光の中で 16
「氷魚舞さん、日本」
多くの日本国旗に迎えられながら、わたしはリンクに飛び出した。緊張もしている、プレッシャーだってある、不安なんていくつ挙げてもキリがない。だけど、心は晴れやかだった。
6分間練習の感触もかなり良かった。最終グループの第2滑走という順番もなかなか良い。あとは音楽を聴いて、楽しむだけ。
曲がかかる。激しい和音のぶつかり合い。音に合わせたエッジワークも我ながら出来ている。物事を俯瞰する冷静さも欠いていない。大丈夫、できる。
月光の第3楽章は葛藤だと直感で思った。様々な相対する感情が激しく交差し、ぶつかり、渦巻く。スケートから離れたいと思ったあの時、スケートに対する好きという気持ちは拭えなかった。離れたいのに離れられない。あれもまさしく葛藤だった。
フリーで演じるトゥーランドットもきっとそうだったのだろう。人を愛したいのに愛せない、愛す方法が分からない。人を傷付け、自分も傷付き、引き返せなくなった結果自分を見失ってしまった。トゥーランドットにとって、夜明けとはどんな存在だったのだろうか。勝利を確信したカラフは、早く夜が明けろと歌い上げた。じゃあトゥーランドットは? 悩んでいたのだろうか。早く夜が明けて欲しい自分と、まだ夜が明けて欲しくない自分が混在した心に戸惑っただろうか。
夜明け。それは月と太陽の主導権が入れ替わる瞬間。東の空が白み始める静謐で壮大な。
わたしの上ではまだ月が主導権を握っている。歩けど歩けど頭の上には月が浮かび、わたしの足元に影を落とす。爛々と輝くソレに不安を覚える日もあるけれど、安堵を覚える日もあったりする。
泣いて、悩んで、足掻いて。ゆっくりと頭を上げた先に見えたのが綺麗な朝日だったなら、どんなに良いだろう。雲の切れ間から光が射す光景をわたしなら一生忘れない。網膜に焼き付いて離れない。わたしはここに生きているのだと声高に叫びたい衝動に駆られる。
その景色を見る為に、行く当てのない暗がりをただひたすら歩き続ける。歩き続けたい。その先にある景色が見たいから。
「______っ!」
音楽が止まる。肺に空気をいっぱい吸って、脳に酸素を送り込んだ。弾けるような拍手が降り注ぐ。
でもまだきっと、足りない。どこからか確信が湧いてきた。悔しさは残りつつも自己否定に走ることはなかった。それはきっと、楽しかったからだ。
ああ、やっぱりわたしはスケートが好きだ。大好きだ。許されるならばそう、叫びたかった。
景湖は笑顔で出迎えてくれた。彼女が広げた腕の中に自然と潜り込み、彼女の温もりを感じた。サボンのような上品な香りが鼻腔をくすぐった。
「おかえり。なんか楽しそうだったね」
「……楽しかったです、うん。物凄く」
景湖の腕の中から離れ、エッジカバーを受け取る。リンクでは東雲詩音が本番に備えて準備をしている。頑張れ、と心の中で声援を送ってキスクラに移動した。
「氷魚舞さんの得点、75.50」
公式的にパーソナルベストは更新出来たものの、目指していた76.38には届かなかった。会場は拍手と歓声に包まれるが、景湖は「あちゃー」と顔を顰める。
「思ったより伸びなかったねえ」
「コンビネーションで若干もたつきましたからね」
「あと最後のスピンのポジションね。伸び代あるってことだ。元気出しな」
「落ち込んでませんって」
景湖の打ち出した目標は達成出来なかったが、わたしはこの月光に満足していた。まだまだ改善すべき点はあるが、ようやくスタート位置につけたというところだろうか。
ファイナルの背中が見えてきた。同時に、わたしが決断すべきことのタイムリミットも迫っていた。
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