誰が為に夜は明ける 10
各々が支度を終え、明後日のフリーの為に気持ちを切り替えようと励む中、彼女はただ一人コーチの声すら無視して会場を後にしようとしていた。その背中に呆れるセルゲイを追い抜かし、わたしはアリョーナの肩を叩く。
「ちょっと時間ある?」
人形のような青い目が、不審そうにわたしを映す。
「……声掛ける人、間違ってんじゃない? 散々な結果だったあんたのお仲間に慰めの一言でも掛けてやったら?」
アリョーナがちらりと目線を送った先には、“魔物”に呑まれても尚、気丈に振る舞うエヴリンが居た。しかしその笑顔は長年の付き合いが無かったとしても分かるくらいには歪んでいた。
それでもわたしはアリョーナを選んだ。それに、エヴリンはこういう時に声を掛けられるのを一番嫌がる人間だ。それは、長年彼女と共にリンクに上がってきたからよく分かる。
「彼女なら大丈夫。今はあなたと話がしたいの」
アリョーナの眉が少し意外そうに上がった。こんな表情も出来たんだ。
「……いいわ。あっちのカフェで話しましょ。あのうるさいセルゲイの嗄れた声が届かない場所でね」
あのセルゲイをそんな風に呼べるなんて、どれだけ肝が据わっているのだろうか。もしもフョードルがアリョーナを見たら驚いただろうな、と想像し、彼女には見えないように頬を緩ませた。
アリョーナを半歩先に歩かせて、わたしたちは雪がちらつくバンクーバーの街を歩いた。彼女の言ったカフェは案外会場から近く、彼女曰く“灯台もと暗し”だそうだ。
香りがスっとしたカモミールティーが届いたところで、アリョーナの方から話を切り出された。
「で? 日本の小魚が私に何の話?」
「小魚……。えっと、今日のアリョーナの演技を見て知りたくなったの。あなたのこと」
「なにそれ。練習内容とか、トレーニングの内容とか?」
「違う」
ますます疑問を深くしたらしい彼女は、ティーカップで指先を温めながら自然と前のめりになる。
「わたしが知りたいのは、あなたがスケートをやっている理由について。だって、あんなに凄い演技をするまでどれくらいの努力をした? どれくらいの時間を掛けた? それほど熱量を掛けて出来るって、相当な理由がないと出来ないと思うんだよね」
アリョーナ・トロシュキナの練習時間は異常だということは、同じスケーターなら想像にかたくない。半日を超える日も少なくないその練習を、とある記者は“命の前借り”と書いていた。言い得て妙だとわたしも思う。
調べた範囲で知り得たアリョーナの練習は、弱冠16歳という未成熟な身体にはあまりにも負担が大きく、フィギュアスケーターにとってどれだけ選手生命を短くする行為なのかを、同じ女子選手としての道を歩んできたわたしなら想像出来た。
スケーターならば誰しもが直面する身体の成長。グラム単位で身体の重心が変化する世界。今日は出来た技だけど、来週には出来なくなっているのかもしれないという恐怖。立ちはだかる壁は自分自身というどうしようもないジレンマ。
苦しいはずだ。心も身体も壊れてもおかしくない。しかし彼女は何事も無いような表情で、言葉という鎧を身にまとって世界を相手に闘っている。その本心が、知りたかった。
「これはわたしの単純な好奇心。嫌なら答えずに今すぐ帰ったって構わない。だけど知りたいの。あなたの強さの本質を」
目を、見た。その青く澄んだ瞳の奥には何が映るのかが知りたかった。次の瞬間、金色のまつ毛が縁取る大きな瞳は、あの苛烈なアリョーナだと思えない程に柔らかく弛緩し、目線がハーブティーに落ちた。落ちた影すら芸術品のようだった。そう思えるくらい彼女は美しい。
時の流れが緩やかに感じられる。店内に流れる上質なクラシックがより一層雰囲気を引き立てていた。
「私、今年で引退するんだ。就職するの」
紡がれた言葉に嘘はなかった。ビッグマウスが鎧を外した姿は、16歳の少女らしい、まだ幼さが残る話し方だった。
「私の家はそうね……裕福とは言えない。貧乏でもないけど。いわゆる労働者階級ってやつなの。だからスケートで家族を養おうって決めてからずっとずっと練習してきた」
直感で、誰にも話したことがないのだろうなと思った。アリョーナは小刻みに震える指先をティーカップに押し付ける。
「強くなれば、スポンサーが付く。強くなれば、家族が喜んでくれる。だから今まで血を吐くような努力も惜しまずやってきた」
だけど、と言葉を継ごうとする彼女の口からはなかなか次の言葉が出て来なかった。躊躇うように、戸惑うように、恐れるように、詰めていた息を吐いて、ようやく目を上げた。
「だけど、もう限界なの。私の身体は私がどんなに嫌がっても成長する。強い私だからこそ、勝ってきた私だからこそ、私は負けられない。ロシアの天使は美しく舞ってこそ天使なの」
ひと呼吸おいて彼女は続ける。
「あなたならこの気持ち、分かるでしょう?」
かつて氷上の白魚と呼ばれたわたしは、フョードルの一件で落ちた白魚と呼ばれた。酷い時にはドブ川の白魚とも揶揄された。
あの時受けたバッシングは今でも鮮明に思い出せる。胸の奥がツンと痛み、張り裂けそうな気持ちは二度と味わいたくはない。
フィギュアスケーターとして、美しく在りたいというのは誰もが胸の内に抱く気持ちだ。しかし、アリョーナが抱くそれは他の誰よりもずっと強い執念に似たもので。
美しくないのならば去るべきだと、そう語る瞳にわたしは一瞬どんな言葉を掛けるべきかを考えた。
彼女は自分を終わらせる気で居るのだ。強さしか見せてこなかった故の、対価と言うべきものが今、彼女に降り掛かっている。
「わたしは今回の大会で必ず優勝する。優勝台であなたの上に立ってみせる。世界中を驚かせて、世界中から賞賛の声を浴びる」
「あなた何言ってんの」
「アリョーナ。あなたに優勝を譲る気は毛頭ない」
吹くはずのない風が、ぶわりと吹き荒れる。
「転ぶことを恐れたらフィギュアスケートなんてやっていられない。それは誰よりも転んできたあなたが一番よく分かってる。だからわたしはあなたに宣言する」
腹は括った。氷魚舞は、もうどこまでも泳いでいけるから。
「わたしはあなたに必ず勝つ。あなたがいくら転んでも手加減はしない」
遠く遠く、頭の上に輝く月。それが雲に隠れようとするならば、わたしは雲を吹き飛ばす風になってやろうと強く思った。
この努力の天才をここで終わらせていいわけがない。今後のスケート界を牽引するであろう存在を、ここで終わらせやしない。そんなの絶対、わたしが許さない。
そしてきっと、多分だけど、フョードルも同じことをしただろう。
「……私、あなたのこと勘違いしてたみたい」
アリョーナはふ、と笑みをこぼして頬杖をついた。
「このアリョーナ・トロシュキナに随分なこと言うじゃない。てっきりもっと弱いメンタルの持ち主だと思ってた。いいわ、その宣言受けて立つ」
ただし、とアリョーナは付け足した。もう、先程までの幼いアリョーナはどこにも居ない。見知ったビッグマウスの彼女がそこに居た。
「私もアンタみたいなナヨナヨした日本人に負ける気なんか1ミクロンも無い。こっちはあのセルゲイと私よ? オリンピックに出られなかった化石コーチとドブ川の小魚コンビに負けるわけないじゃない」
強いロシア訛りに、ふとした安堵すら感じてしまう。アリョーナはこうでなくちゃ。
「じゃあ、わたしが勝ったらまだ競技続ける?」
「その話は別。もう決めたことだから。セルゲイにはまだ話してないけど、大会が終わったら話すわ」
「そう……」
「負けは死」という執念を抱く彼女に、ある種の孤独と闘う彼女に、わたしはこれ以上何をすればいいのだろうか。
勝ちを譲る気は無いが、わたしに負ければ彼女は心置き無くスケート界を引退することだろう。
フィギュアスケート界は入れ替わりが激しいのも事実だ。アリョーナのように身体の成長スピードに追い付けなくなった者、金銭面で苦労して辞めざるを得なくなった者、才能に伸び悩んで辞める者、沢山の人間の上にわたしは今立っている。
どうにかして手を差し伸べられないだろうか。わたしはわたしの勝ちを譲らないまま、全てを解決に導く手段は無いのだろうか。
薄れゆくハーブティーの湯気を眺めながら、わたしたちは静かな時間を過ごした。
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