光の中で 3

 明日から始まるショートプログラムの調整は景湖に「まあいいんでない」と言わせるまでには持っていけた。

 使用楽曲は、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番『月光』第3楽章。シーズン内では誰かしらが使用していると言っても過言ではない、名曲中の名曲である。

 序盤からテンポがとにかく速く、葛藤や怒り、あらゆる激しい感情が突風の如く駆け抜けてゆく楽曲。難易度の高さは景湖の振り付けも相まってもちろんのこと、感情を乗せることが非常に苦労のいる作業だった。

 毎度の如くストーリーを思い描きながら滑るのだが、いかんせんテンポが早く、頭が追いつかないことが多い。繊細なステップ、絶妙な間で構成されたプロトコル、全てを完璧にしてこそ景湖の言う「世界を驚かせる」ことなのは分かってはいるのだが、まだまだその領域には達していないのが悔やまれるところだ。

 しかし最初からこのプロで今シーズンに挑んでいれば、なんて泣き言も言いたくない。絶対言わないと決めている。現にフョードルの死と向き合わなければわたしは今ここに居ないだろうから。

 練習を終え、イヤホンを耳に中国の街を歩く。

 景湖とは会場で分かれることになった。どうやら同大会に出場する選手のコーチに友人が居るらしく、今夜はそのコーチと夕飯を共にするらしい。ひとりにしてごめんね、と言われたが、むしろひとりの時間が好きなわたしにとっては好都合だったので、楽しんできてくださいと彼女を送り出した。

 日が落ちるにつれて賑わいを見せる商店街に、なんだか自分の町を重ねて見てしまった。わたしの町にもこれだけ活気があったら。

 わたしはわたしの地元について、“かつて活気があったであろう残骸が残る町並み”しか知らない。ほとんどがシャッターで閉ざされ、古いフォントで書かれた看板が残る商店街。

 今目の前に広がるネオンなんてひとつもない。いつ切れるかも分からない蛍光灯が、人通りのない道をぼんやり照らしているだけの寂しい空間。

 でも好きなんだよな、あの町が。なんて、ノスタルジックに浸ってしまう。明日の今頃には本番が始まっているなんて思いもしないほど、今のわたしはリラックスしていた。

 低く、スマホのバイブ音がメッセージの通知を知らせた。立ち止まり、画面を見る。

『今なにしてる?』

 晴月だった。そういえば空港で連絡先を交換したのだった。

『練習終わってホテル帰りがてら散歩してるところ』

 送信と共に既読が付き、返事を待つ。低い唸りを上げながらバイクが通り過ぎていった。

『夕飯、一緒に食べない?』

 一瞬、異性とふたりという事実が頭をよぎった。が、それ以前にわたしと彼は取材を受ける人間と小説家だ。向こうも取材以外の他意があって誘っているわけではない。思い直し、文章を打つ。

『いいよ。明日のために美味しいもの食べよ』

 送信して気付いた。わたしはひとりの時間を満喫しようとしていたのではないかと。

 しかし彼と居ると不思議とストレスを感じない。ふたりなのにひとりで居るような、気遣いや妙な緊張感から解き放たれ、素の自分で居られるような気がする。

 それならばふたりもひとりも変わらないんじゃないか。明日の為に何かひとつエールでも貰って帰ろうじゃないか。そう思うとなんだか楽しみになってきて、彼の返信を待った。

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