誰が為に夜は明ける 6

 目を覚ましたのは、まだ空が美しく白んでいる時間帯だった。登りきらない太陽が、ビルの隙間から漏れ出ていてそれは幻想的な世界が広がっている。まさに世界のはじまり、と言うに相応しい朝だった。

 景湖が分けてくれたメイプル風味のルイボスティーを淹れ、ほっと一息吐いた。鼻腔から抜けた香りが、晴月とモントリオールのカフェで飲んだルイボスティーを思わせ、思わず口元が弛む。

 足元に目をやった。限界まで酷使してきた脚だ。ふくらはぎは今までの人生史上最高の筋肉量にまで達し、余分な脂肪を一切削ぎ落としたアスリートらしい形になっていた。

 足先に目をやった。爪先が潰れ、小指の爪なんてほとんど無いに等しい。何度かかとが炎症を起こしかけたかも分からない。

 幸い怪我も無く、ここまで辿り着けた。人に支えられながらも、自分の足で歩いてきた道だ。そしてこれからも歩いていきたい。歪だけど愛おしい、この足で。

「よし」

 内側から温まったことで、内臓が活動を再開する。椅子から立ち上がり、ぐっと身体を伸ばした。


 ショートプログラムは最後から2番目、第5滑走を引いた。第1滑走はエヴリン、第3滑走に林雨桐、そして最終滑走にアリョーナという滑走順に決まった。

 景湖と顔を合わせた時、彼女は普段通りの朗らかな表情で「行こうか」とわたしの肩を叩いた。華奢なその指に嵌められていたリングは、かつて朝日景湖が現役時代に大切な試合の時には必ず身につけていた、“お守り”としていたものだった。

 込み上げてきたものをぐっと堪え、彼女の背中を追って外へ出た。その背中にはもう、かつて焦がれたやまなかった朝日景湖の姿はない。氷魚舞のコーチとしての重責が乗った、大きな背中だった。


 会場に入ると毎回ながら慌ただしくスケジュールが進行してゆく。決められた時間に合わせて行動し、アリョーナの今にも沸騰しそうなヤカンのようなオーラを出来る限り避け、雑踏を遮断して音楽に身を埋める。

 銀砂を散りばめたような衣装に袖を通す。雨桐の鮮やかな衣装とも、エヴリンの華やかな衣装とも違う。だけど誰よりも気高く美しい。そう思えた。


「さあ、いよいよ女子シングルの6分間練習ですが、日本の氷魚舞は森さんから見ていかがですか」

「そうですね。だいぶリラックスしているように見えます。ただ、6分間練習中に他の選手の調子を見てプレッシャーを感じてしまう選手も多く、氷魚選手はそういうことが多かった為にまだ油断は出来ませんね」

 放送席からは、6色の選手たちが一斉にリンクに散らばったのが確認出来た。いの一番にジャンプを決めたのは______氷魚舞だった。

「美しいトリプルアクセルでしたね。難しい出方だった為、こちらも加点対象になります。高さも飛距離も申し分ないと言っていいのではないでしょうか」

 元女子フィギュアスケーター、森が柔らかい口調で氷魚舞のジャンプを評価した。リンクサイドでガッツポーズを決める朝日景湖をちらりと確認すると、ますます笑みが深くなった。

 何を隠そう、森は朝日と同年代の選手。怪我により引退をした朝日と入れ替わるようにして日本フィギュア界を背負って立ったのが森だった。朝日が憧れ続けたバンクーバーオリンピックに出場し、表彰台を逃したことも、しばらくは朝日の姿を重ねて見られた屈辱も、全て過去のことだ。

 その朝日がスケート界に電撃復帰し、瀕死と言われている氷魚のコーチに名乗り出るとは夢にも思っていなかった為、今こうして放送席からふたりの姿を眺めていることが不思議で堪らなかった。

「さすがは朝日景湖コーチの代名詞。おっと、続くロシアのアリョーナ・トロシュキナもトリプルアクセル、見事に決めてきました。森さん、トロシュキナ選手についてはどうご覧になりますか」

「今一番勢いのある選手と言って良いでしょうね。技術も演技も同年代の選手から頭一つ抜きん出ていると思います。演技を見る限り、メンタル面もかなり強いものを持っていると思いますので、今大会でもその実力を遺憾無く発揮してくれると思っています」

 表示されている練習時間は残り3分を切っていた。ここからは各自の滑走順によって体力を調整していく時間だ。

 森は先程からひとりの選手を気にしている様子で、チラチラと視線を向けている。それが気になったのか、隣のアナウンサーがそっと口を開く。

「先程からアメリカのエヴリン・ミラー選手を気にされているご様子ですが?」

「ええ。滑走順の問題で体力を温存しているのかもしれませんが、彼女だけは一度もジャンプを成功させていなくて。彼女なりに何か考えがあるのかなと」

 言いながら、森の胸中には一抹の不安が広がっていた。

 GPファイナルには魔物がいる。どんなにメンタルが強い選手でさえ、その魔物に呑まれたら最後、全てが崩れる。

 焦ったように下唇を噛むエヴリンを映し出すモニターに目をやって、森はどうか、と祈った。

 どうか、全ての選手たちが魔物に呑まれずに自分の演技が出来ますように、と。

「6分間の演技を終えた選手たちがリンクサイドに戻っていきます。次はいよいよアメリカのエヴリン・ミラーの演技です」

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