月光とロマン 3
すっきりとしたブラウンが特徴的な衣装に袖を通す。この衣装を着るのも今日が最後だと思うと感慨深い。
「こんなに君を長く着ていられると思わなかったよ」
口の中でそっと呟く。
フョードルと共に歩んだシーズンの中、2位と圧倒的な差を付けて優勝台に上がったフリーも、彼を失った絶望の中で頭が真っ白になりながらも必死に食らいつこうと足掻いたフリーも、景湖と共に歩き始めた時のフリーも、全部この衣装と共にあった。
胸元に散りばめられたストーンが光る。宝石をしまい込むように大切に、羽織ったジャージのジッパーを上げた。
「行こうか」
フョードルがくれた最期の贈り物に感謝を伝えに。
会場内は熱気に包まれていた。わたしの出番は第2グループの2番滑走。指定された場所で身体を温め、時折景湖と演技について言葉を交わす。
「とにかく怪我だけ無いように」
「はい」
「大丈夫。練習だとノーミスで出来るんだし、それを本番でやればいいだけ。……っていうのが、一番難しいんだけどね。分かってるよ」
今回の演技には多くの責任がのしかかっている。責任、と言うには重すぎるが、任務と言うには軽すぎる、そんなものが。
景湖もそれを見抜いたのか、普段の笑顔でわたしの肩を叩いた。
「ほら、力入ってる。深呼吸して。リラックス。……そう、胸に手を当てて自分に言い聞かせるの。あたしなら大丈夫って」
「……それが、景湖さんが現役時代にやってたルーティンですか?」
「まあ、ルーティンてか験担ぎ? みたいな?」
景湖は本番に強いとばかり思っていたので、勝手に親近感を覚えた。本番前にはみんな一緒なのだ。どんな選手だって緊張する。
胸に手を当てて目を閉じる。わたしは大丈夫。わたしなら、跳べる。表彰台の一番高いところまで。
「……いけそうだね」
「はい」
目を開けると、太陽のような笑顔が目の前にあった。つきりと痛む胸はこれからのことを想像したからだろうか。
ジャージを景湖へと預け、滑走順に並ぶ。一歩リンクサイドに足を踏み入れると、わたしの後ろに並ぶカナダの選手に会場は湧いていた。飛び交う言語の中に日本語は聞こえない。それが却ってプレッシャーの軽減に繋がった。
リンクへと繋がる扉が開かれる。さあ、6分間練習の始まりだ。6人の色とりどりの選手たちが順にリンクに飛び出す。横並びになり、名前が呼ばれる。やはり歓声はカナダの選手の方が大きかった。
「それでは6分間練習を開始します」
合図と共に各々散り散りになった。徐々に加速をつけていき、氷に身体を慣らす。状態は悪くない。
一際大きな歓声と拍手。誰かがジャンプを決めた瞬間だった。
気にせず、脳内でプログラムの音楽を流すことに専念する。氷を蹴り、ジャンプの体勢に入った瞬間だった。
「ッ…………!」
脳内で吹き返したのだ。彼の、晴月の言葉が。
転倒し、氷上に膝を着くわたしを他の選手たちが器用に避けてゆく。怪我はしてない、足の痛みもない、ただノイズが入ってタイミングがずれただけ。しかしそのノイズはわたしにとってあまりにも大きいものだった。
「大丈夫?」
不安そうな景湖の口がそう動いた。頷いて返すだけで、彼女の元へは行かなかった。
気を取り直し勢いをつけてスピンの体勢に入る。今度は上手く決まって、会場もホッとしたような空気に包まれた。わたし一人だけが納得しない表情で考えに耽っていた。
「練習時間残り1分です」
焦る気持ちが湧いてきた。今ここで決断しなければという想いが募る。自ずと氷を蹴る足も強くなり、スピードが増してゆく。
ノイズを振り切ろうとしているのだろうか、スピードごときで振り切れないものだと分かっているのに。息が上がる。鼻先が冷たくなってゆく。酸素を求める口が渇く。
「フョードル、」
ノイズの中に現れたのは彼の姿だった。優しく穏やかで、わたしの表現力を磨き育ててくれた人。キスクラで共に泣いて笑って、わたしを世界一に導いてくれたわたしの恩師。彼なら今、わたしの何を見て“幸い”と感じるだろうか。
「6分間練習を終了します」
わたしは______
「舞ちゃん? 大丈夫だった?」
奇しくもノイズが晴れた。しかし、心配そうに見つめる景湖にそんな話出来なかった。
「っ、はい。捻ったりもしてません」
「よかった。スピンとかは良かったからね。曲の解釈は前回から煮詰まっていい感じだから、今日もちゃんと出し切れるように」
「はい」
第一滑走の選手の演技が始まる。
景湖への信頼が揺らいだオータムクラシック。演技で彼女への気持ちを伝えた。相入れることのない太陽と月とはわたしと景湖のことだった。
GPシリーズ前最後の挑戦の大会。この勝利が今後を左右することは痛いほど分かっていた。
しかし最後に一度だけ、わたしはわがままをやろうと思う。
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