月光とロマン 9
翌日、練習のために迎えに来た景湖は、引退の話はまるで無かったかのように振舞った。わたしもその方が都合が良かったので、いつものように振舞うことにした。
昨シーズンのプログラムと並行して練習していた割に、新プログラムの完成度は他の選手と引けを取っていない。そう景湖に言われて自信が持てた。
繊細かつ大胆な、夜明けをテーマにしたスケーティング。楽曲が楽曲なだけに気合いが入る。
この度、フリーでは4回転を入れた大技も組み込んでいた。成功率は今のところ30%前後。しかし成功すれば大きな得点となる。
北海道の中でも初雪が遅いわたしの地域にも雪がちらつくようになった頃、中国入りの日が訪れた。芯から冷えるような寒さ、だけどどこか暖かい。真っ白な景色に見送られながらわたしたちは日本を立った。
かつてひとりで来た北京、翌年にはあの朝日景湖と共に来るなんて夢にも思わなかった。
「楽しみだね」
轟々と鳴る機内にて、子どものようにはしゃぐ景湖が言う。
「北京ダックですか?」
読んでいた電子書籍から目を上げる。機体の下にはまだ北海道の景色が広がっていた。
「何言ってんのさ。舞ちゃんのプログラムが世界にお披露目されることがだよ」
「そんな大袈裟な」
日本と北京との時差は1時間。よって、中国杯は生放送での放映がされるがやはり注目されるべきは男子勢なのだろう。朝日景湖がフィギュア界を率いていた時代以来、わたしは女子が注目を浴びているのを見たことがない。
例えば放送時間の長さだったり、時間帯だったり、例えばニュースで放映されるインタビューだったり。ニュース番組のスポーツコーナーでは、優勝した女子選手よりも銅メダルを獲得した男子選手のインタビューが流れたりする。そんな時代にわたしが脚光を浴びるなど景湖は本気で思っているのだろうか? いや、無い。片やGPファイナル連覇を謳われた選手、片やファイナル進出すら保証されていない選手。
不幸の匂いに寄ってくるメディアからすると、昨シーズンボロボロだったわたしは格好の餌かもしれないが、それにしたって東武の注目度には勝てない。
さて、どこまで読んだっけな。電子書籍に目を落とし、文章を探った。
「大袈裟じゃないって」
が、予想外に真剣味を帯びた声色に止められた。
「まあそりゃ、景湖さんくらいの選手なら知名度もファンも沢山居たから誰しもが新プロを待ち侘びてたかもしれませんけど」
「どうしてそう自分を過小評価しちゃうかな~君は」
客観的に見たらそっちが過大評価してると思いますけど!? と反論したい気持ちを堪えた。ここで言い返せば、モントリオールでの喧嘩の再来だと思ったからだ。
「わたしは、……景湖さんみたいになりたいとは思ってます」
いつでも自信家で、気高くて美しい。孤高の存在に。
褒めればどうにかなるとでも思ったのだろうか。否、思っていた。よく言ったじゃんなんて、笑って返されると思っていた。景湖は、凪いた目で遠くを見つめていた。その時何故か、色褪せてしまった過去を見つめる目だと直感した。
「……あたしはそんなに立派じゃない。前も言ったでしょう」
「いや、その……」
どうしてわたしはこんなに焦っているのだろうか。分からなかった。ただ、触れてはならない景湖の柔らかい部分に触れてしまった、そんな感覚があった。だけどそれはわたしがずっと知りたかった部分でもあった。しかし、焦りは募るばかりだ。
「だから舞ちゃんにはあたしみたいになって欲しくないの。______そう、あたしみたいになる前に止めに来た」
あれほどうるさいと思っていたエンジン音なんて気にならなくなるくらいに、景湖の周りには静謐な空間が広がっていた。鈴の音のような声が空気を震わせる度に、わたしの心臓が早さを増す。
「舞ちゃんはあたしになるんじゃない、あたしを越えるの。朝日景湖は氷魚舞の踏み台になる為にここに居る。知名度もファンの数も関係ない。世界を、驚かせるの」
まるで祈りのような、独り言だ。わたしに向けた言葉ではないとはっきりと分かった。しかし景湖が景湖自身に言い聞かせるようなその言葉は、わたしの全身を粟立たせ、そして鼓舞した。
世界を驚かせる。出来るのだろうか、わたしに。越えられるのだろうか、わたしが。朝日景湖を。憧れの女王を。
心臓が痛いほどに跳ねる。手足がジンジンと脈打ち、頬や耳が赤くなるのを感じた。
世界を驚かせる。その言葉だけが頭の中で何度も何度も反芻し、鳴り止まない。喝采のようにもブーイングのようにも聴こえるそれは、空港に降り立つまで続いた。小説は一文字も読み進められなかった。
税関を抜け、景湖がいの一番にコーヒーが買いたいと言い出した。その頃には景湖は通常営業に戻っていた。一緒に行くかと訊かれたが、荷物を見ておくからと断ってすぐ近くのソファに腰を下ろした。
「世界を驚かせる、か」
国際色溢れる空港をぼんやり眺めていると、言葉の重みがより感じられた。今目の前を通っている人、遠くのカウンターで何か口早に喋っている人、スーツケース片手に電話をしている人、この人たち全てがわたしの演技で驚く瞬間がやって来るのかもしれない。そう思うと正直ゾクゾクした。
「世界が______なんだって?」
「うわっ!?」
突然、耳慣れた母国語が聞こえて声を上げた。加えてそれが見知った顔から発された言葉だったのだから、驚きも2倍だった。
「なしてここに!?」
「“なして”って北海道弁? 珍しい、舞が訛ってるのなかなか見ないから」
「いやいやいや、そこじゃなくて」
晴月は1泊分にも満たないような小さなスーツケースといつものスケッチブックを片手に、親しげな笑みをこちらに向けている。その姿はさながら______
「……出待ち?」
「違うって!」
「え、誰の出待ち? 東武さん?」
「だから違うってば!」
今日北京に居るということは中国杯を見に来たということだと思うが、それにしたって偶然がすぎる。それともわたしが思うより世界は狭いのか?
一方で晴月は仕切り直しとでも言いたげに咳払いをひとつして、わたしに向き直った。
「俺決めたんだよね」
「何を」
反射的に聞き返してしまったが、聞きたいのはそこじゃない。
「女子フィギュアスケーターが主人公の作品を書く。もちろんモデルは舞でね」
「……え?」
何かが、動き始める音がした。
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