光の中で 9
「ショート6位発進という結果、ご自身でどう受け止めますか」
「応援してくださった方々には本当に申し訳なく思っています。技術面の不足でもそうですし、メンタル面で大きく崩れてしまったのが原因です」
「明日のフリーへ向けて今どうお考えですか」
「もちろんグランプリファイナル進出へ向けて順位を上げることに専念します。ショートより更に難易度の高いプログラムになっているので、より一層集中して取り組みます」
「演技終わりに、朝日景湖コーチと何かお話されていた様子でしたが、具体的に何をお話されていたのでしょうか?」
「えっと______」
殺していたはずの心が揺れ動く。演技直後、キスクラにて景湖は言った。「明日のフリー、4回転は入れない。今出来る最大限をやって見せて」と。
一切わたしを見ないあの目。ああ、わたしに呆れているんだろうなと思った。いつまでも過去のトラウマに苛まれ、前へ進めない。
足踏みなんて言葉は景湖は知らないんだろう。地に縛られたような苦しみを、彼女はきっと味わったことがない。
「____明日のフリーは今出来ることをやれと。そう言われました。その言葉通り、今のわたしに出来る最大の演技を皆さんにお見せします」
囲み取材の後のことはよく覚えていない。景湖と軽く打ち合わせをした後に部屋に帰り、倒れ込むようにしてベッドに寝転んだ。
おなかすいたな、と疲労した頭で思った。が、胃袋はキリキリと痛み、食べ物を受け付けられそうな状態ではない。このまま寝てしまおうか、と惰性に身を任せそうになる。メイクも髪の毛をガチガチに固めている整髪料も落とさなきゃならないのに。
緊張が解けた身体は言うことを聞かず、意識が現実と夢との境目をゆるゆると行き来する。ああ、目覚ましかけなきゃな、______
「ッ……!?」
電話だ。一気に意識が覚醒し、ベッドから飛び起きる。帰ってきてから何時間経過していたかは分からない。まだ窓の外は暗かった。
電気も点けずに横になっていたので、薄暗い部屋の中でスマホの明かりだけが妙に眩しかった。テーブルの上で低く唸る着信音が、わたしの心臓を痛いくらいに鼓動させる。
______舞、大事な大会を控えた君に悲しい報せなんてしたくないが___でも伝えなきゃいけない。いいか? 覚悟して聞いてくれ______
張り詰めたあの声色、空気感、今でもはっきりと思い出せる。
わたしはまだ、あの日の夜の出来事を払拭出来てはいない。一度負った傷は自分でも気が付かないほどに深く、それは一生消えることが叶わないのかもしれない。
自覚するほど苦しくなって喉の奥が締め付けられた。大粒の涙が頬を濡らす。
胸を圧すのは悔しさだった。自身の弱さが悔しかった。憎かった。それこそ、消えてしまいたいほどに。
一生このままなのだろうか。わたしは一生弱いままなのだろうか。人に気を遣われ、腫れ物のように扱われ、自分でもどこか保身に走ろうとするようなそんな人間のままで生きていくのだろうか。
明けることのない暗闇がわたしを包み込む。このまま沈んで落ちていけば、何か新しい景色が見えるのだろうか。
いや、この夜は長すぎる。わたしひとりじゃ背負いきれない。今にも胸が張り裂けそうで、苦しくて堪らない。痛い、誰かわたしを______
電話が鳴り止む。少し置いて、メッセージを受信した。依然として震えは止まらなかったが、メッセージを確認した方が良いと思った。不思議と、悪い予感はしなかった。
『大丈夫?』
晴月だった。ホッとしたような余計に不安になったような、複雑な心境のまま反射的に「大丈夫」と返信した。______途端に、既読がついた。
『大丈夫じゃないでしょ、今どこ?』
縋っても良いのだろうか、このまま。彼に居場所を教えたところで、これから来るはずの朝を一緒に待ってくれるだろうか。
しかしひとりも辛かった。誰かに助けを求めたかった。ただ隣に生きている体温が欲しいと思ってしまった。
甘い誘惑に、負けた。わたしひとりにこの夜は長すぎる。ホテルの名前と部屋番号を伝えてしまった。
『すぐ行く』
闇を照らすスマホだけが心の中ではち切れそうな何かを繋ぎ止めていた。
部屋のインターホンが鳴り響く。鉛のような身体を持ち上げ、ドアスコープを覗き込んだ。瞼に触れた金属が冷たかった。
ドアの向こうには肩で息をする晴月が居た。前髪もくしゃくしゃで、白い頬は林檎のように赤らんでいる。相当心配して飛んできてくれたに違いない。
わたしは、あなたの期待も裏切ったのに。
鍵を開け、ドアの隙間から晴月が見えた途端、再び堰を切ったように涙が溢れ出した。彼の優しさがあまりにも暖かかったのもあるが、同時に申し訳なさも湧いて出てきたからだった。
「えっ、なんで泣____」
「ごめん、ごめん、泣く権利なんてわたしに無いのは分かってる。本当にごめんなさい」
晴月は戸惑っていた。しかし彼は聡い人間だった。戸惑いつつも冷静さを失わず、そっとわたしの手に触れた。
「……と、りあえず中入ろう。どうしてそうなったのか、話せる範囲でいいから聞かせて」
彼の手は、雛鳥のように暖かかった。
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