月光とロマン 2

 激動のショートプログラム、一人の人間へ向けた演技は4位という結果で幕を閉じた。

 以前よりも人間味を帯びた景湖は、隣でせせら笑って「まだ巻き返せる」と背中を叩いた。わたしもそう思った。2人ならば出来る。心からそう信じられた。

「あの時は怒鳴ってごめんなさい」

 本日の日程の終了後、景湖に頭を下げられた。肩が僅かに震えているのが見て取れた。慌ててこちらこそ、と頭を下げる。

「あたしがコーチになった理由、知りたいんでしょう」

 頷きかけて、やめた。不安が揺らぐ瞳を前にして、探究心よりも彼女の気持ちを優先したいという感情が優位に立った。

「景湖さんが話したいなら」

「何その言い方。ずるいなぁ」

 強ばっていた顔が多少綻び、つられてわたしも眦を下げた。

「もう無理に聞かないって意味ですよ。話したければ聞くし、話したくなければ聞きません」

 すらりとした長い腕が伸ばされる。小柄な体躯にきゅっと抱き締められた。

「ありがと」

 氷が、春風に吹かれてゆるく溶かされてゆく。わたしを抱き締める景湖の体温が、彼女も血の通う人間であることをわたしに教えてくれた。そっと腕を伸ばし、景湖の背中に手を回した。わたしが憧れた背中は、想像よりもずっと小さい。

「あたしは人に思われているよりもずっと弱い人間なんだ。舞ちゃんが期待しているようなそんな凄い人間じゃない。だから」

 はた、と目が合う。キラキラと輝いた瞳。光を追い掛け続けるその瞳は、どんな宝石よりもわたしを惹き付けた。

「だからね、あたしの中の勇気が育つまで、もう少しだけ待っててもらえないかな」

 わたしを映すその双眸に、もはや揺らぎなど存在しない。

「わかりました」

 ああ、きっとこの人はわたしの憧れを壊さないために口を閉ざしている。そう確信した。

 それが分かっただけでも十分だ。

「よっし、じゃあ明日に向けて何か美味しいもの食べにいこ!」

 そう言ってリップを塗り直す彼女に「練習はいいんですか」と大袈裟に笑ってみせた。


「『氷上の白魚、心ここに在らず』だってさ」

 翌朝、また何の遠慮も無くなった景湖は、例の6分間練習を叩くようなニュースを眺めながらウインナーにフォークを突き刺していた。それも時折ニュース記事をこちらに見せながら。

 以前よりもわたしたちの間にある境目が薄くなったとはいえ、完全にそれが消えるわけではない。殊更わたしは変化に適応しにくい側の人間であるが為に、景湖の切り替えの早さに内心ついていけていなかった。

 一見横暴とも取れる景湖の振る舞いに、何と返せば適切なのだろうか、突きつけられたスマホの画面を前に苦笑いで固まるしか他無かった。

「舞ちゃんさあ」

「はい」

「また変なこと考えてるしょ」

 大きな瞳が探るようにわたしを舐める。

「あ。それかフリー緊張してんの? もーカワイイんだからぁ」

 トンボの目を回すように、景湖は指をぐるぐると回してわたしを挑発する。

 この数日間で分かったことがある。景湖は平生明るい雰囲気を好む人間だ。場の空気が少しでも重い方に傾こうものならば道化を買って出て無理にでも周囲を笑顔にしようとする。

 今がいい例だ。ならばその道化に乗っかるのが弟子としての務めなのではないだろうか。

「緊張してないって言ったら嘘になりますけど……。なんかその言い方ムカつきますね」

「お、いいじゃんその調子~そうやって思ったこと口にしていくんだよ~」

 どこまで行っても景湖の手の内で転がされているようでなんだか釈然としない。だが、関係性は確実に良くなっている。……のか?

「今日のフリーだけど」

 一瞬、おふざけモードだった景湖の眉根がきゅっと寄せられる。

「構成変えずにそのままでいいからね。まだ優勝は射程圏内だし」

「とは言いつつギリッギリですけど」

 3位と4位の差が開いているのも日本のメディアがわたしを煽る要因の一つだ。GPシリーズに向けた調整戦とも言える今大会、集うメンバーは当然実力者ばかり。仮にわたしがフリーをノーミスで滑ったとして、追い付けるかどうかは微妙なところだった。

「優勝云々よりも昨日みたいな舞ちゃんの“本気”、見せて」

 フッと笑いが込み上げる。このコーチはどれだけわたしに期待を寄せてくれるのだろうか。

「もちろんです。目離したら許しませんから」

 挑発めいた眼差しを彼女へ向ける。「でも、優勝はしますよ。だって優勝したらサイン入りツーショットですもんね?」と付け加える。

「うわさすがあたしのオタク。よく覚えてたね。てかやっぱ欲しいんじゃん。転売すんなよ~」

「しませんよ!」

 家宝にするので、とまでは言えなかった。


 会場に入り、何点か確認事項を済ませるといつもの如く自由時間となった。景湖曰く演技に集中しても良し、何か他のことをしてリラックスするのも良しという時間らしい。

 まだ開場時間まで時間があるので、場内を散策しようかなと腰をあげる。自分の性格上、ショートでの躓きを忘れ去ってフリーに切り替えることは難しい。きっとどこかで綻びが出てくる。今回はノーミスを求められているのだから当然プレッシャーは大きい。

 昨シーズンまでならこの時間はひたすら音楽を聴いて脳内で演技のシミュレーションをするのだが、それもそれで自分にプレッシャーをかけるばかりなのではないかと思い、今回はやり方を変えてみることにした。ルーティンを崩すことに抵抗を覚えないわけではないが、直感的に今日はこうしたほうがいいと思ったのだ。

 場内には大会中らしい緊張感が漂い、肌をピリつかせた。数時間後にはここで結果が決まっているのだと思うと、現実離れした不思議な感覚がする。

「舞」

 低音がわたしを呼び止めた。その音が耳慣れなくてこそばゆい。誤魔化すように惚けた顔を作って振り返ると、空木晴月がスケッチブックを片手にゆるりとした格好でそこに居た。

「あ。なんかこないだと雰囲気違う」

「え……なんだろ、メイクしてるからかな」

 ちがう、と晴月は首を振る。

「すっきりした青空みたいな顔してる」

 さすが作家さんは詩的な物言いをするなあと思う反面、この男の観察眼に面食らっていた。わたしなら、否、きっと大半の人間が見逃すような人間の機微を彼は読み取れる。それは物凄い才能だと思うし、そんな彼が書く作品は一体どんなものなのだろうかと興味が湧いた。

「本番前って選手それぞれなんだね。東武選手には取材NG出されちゃってさ。それで舞のところもダメかと思ってたらそっちから来てくれた」

 東武とは同じ日本人選手であり、男子フィギュア界の若きホープである。細くしなやかな体躯から放たれる4回転の鋭さが売りの選手だ。

「わたしも普段ならNG出すかな。今日は気分で散歩してみただけ」

「ルーティンとかってあったりしないの?」

 晴月はすかさずスケッチブックを構えた。取材は取材だが、囲み取材というよりも、長らく受けていない雑誌の取材を思い出させた。

「ある。音楽聴きながらシミュレーションして、ひたすら身体をあっためてるかな」

「その音楽ってプログラムの音楽?」

「基本はそう。だけど似たような感情になれる音楽のプレイリストみたいなのを作ってて、それを聴いてる」

 例えば今回のショート。太陽と月という相反する存在から連想し、映画『美女と野獣』の劇中歌を聴いてみたり、単純に似たような曲調のものをかき集めてみたり。同じテイストだけど雰囲気が違う曲を集めることで、そこから得たインスピレーションが集中したい曲への解像度に繋がることがある。

 それはかつて、フョードルの現役時代のルーティンだと自身で話していたので始めたことだった。

 音楽に身をうずめ、音楽に浸る。フョードルは自身の生徒にそう熱心に指導していた。そのお陰で、彼に指導を受けた者たちは曲への解釈に対する評価が軒並み高い。

「それいいな。だから舞の演技には感情が乗ってるのか」

「亡くなった前のコーチが曲の解釈に重きを置くタイプの指導だったから。でもわたしは、技でも魅せたいなって思ってる」

 あの朝日景湖のように。だから美しくて強いプログラムを、とよくフョードルに頼んでいたものだ。

「昨シーズンから4回転も入れてるもんね。女子では珍しいなって思った」

 完全に“取りに行ってる”んだなって思ったよ、と付け足す晴月に苦笑で返す。

 確かにあのシーズンはファイナルを取りに行った。オリンピックで改めて世界を見て、技で魅せる選手として世界で羽ばたきたいと思った。かねてより練習していた4回転トウループ。4回転をプログラムに取り入れる女子選手はまだ数少ない。しかし昨シーズンでは本番で一度も跳べず、今シーズンではプログラムから外された。4回転は抜きだが高難度というベースは変わらず、景湖プロデュースというのもあってプログラム自体はハードなのだが。

「今日は? やらないの、4回転」

 訊かれて、どきりとした。

「やら、ない」

 できない。優勝するためには失敗は許されない。本番で構成を変えるなんてリスクは取れない。

「そっか。そんな簡単な世界じゃないんだもんね」

 晴月の眦が柔和に下がる。こんな笑い方をする人なのだと初めて気が付いた。月のように凪いた静かな存在だとばかり思っていたが、その笑顔は少年のように朗らかだった。

「引き止めてごめん。フリー、応援してるから」

「うん。ありがとう」

 去ってゆく背中を見送り、再度柵に身体を預けた。傷一つないリンクに目を落とす。数時間後、わたしはここでどんな顔をして立っているのだろうか。

 表彰台のどこに立っているのだろうか。

 胸の中にはただ、先程の晴月の言葉が泥のように蟠っていた。

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