~今でも時々お父さんと見返すもん。ねえ?」
ソファで寛ぐ父は、ビールをあおりながら懐かしそうに目を細めた。
「あの頃は転びそうになる度に必死になって転ぶなって祈ってたなあ。まあ今でもそうか!」
これよ、と母がテレビ台からDVDを取り出す。何度も見返しているというのは本当なのだろう。スケートをやっていて一番古い映像のはずなのに、探す素振りもなく出てきた。
「見たいの?」
「うん。見せて」
VHSから焼き直された映像の為、画質は多少荒いが音は途切れることなく入っていた。まだ少ない髪の毛を一生懸命まとめ、(母曰く、「お姉さんみたいに」という抽象的なリクエストをされたのだという)フリルのついた可愛らしい衣装をまとった小さなわたし。よたよたとぎこちないステップやスピン、そしてジャンプ。その度に過去と現在の両親は同時に声を上げ、喜ぶ。
演技を終えたわたしは満面の笑みでこちらへ滑って来る。「どうだった?」口が動く。そこでビデオは終わった。
「なんて返したの?」
続きが気になった。我が子が可愛くて仕方がないこの両親が、愛娘の初舞台に何と感想を述べたのかと。
「100点満点ってお母さんが言ったんだよな」
「そう。そしたら舞が、フィギュアスケートは100点満点ってやり方じゃないんだよって」
「それもまた可愛くてねえ」
僅かに皺が目立つようになってきた母の眦がキュッと下がる。これだ、と確信した。
実家に戻ってきてから、両親共に昨シーズンについて、ネガティブな言葉を口にしなかった。常にわたしが前を向けるようただ静かに見守り、やった事に対しては大袈裟なくらいに褒めてくれた。気恥しさも何もなく、ただ心からこの両親に愛されていると自覚した。その愛から今まで目を背けていただけで。
「ありがとう」
両親は照れ臭そうに笑って、「なんもしてないしょ」と愛しい地元の訛りで返した。
やりたい曲がありました、と景湖に告げたのは、やはり行きの車の中だった。景湖はかけてみてーと表面上は笑って繕っていた。
車内に優しい音楽が響く。身体を芯から温めるような、大きな陽だまりのようなそんなイメージを抱かせる。
みるみるうちに景湖の口角が上がってゆく。ハンドルを握ってなければ今すぐにでも飛び付いて来そうな勢いだ。
「これにしよ!」
「え! ほんとですか!」
「うん! エキシ!」
膨らんだ気持ちが一気に萎んでいく音がした。採用ではあるが、期待していた通りでは無く、言うなれば(仮)のような状態での採用だったからだ。
一方で景湖は嬉しそうだった。イメージが溢れて止まらないというふうに。確かにエキシビションの曲は未定で、昨シーズンと同じものをやろうかなんて話も出ていたのだが。
「あたしが思うに、フィギュアはエキシ含めてひとつのコンサートだと思うんだよね。この曲はフィナーレにふさわしい」
いい考えじゃない? とウインクが飛んでくる。想像してみたら確かに良いかもと思ってしまった。あのショートとフリーを終え、栄光を手にした後のこの曲でのエキシビション。
「いいと思います」
「よし決まりね。いい振り付けが思い付きそう」
一方、順調に振り付けの進むショートとフリーはハードだった。景湖は現役時代から自作の振り付けでよく滑っており、その手の考えには非常に長けていた。彼女自身、得意とするのが当時の女子シングルでは珍しくスピンとジャンプという技で魅せる選手だった為、そこには特に力を入れていた。スピンひとつ取っても腕や顔の角度から鋭い指摘が入り、もう回るはずのない目が回りそうになるほど回り続けた。
並行して昨シーズンの太陽と月、木枯らしの練習も続け、レッスンは日増しに厳しくなっていった。
「爪先まで集中行ってないよーそう! ピンと伸ばす!」
景湖は指先のことを爪先と表現した。爪の先にまで神経を行き届かせ、軸のブレない完璧な演技を見せてみてと挑発的にわたしを煽った。
負けじと指の筋肉を張るが、今度は足がおざなりになっていたらしく指摘が飛ぶ。集中力が散り、脳内にはごちゃごちゃと様々な音楽が流れ出す。ああ、こうなるともうダメだ。
「舞ちゃんさ、ダメだって思った時顔に出やすいよね」
汗を拭い、手渡された水を飲んだ。キンと冷えてはいるが、脳はまだぼうっと熱いままだった。
「色々な音が脳の中に溢れて止まらなくなるんです。集中した時に何も聞こえなくなるのとは違う、不協和音で何も聞こえなくなるみたいな……ありません?」
言ってるうちに景湖がまたニヤニヤし始めたので何事かと言葉が尻窄みになる。
「いや、あたしもあったよ。そういうこと。違うの。舞ちゃんが思ってること言ってくれるようになって嬉しいなーってただ思っただけ」
「なんですか、それ」
笑ってまた水を飲んだ。今度は脳の熱さが溶けていくような気がした。
一歩ずつだが近付いてゆく。忘れていた。人間の関係性とは踏み込んで、踏み込まれて、そうやって築かれてゆくものなのだと。
ジリジリと焼け付くような暑さが北海道にもやって来た。本州のように湿度が高くないので過ごしやすいと思っている。まあこれは現地人の感想だ。連日東京は夏日だと報道する全国ニュースを眺めていると、自分が日本ではないどこかに住んでいる気がしてくる。
舞の練習は順調だった。フィギュアスケーターに共通して言える努力家という点が、舞は頭一つ抜けていた。昼夜を問わず演技に対する質問がメッセージで飛んできて驚いた。以前指摘した食事量も摂れるようになり、吹き飛びそうな四肢にはふっくらと筋肉が浮き出るようになった。
昨シーズンと新プログラム、合計4つのプログラムを並行して練習しているにも関わらず、舞は弱音ひとつ零さずにあたしの指示をひたすら頭に叩き込み実践しようとし続けている。そのひたむきさがただ眩しかった。
一度、フィギュアを辞めようとしたことを知っている。逃げるために北海道へ帰ってきたことも。なのにまだ、これだけ頑張る力はどこから湧いて出てきたのだろうと思い、一度聞いてみた事がある。
「確かに……。やっぱり好きなんですかね、フィギュアが」
大人びた顔つきが花のように綻ぶ。初めは世界の全ての闇を抱えてきましたみたいな顔してた癖に。今ではあどけない少女のように笑うことも増えてきた。
「そっか、あたしもそうなのかなぁ」
家業を継ぐと決意した時、肩の荷が降りた気がした。しかし、スケートに対する気持ちは変わらず、夜な夜なリンクに通う亡霊のような存在となった。何故、と自問したが結局答えは出なかった。それが今、分かったような気がする。好きという単純な原動力があたしを突き動かし、何度もリンクに立たせていたのだと。
また、舞はメンタルが豆腐よりも脆い部分が弱点だが、それさえ克服すれば抜群のコンディションを発揮してくれた。これは練習を共にしていて気付いたのだが、元々耳が良いのか、リズム感が抜群に良い。あたしでさえ捉えられない音を捉え、感覚的に気持ち良いと思う場所にステップを当ててくる。それを人は才能と呼ぶのだろう。ただ、舞にそれを言えば謙遜するばかりか音に集中しすぎて他がおざなりになるだろうから、心の中に留めておくことにした。
舞の前コーチが遺したプログラムを見るに、彼は舞に対して大きく期待を寄せていたことが手に取るように分かる。が、それを敢えて口にせず静観していたことも分かった。フィギュアスケーターだからこそ、演技を贈ることでそれを示していたのだろう。舞の家族もまた、彼女の精神面を慮って敢えて静観を守っている部分がある。その優しさに恵まれているのも、彼女の才能だなと羨望混じりの感想を抱いていた。
「景湖さん、着きましたよ」
舞に肩を軽く叩かれ、シートに凭れていた身体を起こした。タクシーの運転手にここで止めてくださいと告げ、運賃を払う。
タクシーを出ると、むわりとした熱気が一気に襲ってきた。北海道とは違う。ニュースで見ていた暑さとはこれか。滋賀県大津市内のアイスアリーナを見上げると、北海道とは違って見える太陽がこちらを焼け付くさんとばかりにギラギラと見つめ返してきた。
「今日って誰か知り合い居ないの?」
久しぶりの大会会場に踏み入れた舞は、分かりやすく緊張していた。怯える小動物のようにキョロキョロと周りを見渡して落ち着きがない。緊張を解すのもコーチの務めだと思い、普段の倍以上声を柔らかくして聞いてみた。
「えっと、」
声が吃る。周囲を行き交う選手たちにここまで怯える必要なんてあるのだろうか。過去に一度世界一に輝いた選手なのに。
答えはすぐに分かった。
「舞さーん!」
茶色いポニーテールを揺らしながらこちらに向かって手を振る女の子。ぷっくりとした涙袋、綺麗にカールしたまつ毛、遠目でも分かるイマドキ女子ってやつだろうか。
知り合い? と舞に目線を送る。彼女は怯えつつもぎこちない笑顔で女の子に手を振った。
「舞さん来るって知って楽しみにしてたの! ああ朝日景湖さん! 超凄いじゃん、こんな人にコーチやってもらえるなんて!」
矢継ぎ早に繰り出される甘ったるい声に耳がキンキンする。悪い子じゃないんだろうけど、物静かな方の舞に慣れていたから、なんだか胃もたれしそうだ。
「景湖さん、こちら東雲詩音ちゃんです」
「どーもー。東雲です」
聞いたことがある名だった。結果は奮わずともGPシリーズに出ていたはずだ。年齢は確か17か18くらいだった気がする。ていうか今の女子高生ってこんなに大人っぽいんだ!? と、綺麗に施されたメイクをしげしげと眺める。
詩音はおもむろにスマホを取り出して、舞に写真撮影を求めた。透明のスマホカバーには可愛らしいシールが何枚も挟まっている。
「インスタ用のやつ。舞さん、最近更新してないっしょ。話題になるよ」
「もういいかなって。わたしあんな事やらかしちゃったし」
例の謝罪インタビューのことかとすぐに思い当たった。あのインタビュー以降、舞の顔をネットのあらゆる場所で見かけた。時には目を覆いたくなるような酷い内容で彼女を笑い物にしているものもあった。それらを受けたトラウマは一生消えることはない。
舞が怯える理由はこれか。あらゆる媒体で、書き手個人の下衆な想像力だけで書かれた記事を目にした人たちの視線が怖かったのだ。
「ねえ、それあたしじゃダメなの?」
大粒のアイシャドウが瞬く。昔から顔には自信があった。それ以外にも自信はあるけど。
「あたしでも話題になるでしょう? インスタ出たことないし」
「えっ!? まじですか!?」
詩音は喜んでスマホを構えた。加工が施されたアプリで何枚か写真を撮る。きゅっと肩を寄せた時、詩音にそっと耳打ちした。
「舞ちゃん、試合前で緊張してるからさ。試合終わったら写真撮ってあげて」
「そういうことなら、もちろん」
最後に一枚、とシャッターが切られる。そういえば舞と写真を撮ったことはなかった。わたしのファンらしいが、単独の写真でさえも撮られた記憶はない。舞に写真を撮ろうと言えば喜んでくれるだろうか。
準備のために去っていった詩音の背中を見送ると、舞に礼を言われた。気付かないふりをして理由を問う。
「景湖さんもきっと見ましたよね、例のインタビュー後、わたしに寄せられたインスタのコメント」
確かに混沌としていた。その多くはコーチの急死による同情のコメントだったが、中には彼女の弱さを責めるようなコメントも散見された。
あたしからすると、一体お前はどこの誰で何様なんだという気がするが、ネットが身近な存在となった彼女らからすれば近所の住人から刺されると同じくらい痛みを伴うのだろう。
そしてあたしもまた、似たような経験があった。あの頃ネットが普及していれば、舞と同等の痛みを感じていたのだろうか。
「人前に出る以上、そういう評価は仕方ないんですけどね。あの時は凄く心に刺さっちゃって」
「傷付いて当たり前だよ。言葉は人を生かしも殺しもする魔法なんだから」
「理想なんて存在しないと思ってました」
舞は出会った頃のような闇を瞳に宿しながらぽつりと言った。
「心無い言葉たちを向けられて、わたしが思う平和なんて無くて世の中はこういう人ばっかなんだって思い込んでました。だから今、景湖さんのお陰で少しずつ人の優しさって言うのかな……そういうのに触れられて、なんていうか、嬉しいです」
心に日が射したような温かさが灯る。懸命に言葉を紡ぐ彼女の苦労は計り知れない。
恐らく10代の頃からそういった世界に溢れる汚い部分を見続けていたのだろう。それこそ“好き”だけじゃ整理し切れない部分が現在のフィギュアスケートにはある。誰しもが目にとめて、それでも見ないふりをしていたものを、彼女の純粋な器は受け止めざるを得なかった。でもだからこそ、それを見続けた目は、心は、他の誰よりも、
「強いよ。舞ちゃんは」
「え?」
「あなたは凄く強い。だから大丈夫」
化粧っけのない顔が微かに紅潮する。強ばっていた身体がゆるりと弛緩していく。
さあ、あたしたちの夏が始まる。
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