光の中で 11
6分間練習で舞を見た時、嫌な予感が脳を過った。しかしその予感は、舞の選手としての努力を自分のちんけな想像で踏み躙る最低な行為だと思ったので、純粋に目の前で行われている競技に集中しようと専念した。
トリプルアクセル。美しいと思ったが、本番とは少し様子が違って見えた。舞本人も悔しそうな表情を噛み殺している様子だった。
次なる技は____転倒。フィギュアスケートに興味を持ち始めて様々な過去映像や、実際の練習風景を見ていると転倒の場面に出くわすことはままあるのだが、何度見たって痛々しい。彼ら彼女らもプロである以上は受け身も当然しているはずなのだが、それでもあの薄そうな生地をまとって冷たい氷に転倒する様子には、思わず心配の念を抱かずにはいられない。
舞はすぐに立ち上がり、練習に戻った。他の選手たちが技を決めるたびに会場では拍手が巻き起こる。特に中国の選手、林雨桐に対する声援が大きかった。彼女からも、自国開催の大会で優勝してやるという気迫が伝わってきている。真紅の衣装は炎のようにはためき、他の選手を牽制するかのように大技を何度も決めてくる。
その挑発にあてられたのか、他の選手たちもスピンやジャンプなどの技を決めるようになった6分間練習後半。未だに舞だけが取り残されていた。
先程から焦った表情で頻繁に時間を確認している。何かを振り払うように頭を振って、スピードを上げるように氷を蹴った。
舞の焦りや緊張がこちらにも伝わってくる。手に持っていたステッチブックにいつからか力が入ってしまっていたようで端がよれていた。
彼女は跳ぼうとしている。過去も失敗も振り切って、今に向き合い、ただ跳ぼうとしている。それなのに______
無慈悲にも6分間練習の終了を告げるアナウンスが流れた。
舞の滑走順のひとつ前、アメリカのエヴリン・ミラーは凄かった。彼女は登場から存在感を大きく示し、観客の心を鷲掴みにした。技を決めるごとに上がる会場のボルテージ。彼女のコロコロ変わる表情や、ステップに観客は魅了され、そして大いに盛り上がった。
彼女の紡ぐストーリーが彼女を通して伝わってくるような感覚がした。あれが舞が友人だと言っていたエヴリンか。舞とはタイプが全然違う、強くて気高い表現者だ。
演技が終わると、観客は一斉に立ち上がり、彼女に盛大な拍手を送った。エヴリン・ミラーの熱が冷めやらぬ中、彼女と入れ替わるようにリンク入りしたのが舞だった。やはり表情は暗く、重々しい。
何かを小さく呟いた。自分を勇気づける為の言葉だろうか。そうだったらいいな、と思った。
エヴリン・ミラーの点数が出る。2位と圧倒的な差をつけての1位発進な上にシーズンベストまで叩き出した。観客の感情がエヴリン一色であることは、当然舞も分かっているだろう。
「氷魚舞、日本」
アナウンスがかかり、観客たちは舞を拍手で出迎えた。しかしまだそこにはエヴリンが色濃く残っており、拍手も渋々といった人が散見された。この圧倒的なアウェイの中で舞はどう戦うのだろうか。息を詰めてその時を待つ。
彼女が大きく呼吸をした。刹那、鬱憤が爆発したかのような月光の第3楽章が始まる。最初の予定は3回転ルッツ。
ジャンプへの入りは非常に美しかった。が、勢いが殺された為か、回転の不足が見られた。崩したバランスを立て直し、フライングシットスピン。鋭く切れ味のあるスピード感。だがどこか、辛そうだった。
舞が表現したがった月光はこのようなものだったのだろうか。もっと鬱憤を爆発させたような、疾走感と爽快感のあるものではないのだろうか。今彼女から発される感情は負そのものであり、身体から音楽を奏でているというよりも音楽に振り回されているという感じだった。
「あーこれはダメだな」
隣からそう聞こえたような気がした。日本語ではなかった。だがはっきりと、そういう意図が含まれているであろう言葉が聞こえてきた。
ズンと胸に鉛のような重さが伸し掛る。舞はダメなんかじゃない、と国籍も名前も知らない人間に言ってやりたかった。同時にやり切れない気持ちに襲われた。ここはそういう場所なんだと。世界のトップが集い、ふるいにかけられる。選手の持つ背景やストーリーは関係ない。本番の2分40秒。たったそれだけの時間の中で自分の持つ最大を表現する。
彼女は、そういう場所で戦っている。
氷魚舞という日本のトップ選手に対する期待が徐々に萎んでゆく会場の空気は重かった。それはきっと、滑っている本人が一番感じていることだろう。
音楽が終わる。会場の拍手は、「素晴らしかった」と選手を讃えるというよりも「よく滑り切った」という同情に近い音だった。それがとても、虚しかった。
演技を終えた彼女が頭を下げる。ふ、と上げた顔が酷く泣きそうで、今にも消えてしまいそうな表情で。
舞がメンタル面に弱さを抱えていることは知っていた。昨シーズン、長年コーチを務めていたフョードルを亡くした時に全てが崩れたことも。それが、中国杯での出来事だったことも。
嫌な予感が、した。
本日の日程が終了し、会場を出て真っ直ぐホテルに戻る気になれず、適当なカフェを見つけて中に入った。ネットニュースで舞に関する記事を探して目を通す。概ね、『女子フィギュア氷魚舞、ショート6位発進』という簡潔なものだった。それに付くコメントは、ほとんどが彼女を応援するものだったが中には批判的なものも散見された。彼女の何を分かった上でこんな言葉を投げ掛けられるのか、不思議で仕方がなかった。かく言う自分も、氷魚舞の全てを知っているわけではないのだが。
「これ……見てなきゃいいけど」
記事には『明日のフリーは、朝日コーチの判断により4回転無しで挑むと話した氷魚選手』とある。今頃、朝日コーチと明日の構成について話していたりするのだろうか。それから上手く切り替えて明日をリラックスした状態で迎えてくれたらいいな、と願うしかない。
パソコンを開いて文字を打ち出すが、どうも気持ちが落ち着かずに先程から何度も書いては消してを繰り返している。
そわそわと浮ついた気持ちが嫌な予感を助長させる。大丈夫、舞には朝日コーチがついている。俺が出張る場面なんて無いし、第一そんな立場でもない。
すっかり冷めきったコーヒーに手を伸ばす。プロットも捗らないしそろそろ帰ろうと腰を上げた。
冷たい風が容赦なく吹き付ける。つるつると滑る道路に足を取られないよう、慎重に歩くお陰でホテルまでの道のりが倍に感じられた。道中、考えることはやはり舞のことだった。明日に備えて眠っただろうか。万が一自分を批判する記事を目にしたら______?
演技後の彼女の表情がフラッシュバックする。気が付けば、発信ボタンを押していた。
「……出ないか」
やはりもう寝たのだろうか。ただの考えすぎか。念の為、「大丈夫?」とメッセージを送っておく。
『大丈夫』
返ってきたメッセージは、明らかなSOSだった。大丈夫かと訊かれて大丈夫と答える人間は、大丈夫ではない。特に舞のようなタイプの人間の場合は。
『大丈夫じゃないでしょ、今どこ?』
送られてきた場所は、ここからそう遠い場所ではなかった。
「走るか」
最悪が頭に浮かぶ。表現者とは時に脆く、突発的に何をしでかすか分からない人間が多いと聞く。知り合いの小説家は何を思ったのかある日突然ビルの屋上から飛び降りた。アマチュア時代に仲良くしていた創作仲間は、スランプを理由に大量の薬を服用して今も入退院を繰り返している。もし、もし舞がそうなったら? 考えるだけで恐ろしかった。
氷魚舞の演技が好きだ。初めて見た時から魅せられた。彼女のバックボーンも含めて深く興味を持った。そして良き友人として、これからもフィギュアスケートのことを教えてもらいたい。だから______
部屋の前に着いた。一呼吸置いて、チャイムを鳴らす。数秒経って出てきた彼女に一見変わった様子は無い。少し目元が腫れているだろうか。しかし無事で良かった、と安堵したのも束の間。舞の頬を大粒の涙が伝った。
「えっ、なんで泣______」
「ごめん、ごめん、泣く権利なんてわたしに無いのは分かってる。本当にごめんなさい」
彼女は何に対して謝罪しているのだろう。俺に迷惑をかけたとでも思っているのだろうか。その涙は何の涙なのだろうか。分からなかった。
ただ、その泣いている姿があまりにも痛ましくて、触れれば今にも壊れてしまいそうな硝子細工のようで。しかしこういう時の慰め方なんて知らないので、とりあえずそっと手を取った。
舞の手は、氷のように冷たかった。
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