光の中で 10

 高校の時、初めて異性と付き合った。

 彼のことが好きだったのかと聞かれれば、未だによく分からない。ただ、彼はとても誠実だった。

 友人との雑談でよく耳にする「浮気された」だとか「相手が悪い先輩とつるんでる」などという、下衆な話は一切なかった。何よりも交際期間中、女子フィギュアスケート選手として世間の注目を集めるわたしの交際相手だということを一種のステータスとして話の種にしなかったことが彼の誠実さを物語っている。

 告白は彼からだった。これがいわゆる告白なのか、と女子高生ながらに高揚はしたが、彼に恋愛感情を一切持っていなかったことから断った。しかし、彼は折れなかった。対面はもちろん、手紙やメッセージ、電話からあらゆる手段を用いてはわたしに告白を仕掛けてきた。

「____え? それ、ストーカーじゃない?」

「いいから最後まで聞いて」

 結論から言うと、彼の熱意に押し負けた。彼が誠実であったこと、そして女子高生ながら“彼氏”という存在にちょっとした憧れを抱いていたこともあり、わたしは彼との交際をスタートさせた。肌寒さを感じる日が増す、秋のことだった。

 ある時はプリクラを撮ったし、またある時は映画を観に行ったりもした。北海道のド田舎で出来るデートを彼は提案してくれたし、わたしはそれについて行った。

 楽しかったんだと思う。それなりに。しかしそれ以上に、彼の隣に居ることが凄くむず痒かった。

 彼がわたしを好きでいてくれていることは十分に伝わっていた。だからこそ、手を繋ぎたいだとか触れたいという欲求も痛いほどに伝わってきた。その欲求にわたしは答えることが出来なかった。

「どうして……?」

「恥ずかしいって思いももちろんあったけど、それよりスケートのこと、考えちゃってさ」

 異性と手を繋いでしまったことにより、スケートの表現に何か影響を及ぼすんじゃないか。今思えば笑ってしまいそうなことを、当時は真剣に悩んでいた。

 わたしは変化を恐れていた。異性と交際することによって自分の何かが変わってしまうのではないかという、ある種脅迫のような妄想がわたしと彼の間に壁を作っていた。それだけスケートがわたしにとっての全てであり、人生だった。

 彼にデートに誘われた時、真っ先に考えるのが練習のことだった。彼とカフェに入った時、彼の話よりも流れているクラシック音楽に意識が飛んだ。一刻も早く練習がしたい、リンクに立ちたい、そんな気持ちが増した結果、わたしたちは別れることになった。

 別れようと告げたのはわたしからだった。交際開始から僅か2ヶ月後のことだった。

「それから今までずっと恋愛感情が分からない。毎日スケートのことで頭がいっぱいで……本当に当時の彼には悪いことしたなって思ってる」

 隣で晴月が大きく息を吐いた。横並びで腰掛けているベッドのスプリングが少し軋む音がした。

 晴月がわたしの部屋に来てから数時間。彼は狼狽えつつもわたしからなんとなくの状況を聞き、温かいお茶をいれ、わたしを宥めた。ようやく涙もおさまった頃、泣き腫らして熱っぽい身体が雑談がてら語り始めたのがこの取り留めのない昔話だった。

「俺もそうだったな」

「え、ほんとに?」

「うん。ちょうど小説書くのが楽しい時期でさ、彼女のこと放りっぱなしで。そしたら振られた」

 まあ、仕方ないよなあと晴月がはにかむ。

「小説楽しい時期ってことは楽しくない時期もあるの?」

「スケートではないの?」

「うーん……楽しくない、ことはない、かな。辛い時期は何度もあったけど」

 それでも、リンクに立てば、曲がかかれば、全て忘れられるような気がしていた。楽しいかなんて考えたことがない。

 今日のショートも、辛いとは思ったが不思議と楽しくないと思ったことはなかった。楽しいわけでもなかったのだが。そこには言葉では上手く表現出来ない、わたしの根底を作るか何かが存在しているからだった。スケートへの絶対的信頼のような。ある意味信仰心のような、そんな何かがそうさせていた。

「すごいな。俺はやめたいと思いながら書いてることの方が多いからさ。でもそういう時の方が後々見返してみて、いい文章が書けたりするんだよね。ネガティブもいい創作の源だよ」

「ネガティブも……。そうなんだ、うん。なんかいいこと聞いた」

 今まで負の感情に対しては忌避する存在だという認識しか抱いていなかった。そうか、今のわたしのこの感情も利用していいんだ。そう思えた瞬間、心の中で燻っていたものが霧散した気がした。

「去年、晴月が居てくれたらよかったのに」

 口をついて出たのはそんな言葉だった。言ってから、自分がとても恥ずかしいことを口にしてしまったと気が付いた。聞く人によっては思わせぶりもいいところだ。決してそういう意味ではない。しかし今から訂正しても墓穴を掘りそうで怖かった。

 ひとり慌てふためくわたしを意に介さず、晴月は言った。

「でもそれじゃあ今の舞にはなってないと思うよ。俺は、弱くて強い舞だから書きたいって思えたんだ。悲劇のヒロインの逆転劇とかそういう意味じゃなくてね」

 ああ、やっぱりこの人は信頼出来る人間だ。

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