誰が為に夜は明ける 4
バンクーバーに到着して2日目。時差ボケで眠い身体をなんとか起こし、今は朝だぞと自分に言い聞かせる。今日は1日練習日として設けられた貴重な時間。一時も無駄に出来ないと意気込んでリンクに入る。
数人の選手たちが各々練習に没頭する中、早速例のアリョーナの姿が目に止まった。近くにはセルゲイの姿もあった。
「うわーセルゲイだ。久しぶりに見た。ってことはあの子がアリョーナか」
「はい。目鼻立ちからして違う人種感凄いですね……」
「ねー。顔ちっさ。握り拳じゃん」
「それは言いすぎですよ。せめて______」
「何? 観光ならよそでやって欲しいんだけど」
緩んでいた空気にピシッと冷たい亀裂が走る。アリョーナから発されたロシア訛りの英語がわたしたちを指していることは、英語が得意ではない景湖にも察しがついたのだろう。唇を結んで目で何かを訴えてきた。ええと、これは恐らく「何コイツの態度」という不満の目だ。
景湖はアリョーナのSNS炎上の件を知らない。彼女は実家である『朝日工房』のインスタを運営してはいるが、あくまでも投稿目的でアカウントを所持しているだけであって他の投稿に興味はないという。わたしも伝えずにいた為、彼女がアリョーナの炎上の件を知るはずもなく。結果最悪の邂逅と相成った。
「すみません。うるさかったですか」
「ああ、英語喋れたの。どうせ分かんないと思ったのに。ええっと、你好?」
「日本人です」
こういう場面は海外に出れば数え切れないくらい遭遇する。ただ、ハナから国籍を決め付けて話し掛けて来るのは何度味わっても良い気がしない。大抵そういう人間には悪意が混じっているからだ。
最初から「どこの国の人?」と話し掛けて来れば良いものの、何故見た目で国籍を判断しようとするのか。その神経が理解出来ない。しょーもな、と景湖がぼそりと呟いた。
「日本人……ってことはあんたがマイ? じゃあ隣はケイコ? ウケる、化石コンビじゃん」
「“化石コンビ”?」
一瞬スラングかと思い、聞き返す。が、後悔した。言葉の意味を理解したからだった。何故彼女は、人を攻撃することしか出来ないのだろうか。怒りや悲しさという感情よりも疑問が先行した。
「日本人ってジョークも通じないの? 退屈な大会に退屈な日本人、ほんっとにつまんない」
「その辺にしなさい」
周りの大人たちがアリョーナに飛び付く寸前だった。セルゲイのシンとした重みのある声が彼女を制止させた。彼はわたしと景湖に向き直り、じっと見つめる。元々彫りの深い顔立ちだが、刻まれた深い皺がより一層影を作って重厚感あるオーラを作り出していた。
「君は確かフョードルの……」
「はい。生前はお世話になりました」
「……アリョーナ練習に戻るぞ。お前は政治家か何かか? ピーピーうるさい口を開く前に身体を動かせ」
その言葉にアリョーナがぷんすか頬を膨らませつつ渋々練習に戻る。どうやら一触即発の展開は免れたようだ。
アリョーナ・トロシュキナ。なんて苛烈な性格なのだろう。セルゲイが手網を握っているから良いものの、彼がいない場所でいつ火種を撒いて爆発させるか分からない危うさがある。
それにしてもセルゲイ、冷静だったな。わたしの記憶の中では彼もかなりの皮肉家でビッグマウスだったはずだ。トゲのある言い方は変わらないが、無闇にそのトゲを撒かなくなったという印象が強い。それにさっきの言葉。フョードルが言っていた言葉にそっくりだった。思い過ごしかもしれないが。
その後は静かに練習をこなした。聞けば他の選手たちもアリョーナによる痛烈な煽りを受けたらしく、リンクに出ると「大変だったね」と慰められた。
途中、アリョーナを気遣う妙に神経質な空気に嫌気が差し、景湖と話して一旦休憩することになった。何かあった時のためにスマホだけ持ち出してその場を離れる。
「っと、エヴリン!」
通路にて、前に赤髪が揺れているのを見掛けた。マイ! と嬉しそうに顔を綻ばせた彼女は長い腕を広げてわたしをすっぽりと包み込んだ。
「今日は? 練習しないの?」
リンクで見かけずに心配していたのだ。まさか怪我でもしているんじゃないかと彼女の足に視線を落とす。が、違う違うと手を振られた。
「したいけどあのアリョーナってヤツ。ムカつくから避けてんだ。マイも何か言われなかった?」
「言われた。化石コンビだって」
「化石!?」
苦々しく笑うわたしに、エヴリンは素っ頓狂な声でリアクションした。感情に素直な彼女は怒りを露わにしていた。赤髪は心做しか逆立っているように見えたし、つり目はますますつり上がったように見えた。
「アイツ……マジでムカつくね」
「エヴリンは? 何か言われなかった?」
「あたし? あたしはね、入った途端に『男探しならほか行ってくれない? ビッチが伝染るんだけど』だったね。くっだらな。よくもまあそんな人を偏見の目で見れますねって感じよ」
さすがに酷すぎる。そんな言葉を受けたエヴリンはカチンと来てリンクを離れてしまったという。納得したし、それが最も正しい対処法のように思えた。
「あたし、アイツにうっせえクソブスって言っちゃったから虫の居所が悪かったのかもね」
「あ、キレたはキレたんだ。てっきり大人な対応をしたのかと」
「あたしが? 無理無理無理。今にもグーパンチをお見舞したいくらいよ」
そう言ってエヴリンは握り拳を握ってみせた。彼女が言うと冗談も冗談っぽく聞こえないから困る。
______と、話している間にポケットに入れていたスマホが鳴った。エヴリンの拳を下げさせていた手を止めて、画面を確認する。晴月だった。
エヴリンが目で出なよ、と促してくれたので少し離れた場所で電話に出た。
「もしもし?」
「あ。ごめん。今大丈夫?」
「うん。少しなら」
手持ち無沙汰にパーカーの紐を指に巻きつけてみたりする。
「今日時間あったりする? 無かったら全然いいんだけど。会えたらいいなって思ったりしたってだけで」
遊ばせていた指が止まった。晴月は今どこに居るのだろうか。まさか。
「……バンクーバーに居る?」
「うん、さっき着いたところ」
よく耳を澄ませば、スーツケースを引く音がしている気がする。脳裏にはいつものスケッチブック片手にバンクーバーの街を歩く彼の姿が浮かんだ。
それにしてもフットワークが軽すぎやしないだろうか。わたしは東京から大阪ですら遠いなあと感じるので、約11時間のフライトは“なるべく避けたい”の一言に尽きる。選手として移動は付き物なので嫌々でもするが、晴月の場合はそうではない。移動したくなければしないという選択肢を持っている。それなのにほぼ毎回大会に来るということは、よっぽどフットワークが軽いのだろう。
「返事、後でも大丈夫そう?」
「いつでも。無理しなくて全然いいから」
「わかった。じゃ、そろそろ」
「うん。またね」
通話終了ボタンをタップする。ああは言ったがファイナル前に呑気にお茶してる場合じゃないよな、と思い直す。さすがの景湖だって断るだろう。どうしたものか。
悩むわたしの肩に重いものがのしかかった。何か言いたげにニヤニヤと笑みを浮かべるエヴリンだった。
「誰よ、今の電話の相手」
なんとも言い難かった。この場合だと友人が一番近いのか。いや、ここは素直に取材対象だと答えるべきか? でもなんかそれは違う気がする。
「まさかマイにもこんな相手が出来るなんてねえ」
わたしが沈黙しているうちに、エヴリンは何か勘違いを起こしたらしい。黙らず素直に話せばよかった! 慌てて口を開いて弁明した。
「違う違う違う。ただの_____わたしの_____メンタルケアラー?」
「なにそれ、ますます深掘りしたいんだけど」
ううん、違うんだ。
結局、晴月とわたしの間にあったことを一から掻い摘んで話すことになった。中国杯の夜にあった出来事は特に誤解のないよう丁寧に話しておいた。
「よーく分かった。確かにその関係性に名前をつけるのは難しいわね……」
「でしょう?」
「わかった。彼とステディな関係になっちゃえばいいんじゃない?」
明るくポップに出された単語はわたしにとっては背脂増し増しラーメンくらい重たいものだった。どうしてそうなるの、と目を剥くが、エヴリンは止まらない。
「名前のない関係には名前を付ければいいじゃない。ねえ?」
「そんな、マリーアントワネットみたいなことを言われても。彼とはそんなんじゃないから! そんな関係になるつもりも一切ない」
「そう? なんだ、残念」
わたしの恋愛感情はどこか欠如している。これを欠陥だとは決して思わないし、このままで良いと思っているのだが、周りから見ればそれは少し不思議に映る場合がある。時には可哀想だ、勿体ないなどと意味のわからない同情を向けられることもある。それがわたしには理解出来なかった。
晴月との関係性はよく分からない。彼のことを信頼し、好いているのは確かだ。あの夜わたしを救ってくれたのは紛れもなく彼自身なのだから。
しかし世の中にある全てのものに名前を付けなければいけないのだろうか。これは恋愛感情、これは友愛などとひとつひとつ綺麗にラベリングしなければ人間関係は成立しないものなのだろうか。わたしはそれは違うと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます