光の中で 12
「じゃあ、応援してるから」
「うん。ありがとう」
結局晴月は朝まで一緒に居てくれた。男女が個室でふたりきり。しかし彼がわたしに触れたのは、部屋に入ろうと手を取ったその時だけだった。
一睡も出来なかった。瞼は腫れぼったいし、顔も浮腫んでいる。コンディションとしては最悪だ。体調管理が第一の選手が聞いて呆れる。
「とりあえずシャワー浴びるか」
熱い湯を浴び、強ばった身体を解すよう努める。どうしたって緊張も不安も拭えるわけではない。だが、それすら味方につけて戦ってやるという強さがわたしの中で芽生えていた。
「おは……どうしたの! その顔!!」
景湖には開口一番、素っ頓狂な声を上げられた。そりゃあそうだ。部屋を出るギリギリまで氷で冷やしたりはしたが、「泣きましたよ」フェイスはそう簡単に元には戻ってくれなかった。
「いやー……色々ありまして……」
「色々って……。うん、まあ……そうね、深くは聞かないでおくわ。でもほんっと……舞ちゃんはどうしてそういう時にコーチであるわたしを頼ってくれないかなあ~」
「すみません……」
それに関しては謝るしかない。
「まあいいわ。その顔、さては全然寝てないしょ」
「はい……」
「よし。とりあえず会場行って、色々判断するわ」
こういう時、却ってネガティブにならない景湖が好きだ。ピンと背筋を伸ばし、行く先を照らしてくれる。そんな彼女に、わたしは憧れ続けている。
数時間後、わたしは衣装を前に生唾を飲んでいた。
練習は昨日よりはマシに思えた。エヴリンだけに留まらず、数回程しか会話を交わしたことのない雨桐にも心配された顔をなんとかメイクで整え、鏡の前に今立っている。
フリーの衣装はパンツスタイルにした。使用楽曲の歌唱が男性であることと、楽曲から漲る強さを表現したいと考えたからだった。黒のパンツに、白と黒のグラデーションがかったトップス。この衣装を見た時、景湖が「まさに夜明けだわ」と言ったのが印象深い。
衣装に袖を通し、鏡の前で確認する。自然と闘志が湧き上がった。
「うん」
不安は尽きないけれど、ここで終わらせたくないという気持ちの方が遥かに大きかった。耳にイヤホンを装着する。音楽がわたしの気持ちを昂らせる______
「いってらっしゃい」
「いってきます」
こんな言葉をあと何回交わせるだろうか。刹那の寂しさを振り払って、スタート位置に着く。最終グループ1番滑走。きっと、誰も期待なんかしていない。まだわたしに世界を驚かせることなんて出来ない。だけど今出来る最良を、出し切りたい。
曲はプッチーニのトゥーランドット。第三幕の『誰も寝てはならぬ』。プッチーニ作曲のテノールのアリアの中で最高傑作と評され、他でもない朝日景湖の代名詞と呼ばれる曲。
中国の北京に居たトゥーランドットという名の美しい姫君と、トゥーランドットに一目惚れをしたカラフという男の物語。トゥーランドットは見た目に反して冷酷な心の持ち主で、求婚してきた男性に無理難題を押し付けては失敗した者を処刑するという悪趣味極まりない行為を行っていた。しかし、ある日彼女に一目惚れしたカラフがトゥーランドットの課題をクリア。動揺したトゥーランドットは約束を反故にしようとしたが、そんな彼女に対してカラフは「夜明けまでに私の名を明らかに出来たらあなたにこの命を捧げよう」と提案する。
トゥーランドットは躍起になって北京の市民に「夜明けまで誰も寝てはならぬ」という命令を下す。やがてカラフの名を知る者が捕らえられるが、カラフに密かに想いを抱いていたことから自害。唯一の希望を断たれ呆然とするトゥーランドットだったが、カラフは「あなたの冷たさは偽りだ」と言いキスをし、自ら名前を明かした。するとカラフの愛がトゥーランドットの愛を呼び起こし、トゥーランドットは「彼の名は“愛”」だと叫び、歓声の中オペラは終わる。
第三幕の『誰も寝てはならぬ』は、カラフの名が明らかになるまで誰も寝てはならないという命令が北京に下され、カラフが自らの勝利を確信し、トゥーランドットへの愛を歌い上げるという場面。
今のわたしにはそんな自信も勝利のビジョンも見えないけれど、晴月が言ったようにネガティブも何かの根源になるのならば。
思い切り氷を蹴る。ワッと拍手が巻き起こった。一睡もしていない割に妙に頭がスッキリとしている。身体もついていけている。音楽とわたし、どちらかが主導権を握る訳でもない。互いに尊重し合いながらそこに存在している。
緊張も不安も全部わたしのものだ。針で刺されたような痛みを伴う長い夜の存在を知っているのも、そんな夜がいつかは明けることを知っているのも、みんなわたしの弱さであり強さだ。相反する感情が混在するのがわたしであり、人間だ。トゥーランドットもそうだったはずだ。冷酷さの中に愛を求める心を持ち、最終的にその心はカラフの愛によって溶かされた。
わたしの夜明けはまだ遠い。だが、この手を伸ばし続けることをやめてはいけない。夜を、星を、振り払うこの手を、決して諦めてはいけない。
地響きのような歓声がわたしの鼓膜を震わせる。頬を伝う汗を拭って、わたしはその日初めての笑顔を見せた。
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