月光とロマン 7

 帰国してからは、中国杯までの残り少ない期間を新プログラムの練習に費やした。

 地元の空港に貼られたわたしのポスターは相変わらず色褪せたままだったが、町で出会う人々は皆一様にわたしの4回転の成功を口にし、応援の言葉をくれた。

 一方で、メディアがフィギュアスケートを取り上げる時には東武をメインに扱うことが多かった。男子フィギュアの話題に始まり、東武のプログラムの注目ポイントなどを紹介し、最後の最後に「女子では先日、日本女子シングルとしては8年振りとなる4回転トウループを決めた氷魚舞選手に注目が集まっています」などと締め括る。もっと取り上げてくれてもいいじゃないか、と父が憤っていた。

「仕方ないよ、女子と男子じゃ大会の放送時間も違うんだし」

 GPシリーズの女子フィギュアの放送時刻は夕方が多く、男子はお茶の間の注目度が高いゴールデンタイムが多い。特に海外で行われる試合だと録画放送が基本で、その分放送時刻もテレビ局の都合次第だ。

 そういう小さな諦めから、いつしかわたしは思い描く理想など存在しないという思想を心のどこかで抱くようになっていた。

 女子フィギュアスケートが注目を浴びる時代。4回転を何本も跳ぶような、派手で力強い見せ場が無くても、曲の解釈や表現で評価を得るそんな時代を、わたしも作りたかった。それを二十歳という若さで実現させた朝日景湖にはまだ遠く及ばない。

 帰国して間もなく、GPシリーズが開幕した。優勝候補と呼ばれている選手はロシア、アメリカ、中国、そして日本。

 テレビではアサイン決定時に宣言した、各選手の今シーズンのテーマをダイジェストで放送していた。あの時のことは今でも覚えている。まだ向けられるカメラが怖くて、全てが自分の敵に見えていた。どんなに練習しても拭えない自分への失望感。今よりも幾分げっそりして見える自分が今年のテーマを問われていた。

 _____あれ、なんて答えたっけ。

 状況は鮮明に思い出せるのだが、肝心の内容は思い出せない。テレビの中の自分は、恐る恐る手元のフリップをこちらに向けた。

 そこには“夜明け”と、控え目な字で書かれていた。

「“夜明け”について詳しくお聞かせ願えませんか」

「はい。昨シーズンは結果が振るわず、一時期引退も考えたほど悩みました。本当に、長くて明けない夜のような日々でした。でも今年は、朝日景湖コーチと出会い、新しい自分として日の目を見られれば良いなと思ってこのテーマにしました」

「挑戦、という意味も含まれているのでしょうか」

「そうですね、昨シーズン成功が叶わなかった4回転にも変わらず挑戦したいですし、朝日コーチと作る新たなプログラムに挑戦するという意味も込めています」

「ありがとうございます」

 なるほど、夜明けか。我ながら良いテーマを選んだと思う。実際、わたしの今シーズンの選曲も夜や夜明けといったテーマが織り込まれた楽曲を使用していた。平生、このようなインタビューは苦手だが当時のわたしなりに色々考えて臨んだんだなということが窺えた。

「では最後に」

 え、まだ終わらないの? 再びテレビに視線を向けた。当然何を質問されたのかは覚えていない。

「先程、引退を考えたこともあるとのコメントもありましたが、今後について何かお考えがあれば」

「なんて失礼な!」

 ヒステリックな声を上げたのはいつの間にか隣に居た景湖だった。最近ではわたしを送迎するついでに家に上がって夕飯を共にするのが日常と化していたので、今日も例に漏れず我が家のようにくつろいでいたのだった。

「舞ちゃん、このインタビュアーの名前憶えてる? あたしが今からでも電話して_____」

「ちょっと景湖さん聞こえないってば!」

「______ですね」

「ほらー! 聞き逃した!」

 一瞬動揺した様子の会場。しかし、番組では特にその内容には触れず、『氷上の白魚、今年こそは悲願のGPファイナル出場となるのか!?』という煽りが出ただけで、話題は次の選手へと移った。

「……てか舞ちゃん、自分が答えたことでしょ? 忘れたの?」

「この時は久しぶりにカメラの前に出て緊張してたし曖昧で……」

「まさか今シーズン限りで引退とか言ってないよね」

「いや、それは」

 全くない、とは言い切れなかった。この時のわたしの精神状態だ。緊張から何を言ってもおかしくはない。

 競技を続けるか、スケートをやめるのか、沢山のことを考えてはいたが、景湖に出会った日、「まだリンクの上に立っていたい」と心から思った。だから決断を先延ばしにした。この先どうするか、答えはいつか見つかると信じて。未だに見つかっていないその答えを出さなければいけない日は刻々と迫っている。そう、選ばなければいけないのだ。自分がいかに割り切れなくとも、答えは自然に出てくるものではない。

 競技者でいられる時間は短い。周りが社会人という“大人”になっていく中、わたしはまだそれを認められずにいる。第一、景湖はいつまでわたしのコーチで居てくれるつもりなのだろうか。

 今、わたしの胸を圧すのは現実という高い壁だった。

「舞ちゃん?」

「えっ? あ、なんでしたっけ」

 ぱちん。泡が弾けたように視界が開けた。

「もー。また“めちゃくちゃ重いこと考えてました”って顔してる。なんも一人で抱え込まなくていいのに」

「か、考えてませんって」

「ウソだね。何ヶ月一緒に居ると思ってんのさ。たまには人を頼りなよ。じゃないと思考の渦に巻き込まれて潰されちゃうよ」

 口調は軽いが、真剣な眼差しが眩しかった。

 景湖も同じような岐路に立たされたはずだ。彗星の如く現れて、怪我で引退を余儀なくされたあの時に。完全にリンクを下りるというセンシティブな話題に、そう簡単に触れても良いものか。

「景湖さん、わたし____」

「ご飯だよー」

 緊迫した空間が、間延びした母の声により温かな“実家”へと引き戻された。

 景湖は一瞬諦めたような眼差しを向け、腰を上げた。

 わたしは今何を言おうとした? それすらも分からない。だからそれを分かって欲しかった。言えない、言わない、のではない。むしろ決断が下った時に真っ先に伝えるべきなのは景湖だと心から思っていたから。

「待ってください」

 服の裾を掴む。喉がどうしようもなく渇き、無理矢理唾液を飲み込んだ。

「この先のこと、どうしたらいいかずっと悩んでます。い、引退か、続けるか。ファイナルまでは考えないようにしています。決めたら必ず一番に景湖さんに言います。だから、だからそれまで待っててくれますか」

 言い終えて顔が熱くなった。なんだ、待っててくれますかって。それではまるで告白みたいじゃないか。

 ドギマギしながら景湖の言葉を待つ。否定か、肯定か。否、心のどこかで景湖の肯定の言葉を待っていたことは確かだった。

「わかった、話してくれてありがとう」

 返答は至ってシンプルなものだった。静かな瞳で柔らかに眦を下げ、景湖は母の手伝いにその場を去った。

 わたしは頼りなく空を掴む手を虚しく下ろし、詰めていた息を大きく吐いた。望んでいた答えが返ってこなかったという虚しさが、自分の欲深さとの裏返しになっていると感じ、恥じたからだった。

 わたしは恥ずかしい人間だ。景湖にここまで連れてきてもらって、あまつさえ今後の決断まで景湖に半分委ねようとしていたなんて。

 人に委ねるのは簡単だ。何か起きたら責任はその人に押し付けられるのだから。そんな自分が堪らなく嫌いになった。いつからこんなに甘い考えをするようになったのだろうか。

 だから人に相談するのは苦手なんだ。

 わたしという人間を誰かに押し図られるのも、何かの型に押し込まれるのも。やはりわたしはひとりが向いているのかもしれない。

 景湖と育んだ日々の中で、人との距離感は幾分か掴めるようになったが、根本は変わらない。その事実を、悲しいくらい突きつけられてしまって喉の奥から熱い何かが込み上げてきた。

「わたしは、強い人間なんかじゃない」

 小さく呟いて膝を抱えた。わたしは、いつか景湖に言ってもらった言葉すら否定する、最低な人間だ。

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