誰が為に夜は明ける 8

「“魔物”に呑まれたかな」

「“魔物”?」

 エヴリンの演技を見ていた景湖が呟くように言った。

「ファイナルにはね、いるんだよ。そういうのが。上手く表現出来ないけど、そういう類のものに引っ張られる選手がいるの」

 画面に映し出されたエヴリンの点数は、わたしが記憶している限り彼女の中の最低得点だった。キスクラでひとり耳を塞ぐ彼女の姿を見ていられずに、思わず画面から目を逸らした。

「舞ちゃん、厳しいことを言うようだけど今は人の心配よりも自分の心配しな。ここに居る人間は全員、優勝台の一番上を目指してやってんだよ。同情も甘えも必要ない」

「……はい」

 そうだ。エヴリンは人に同情されるのを最も嫌う性格の持ち主だ。

 慰めの言葉よりも、自分にとって糧になる言葉を欲する人間だ。それが例え批判的とも取れる言葉だとしても。

 わたしはGPファイナルで優勝したい。優勝する為にここへ来た。それこそ、エヴリンの演技に同情して手を抜くなんてことは絶対にしない。ここに居る全員がライバルだ。

 林雨桐が演技を終えた。発表された点数に会場がどよめく。88点台という大台を叩き出したらしい。そんなことはもう、わたしの耳には届いていなかった。

「行ける?」

「いつでも」

 キラキラと輝く瞳は夜明けを見据えていた。もう、足元も覚束無い月光の中は歩かない。太陽のように眩しい、夜明け前の一瞬の閃を放つような月光しか、見えていない。

 弾かれるようにしてリンクに飛び出した。


 スっと息を吸い、ポジションにつく。

 この瞬間はいつも緊張する。針の落ちる音すら聞こえそうなほど、世界から音が無くなる一瞬の時間。そして、______音楽が始まった。

 跳ねるとも、鍵盤を叩き付けるとも違う、だけど波のような始まり。細かいエッジとターンが津波の如く押し寄せる。

 ずっと、暗がりを歩いてきた。人が群がる日向を避け、独りの世界を好んで生きてきた。でも独りだと思っていたのはわたしだけで、傍にはずっと人が居た。

 家族もフョードルもエヴリンも景湖も晴月も、わたしの愛するスケートと共にそこに居てくれた。

 月光が射す道は決して明るいものではない。時々雲間に隠れ、自分の手元すら見えなくしてしまう時だってある。わたしはそれしか知らなかった。そんな世界しか、知らなかった。

 今暗がりの中に居るあなたへ。どうか、この気持ちが届いて欲しい。今は雲に覆われているかもしれないけれど、そこには大きな月があるのだと知って欲しい。

 あなたの道を照らすものは必ずある。見えていないだけだ。気付いていないだけだ。

 絶望の先に待つのは希望だとは限らない。また絶望が待っていて、果てのない夜が訪れるかもしれない。だけど、一歩ずつでも進む勇気を、あなたに。

 誰かの月光になりたい。星屑よりも遥かに明るいけれど太陽よりも控えめで、それでいてあなたの傍にずっと居る存在に。

 わたしはここに存在している。月のように変化をしながら、あなたの傍にずっと居る。

 重たい水の中はもう懲り懲りだ。新しい世界を、あなたに。


 放送席はいつもよりざわついていた。

 会場の熱気に当てられたのか、ワイシャツの第一ボタンを開けて風を通す。

 隣のアナウンサーは平静な声を努めているが、その目からは緊張と興奮が伝わってくる。かく言う森もそうだった。

 今夜の氷魚舞は今シーズン、否、彼女史上最高の演技をして見せた。ノーミスなんて言葉ではこの世界は語れない。語り尽くせない。

 月光を通して何かを訴えかけるようなステップ、繊細かつ大胆なエッジワーク、極めつけは完璧なジャンプ。これを完璧と言わざるして何を完璧と表現するのだろうか。

 久しぶりに鳥肌が立った。同時に、涙が溢れそうになった。演技を通して何かを訴えようとしている彼女の目が、あまりにも優しく慈愛に満ちていたから。

 まるでそう、「あなたはひとりじゃないよ」とでも言いたげな、そんな目が。

「日本初のGPファイナル優勝者である朝日景湖コーチに迎えられ、今キスアンドクライにて抱き合っています。いやー森さん。凄い演技でしたね」

「ええ。完璧という表現以外見当たらない。そう言っていいでしょう。昨シーズンの結果から、よくここまでの完成度まで持ってこられたなと。本当に素晴らしい演技でした」

 得点が発表される。一瞬の静寂の後に、出た。同時にアナウンサーが点数を読み上げる。驚きと喜びが混じった声で。

「91.32! ショートプログラム世界歴代最高得点を越えての点数を叩き出しました日本の氷魚舞!」

 当の本人はまだ何が起きたのか分かっていない様子で、モニターをじっと見つめていた。その様子が、かつてファイナルの優勝を決めた時の景湖と重なっておかしくて堪らなかった。あの時も確か景湖は「え? なに? 優勝?」と何度も目を擦っていた気がする。

 森はマイクから手を離し、椅子の背もたれに身体を預けた。

「やっぱ景ちゃんの弟子だなあ」

 その目には、かつて越したくても越せなかった朝日景湖が金メダルを掲げる姿が映っていた。

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