誰が為に夜は明ける 5
「この後どうしますか?」
自分からそう問いかけたのはもしかしたら初めての出来事だったのかもしれない。
練習は淡々と進んだ。アリョーナの険しい視線を背中に感じつつも、セルゲイの監視があるからか、今朝の一件以降彼女が噛み付いて来ることは一度も無かった。お陰で最終調整も出来たし、あとは晴月からの誘いをどうするかだった。
「んー別になんもないけど。どっか行きたいとこでもある?」
「あ、いや……」
迷った。正直に言うべきか。しかしここまで来た関係だ。隠し事はもはや無用だろう。
「空木晴月って覚えてますか? あの小説家の」
「ああ、あの子ね。いいよ、いってらっしゃーい。あたしはあたしでご飯行くから気にしないでいいよ」
「ちょ、まだ説明途中______」
察しが良すぎるのもなかなか困る。彼女の中で誤解を招いてしまったのならば、それを見過ごすわけにはいかない。颯爽と立ち去ろうとする彼女を引き止め、言葉を選びながら慎重に話した。
「彼とわたしは何もありませんから。ただ食事してくるだけです」
「何そんな怖い顔して。あたし何も言ってないしょ」
「でもなんか勘違いしてません?」
おずおずと問いただしたわたしに、景湖は真っ直ぐな瞳で答えた。
「してないって。友だちなんでしょう? 友だちは大事にしなきゃね」
どうやら、わたしと晴月の関係性について邪推している様子はない。しかしそのさっぱりとした物言いに何か引っかかるものがあった。
「そう、ですね……」
そうか、友だちか。
エヴリンからはステディな関係を推奨され(半ば冗談だが)、景湖からは友だちだと言われ。わたしは彼に対して関係性のラベリングはしたくないと強く思っている。もしかしてこれは普通ではないのだろうか。
わたしと景湖が師弟関係であるように、例えばドラマで見る相関図のように、名前のついた矢印が向いていなければいけないのだろうか。
晴月は? わたしのことをどんな名前でラベリングしているのだろうか。知りたくなった。
とりあえず彼に今夜会えるということを連絡すると、中国杯の時と同じく彼の方から場所の指定がされた。相変わらずリサーチ力が高いこと、と思いながら送られてきた店のメニューになんとなく目を通した。
様々な容姿の人々が行き交う街を歩く。カナダは国際色が他国よりもより豊かな国だなと来る度に感じる。肌の色、髪の色、顔の作り。元々移民が多い国なだけあり、平坦な顔つきのいわゆる“アジア顔”である日本人も自然に溶け込んでいる。日本で言うところの新宿みたいな感じなのかな、などと色彩豊かなモザイクのような街を見て思った。
そんなカナダだから、待ち合わせ場所が近付いても一見晴月が居るとは思わなかった。店前で熱心に本を読む青年は、自然とカナダの街並みに馴染んでいた。
「お待たせ」
晴月はわたしに気が付くとぱっと顔を上げ、本を閉じた。
「俺も今来たとこ。行こっか」
彼を先頭に、店に入る。事前情報としてカジュアルでリーズナブルなイタリアンだということは頭に入れてきた。ウッド調の店内はぽかぽかと暖かく、室温以上に温もりを感じさせてくれた。
案内された席に着くやふたりでメニューを開き、何にしようかと相談する。それから無難にピザやパスタをいくつかチョイスし、店員を呼んで注文した。
「それにしてもよくバンクーバーまで来たね。まさか来るとは思わなくてびっくりした」
晴月は言ってなかったっけと苦笑した。
「編集部に掛け合ってさ、今回は取材っていう名目で来させてもらったんだ。だから編集の小野崎さんも同行してるよ」
水をグラスに注ぎながら、晴月はわたしをちらりと窺うように見た。
「もっと緊張してると思ってた。けど______何か吹っ切れたみたいだね。NHK杯の演技、すごく感動した」
心のこもった賞賛に、思わず胸が熱くなった。それから、今日ここへ来た目的を思い出して改めて背筋を伸ばした。
「今日はお礼を伝えに来たの」
「お礼? 俺何もしてないよ」
首を振り、彼の言葉を否定した。
わたしが心から恩を感じている出来事は、彼にとっては当たり前のことだった。善意を善意と思わずやってのける彼の心の広さに、改めて人間の深さというものを感じた。
つくづくわたしは、人に恵まれすぎている。
「中国杯の夜、何も聞かずにわたしを勇気づけてくれてありがとう。あの日わたしは不安でいっぱいで、もう明日が来ないんじゃないかって本気で怖かった。晴月が来てくれなかったら、どうなっていたか分からない」
言葉を紡ぐ度に唇が震えた。緊張しているのか、内臓をきゅっと掴まれたような感覚に陥る。
息を吸い、考えてきた言葉を思い出そうとした。その間にも晴月は何も言わず、じっとわたしの言葉を待ってくれていた。
「わたし______この大会で優勝する」
口にした途端、考えてきた言葉なんて吹き飛んだ。ぶわりと風が吹き上げるような気力が心の底から湧いてくる。
彼ならばわたしの言葉を真っ直ぐに受け止めてくれる。それは叶わぬ夢だと笑わずに、誠実に聞いてくれる。それが確信から。
だからわたしは、晴月が人間として好きなんだ。
「世界中が驚くような演技をして見せる。晴月がくれた勇気を、今度はわたしが人に与えられるように」
ふ、と彼の眦に微笑が浮かんだ。
「見つかったんだ。舞が何の為に滑ってるかっていう答え」
「あ______」
郷愁すら漂うその目には、初めて会ったモントリオールが映っていた。
“氷魚さんは何のために滑ってますか?”
答えはもう、出ていたのだ。
かつて朝日景湖がわたしに与えてくれたような感動を、勇気を、フィギュアスケートの素晴らしさを、今度はわたしが世界中の人々に与えたい。絶望を与えられてもなお、人間は立ち上がれる。そのことを、伝えたい。
「現実は……時にフィクションを越えるんだ」
ぽつりと話し始めた晴月はわたしを見ていたが、発された言葉はまるで独り言のようだった。
「でもたまに、自分が描くフィクションの世界の色が眩しすぎて、現実がくすんで見えるんだ。だから、だからさ、舞」
テーブルの上に置いていた手にそっと彼の手が乗った。熱の篭ったその手は、わたしの熱と合わさって更に高い温度となって溶けてゆく。
「舞なら実現できると思うんだ。俺の
わたしたちの関係に名前など存在しない。移りゆく世界の中できっと、この関係性に名前が与えられる日はやって来ないだろう。でも、だけど、心から思うことがひとつだけある。
この人に出逢えて本当に良かったな、と。
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