月光とロマン 8
引退、か。
薄々感じてはいたが、いざ本人の口からその言葉が出るとなるとショックは並々たるものではなかった。
氷魚家を後にして、北海道特有の直線道路をひたすら走る。
「引退、そっか。引退か」
ハンドルを握る手に自然と力が入った。
第一、舞はまだそんな事を考える年齢でもない。近年の女子選手は低年齢化が激しい。だが、舞の実力ならばまだこれから活躍出来る。あたしだって、あの怪我さえなければ何歳まで現役でやっていたのか分からない。下手したら一生現役だったかもしれないし、実際そのつもりでスケートに打ち込んでいた。
かつては引退なんて考えたこともなかった。バンクーバーに出て金メダルを獲得する夢を何度見たことか。勢いのまま四大陸も優勝。GPファイナルを何連覇もして、朝日景湖という名を世界に轟かせ、プロに転向してからもアイスショーで各国を飛びまわる。そんな選手になりたかった。
なるはずだった。
事故は練習中に起こった。ファイナル優勝後、次シーズンへ向けて朝から晩まで練習に明け暮れていたのも原因の一つだった。
あたしは自分にフィギュアスケーターとしての才能があると思ったことが一度も無かった。周りよりも不器用だったからこそ、他の選手の倍以上の努力でカバーしなければいけないという気持ちから、休憩もせずに何時間も練習するなんてことなんてもはや当たり前だった。ただフィギュアスケートが好きで、表現が好きで、世界の舞台で活躍したくて。
効率なんて関係なかった。練習量さえ積めば、世界で勝ち続けられると信じていた。実際、本当にそれでファイナル優勝を果たしてしまったのだから、あたしの“練習量信仰心”はますます過激になっていくばかりだった。
思えばあたしの周りの全員があたしを止めていたのだと思う。だが、あたしは頑なに自分に休む暇を与えなかった。身体の成長も体力の限界も体調も無視した練習を続け、ほとんど気力で滑っているも同然だったその日、着地時に聞いたことのない音がした。
ブチッ、という何かが切れる音が。
刹那、痛みで息が吸えなくなった。派手に転び、氷に身体を打ち付けたはずだったが、圧倒的な脚の痛みを前にそんなものは微々たるものだった。涙でほとんど前が見えなくなり、時々視界が白くチカチカと点滅する。意識が遠のきそうだった。
「いたい、たすけて、あつい、」
きゅうきゅうと締め付けられたような喉からうわ言を繰り返す。脂汗が止まらなかった。
意識が飛びそうな痛みの中、頭にあったのはそのシーズンのGPファイナルのことだった。次のオリンピックのことだった。フィギュアスケートのことだった。今この瞬間、最悪の出来事が起きているのにも関わらず、あたしはまだ夢を見続けていた。
次の記憶は、病室で自分のニュースを見た時のことだった。『朝日景湖、前十字靭帯断裂。今シーズン復帰は困難か』。どこの誰だか知らない専門家と名乗る人間が、前十字靭帯断裂とは何かと解説していた。捲し立てるようにMCが問う。
「それでは朝日選手は今シーズンの復帰は難しいと」
「そうですね。フィギュアスケートは膝に大変負担のかかるスポーツですから、今シーズンは難しいと思います」
腹のうちから怒りが湧いてきた。どうしてどこの誰かも分からないお前らにあたしの今後を決められなければならないのか。あたしがいつ今シーズンは出られないと言った? あたしがいつ弱音を吐いた? 勝手に決めるな、あたしの未来を憶測で汚そうとするな。
しかし、あたしは徐々に現実と向き合わざるを得なくなる状況に追い込まれることになる。泣き叫びたくなるようなリハビリの日々、諦めの目を向けるコーチ、前のように跳べるようになるには相当時間な時間を要するだろうという主治医の言葉。それら全てがあたしの夢をズタズタに引き裂いて、心は徐々に夢を見ることから遠のいた。
しかし、まだフィギュアスケートを諦めることは出来なかった。引退ではなく、休止だと何度も自分に言い聞かせていた。
あたしを引退に導いた決定打はインターネットの掲示板だった。どこか縋るような気持ちで見たのが間違いだった。あたしのことを応援してくれる人はまだどこかにいる、そう信じて開いたのが間違いだった。
『朝日景湖とか言う終わったスケーターについてWWW』
『日本人初のグランプリファイナル優勝者とかどうせ金だろ。元々演技も大したことない』
『あいつの夢見てますって感じが鼻につく』
『調子乗ってるからこうなるんだよ。もう出てくるな』
『さっさと引退してもろて。おつかれさまでした』
『ご冥福をお祈りします』
『まだ死んでねえよwwwだが確かにスケート界に朝日はいらん。てか女子自体いらん』
『女子スケーターは生足需要だから必要だぞ』
『朝日景湖のヒロインぶってる感じとか主人公ぶってる感じムカつくからアイツ出てたら速攻チャンネル変えてる』
『スケート界の汚点』
目を見開いた。
広がる光景は疑いたくなるほど汚い言葉で埋め尽くされていた。呼吸が乱れ、やがて全身の震えが止まらなくなり、画面を閉じた。
あたしが______この人たちに何をした?
「う゛ッ…………お゛え゛っ、」
指先は冷たく、頭だけが妙に熱っぽい。
吐瀉物がバケツの中でどろりと傾く。
______情けない。そう思ったら無性に涙が溢れてきた。
あたしは不必要な存在だったのか。ネガティブな感情がじわじわと胸中を蝕んでゆく。
ファイナル優勝前は、日本人初のファイナル優勝者が現れるのかと期待されていただけに、この現実は残酷すぎた。あたしと世間は掛け離れた存在だった。
その日の夜はあたしにとってあまりにも長い夜になった。
「もういいです」
あくる日のリハビリで、様子を見に来たコーチにそう告げた。
「それは……今シーズンは、ってことか?」
「いえ、バンクーバーも四大陸も諦めます。引退します」
コーチは狼狽し、首を振る。信じ難いだろうが、これがあたしの出した答えだった。
「引退ってそんな。年齢的にもまだ取り返しがつく。バンクーバーがダメなら次のオリンピックにも可能性はある。復帰を待つスポンサーだってファンだって居る。どうして____」
「もういいです。あたしに期待してる人なんて誰もいません。知ってるんです。連日のニュースを見て、スポンサーを降りたがってる企業が複数居ることも。ファンだって……」
昨夜の書き込みがリフレインする。朝日景湖はスケート界には必要ない。擁護する意見もあったが、沢山の言葉によってその声も潰されていた。あたしが招いたことだ。全てあたしの責任だ。
「……今の気持ちは分かった。だがまだ時間はある。ゆっくり考えておいてくれ。リンクを下りるのはそれからでも遅くはない」
「あたしの気持ちは変わりませんから」
「……せめて、そうなる前に相談して欲しかったよ」
コーチの言葉には酷く悲しい色が滲んでいた。去りゆく背中は小さく、それを思い出してまた病室で泣いた。
結局、退院して数ヶ月経っても意思が変わらないと踏んだコーチが引退を認め、それが世間に公表された。理由は練習中の怪我による復帰困難の為、だった。補助無しで歩けるようになった頃にはもう、世間から朝日景湖の存在は消えていた。
引退騒動で亀裂の入ったコーチとの関係は修復不可能なまでになり、そのまま彼の元を去った。今もどこかでスケーターの教育に携わっているらしいが、会いに行ったことは一度もないし、この先も会うつもりはない。
今、コーチになって分かった。あの時あたしに引退の相談されなかった彼の気持ちが痛いほどに。あの小さな背中はいずれあたしのものになり、それを見て泣くのは舞になる。それだけは避けたいと思った。
コーチのことは心から信頼していたつもりだった。だが、引退という大きな決断を彼に相談し、半分委ねることによってあたしが楽な方へ流れることを嫌ったのだ。だから自分で決断した。きっと舞も似た気持ちなのだろう。頼ることは悪でも甘えでもない。責任転嫁だなんて誰も思わない。むしろそこから導き出される新しい答えもあるかもしれない。その子の可能性を見つけ、最大限引き出すのがコーチの仕事なのだから。
「だから……待ってるなんてことはしないよ」
冷ややかな空気にぽかりと浮かぶ月を見上げる。気付くのに15年もかかってしまったこの気持ちを、舞には決断の前に気付かせてあげたい。
どうやらあたしたちの関係は、そう長くは残されていないらしい。
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