誰が為に夜は明ける 7
きっかけはちょっとした違和感だった。会場に入った時から、いや、もしかしたら朝起きた時からそれは始まっていたのかもしれない。
緊張とも違う何かが胸を圧し、身体を強ばらせる。違和感に気付いた時にはもう6分間練習が始まっていて、あたしはただ一人、ジャンプを決めることが出来なかった。
自分らしくない。歯噛みしつつも、頬を叩いて切り替える。ちらりと目が合った舞がにっこりと微笑んだ。ふわりと胸の辺りが暖かくなるのを感じた。
シンとしたリンクに氷を削る音だけがやけに響く。大丈夫、あたしならいける。コーチが居なくても、あたしなら。
やけに人の視線が気になった。四方八方からあたしを取り囲むようにしてちくちくと針のように突き刺さっているのを感じた。それを振り払うように、手を上げる。音楽の始まりだ。
曲はかつて映画賞を総舐めしたミュージカル映画の劇中歌。男女が許されざる恋に落ち、刹那の逢瀬を重ねる喜びを表した楽曲。
軽快な音楽と共に心拍が上がってゆく。大丈夫、あたしはやれる。スカートを翻し、ジャッジに向かって微笑んだ。
夕陽が落ちる寸前の街並み、東の空はすっかり夜の顔をしていて、ふたりに残された時間がそう多くはないことを意味している。男女は束の間の喜びをダンスで表現する。手を取り合い、飛んで回って。
そこはまるでふたりだけの世界。永遠は存在しないと分かりつつも、永遠で在って欲しいと願いが滲み出たふたりの目の演技には、あたしも思わず涙した大好きなシーンだ。
曲調が変化すると同時にジャンプを決めようと、した。回転不足だ。切り替えなきゃ、と短く息を吐く。
笑うような男女のボーカルが調和し、ひとつになってゆく。
ここはもっと楽しく滑るところだ。ラストに向かうにつれてふたりは自暴自棄にもほど近い感情で、髪を振り乱して踊るシーンだ。
なのに、思うように身体が動かない。手足に鉛の枷を付けられているようだった。振り切っても振り払えない。焦りがテンポをずらして、頭の中はもうぐちゃぐちゃだった。
溺れているようだった。水面からなんとか顔を突き出して、切れ切れに呼吸をしているようだった。苦しくて仕方がない。
こんなのあたしじゃない。
悲鳴に似た叫びが、心の奥底から湧き出てくる。
こんなの、あたしが好きなあたしじゃない。
あたしを水底に引きずり込むモノの正体が分からない。分からないから怖かった。黒くて大きくて、ドロドロした、物体のない物体。
普段だったらショートプログラムでこんなに息が上がることなんて無い。今はただ、苦しくて堪らなかった。早く終わってくれとも思っていた。
「______っ!!」
音楽が止んだ。戸惑いのような空気の後に、拍手があたしを包み込む。それは同情にも似た、あたしが世界で最も嫌う種類の拍手だった。
銀砂のようなものがチカチカと目の前で点滅する。四方に頭を下げている自分がどこか遠い存在のように感じられた。
挨拶を終え、グッと目を瞑り、しばらくそこに立ち尽くした後、あたしはスケートリンクを後にした。
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