光の中で 4
「お待たせ~……ここ?」
「うん。入ろ」
晴月指定の店前で彼と落ち合った。彼には元より行きたかった店があったらしい。北京の料理屋事情にそこまで明るくない為、どこへ行くかと迷う手間も省けた。
店は一見普通の中華料理屋だったが、晴月の後ろに着いて入店するとあれよあれよと個室へと案内されて驚いた。薄めの壁からは隣の笑い声が若干漏れ聞こえるが、不快なほどではない。
もっと気軽な店かと勝手に想像していたわたしは大いに戸惑っていたが、対する晴月は柔和な表情で口を開いた。
「あんまり雑然としてるの好きじゃないのかなって。あとほら、舞って有名人だから。俺みたいな男と居て、変な記事書かれても困るでしょ?」
「有名人って程じゃないけど……お気遣いありがとうございます」
ガヤガヤした雰囲気が苦手なのは確かだ。だが、この高級感漂う個室というのもなんだか落ち着かない。
それに、大抵こういう場所にはドレスコードがあるはずだ。練習終わりで大した格好もして来ていないのに! と急に小っ恥ずかしさが込み上げてきた。が、対する晴月もラフなパーカーにジーンズという出で立ちだ。個室があるだけで敷居が高いような店ではないのかな、とホッと胸を撫で下ろした。
「ここの小籠包が美味しいらしくてさー。来てみたかったんだよねえ。どうにか今朝滑り込みで予約して」
晴月の言葉が引っ掛かり、メニューを開く手が止まった。
「予約って?」
「あ」
彼は完全にしまったという顔をした後、頬を掻いた。
「舞の練習終わりに一緒に行けたらなって思って事前に予約してたって言ったら引く……よねえ、そうだよねえ。うん。知ってた」
「いや、まあ……よくそんなリスキーなこと出来たなって。だってわたし基本的に景湖さんと行動してるし」
その上、いくら晴月と空港で再会したとはいえ、スケジュールまでは伝えていない。わたしがいつフリーになるか分からない状況下で(仮にフリーになったとしても断られるパターンも考えられる)、よく店の予約が出来たなと純粋に感心してしまった。意外と石橋は叩かずに渡るタイプなのだろうか。
「そう。だから断られる確率が99.9999%だと思いつつ、予約したんだ。まさか来てくれると思ってなくて超嬉しい」
度々、人との距離感をはかりかねてはきたがこの彼もどうやら対象外ではないらしい。思えばほぼ初対面の状態から超短期間で下の名前で呼び合うというフェーズにまで移行してしまっている。果たしてこれは正しい距離の詰め方なのだろうか。少し性急すぎやしないだろうか。
人間関係構築初心者のわたしの疑問はまだ続く。
彼の中でわたしはどのような立ち位置なのだろうか。友人? それともただの取材対象?
否、それ以外の想像をしようとして……やめた。想像してしまえば、この個室で2人きりという状況に気まずさを覚えそうになったからだ。それに、彼に下心があるという発想は彼の尊厳を冒涜する行為に値すると思い、猛省した。
「めちゃくちゃ悩むじゃん」
「え? ああ」
どうやら晴月にはわたしが注文に悩んでいるように見えたらしい。雲間に射した光のような笑みを浮かべ、印刷された写真を示した。
「これ。美味しいらしいからこれにしよ。それとも小籠包ダメだったりする?」
「いや、大丈夫。むしろ好き。試合前はナマモノとお酒は控えてるってくらいで。あと辛いものとか」
この店のメニューには中国語の他に英語訳も載っている為、記載内容は大体読めそうだ。が、読み方が分かっても写真が無ければ内容が分からないものが多い。何度も経験してはいるが、海外あるあるのひとつである。
ここは事前情報が頭に入っている晴月に任せた方がいいのだろうか。それとも今ここでわたしがスマホで店の情報を調べれば良いのか? としどろもどろしていると、晴月から鶴の一声が。
「じゃあ小籠包中心に食べられそうなの注文しよう。でもひとつだけ頼みたくて」
「……なに?」
「俺中国語は喋れないし、英語も拙いからなかなかスムーズにいかないんだよね。注文するものだけ指示させてもらうから、オーダーだけ頼んでもいいかな。英語なら通じるはずだから」
利害の一致とはこのことか。一も二もなく返事をし、店員を呼ぶベルを鳴らした。
店員が来る間、ふと湧いた疑問を投げ掛けてみる。
「……もし、わたしが来られなかった場合どうするつもりだったの?」
「その時はその時じゃない?」
悪戯っぽく目尻を下げた彼に、また新しい“空木晴月”を見たような気がした。
思慮深そうな印象を抱いていた為、等身大の楽観さも持ち合わせてる側面を見せた彼に対して一気に親近感が湧いた。今までずっと大人びて見えていた彼が急に自分と同い年くらいの青年として映った。
無事に注文を終え、料理を待つ。訪れた静寂から気を逸らしたくて、ジャスミン茶で口を湿らせた。壁を挟んだ向こう側はやたらと盛り上がっている。
脳内では何を話せば良いのだろうかと逡巡する自分がいた。「小籠包楽しみだね」か、それとも「最近どう?」などという世間話に振り切ってみるか。下手に話を振って、そこから話を広げられるだろうか。
モントリオールのカフェで話した時には、こんな事思いもしなかった。個室という状況が2人きりということを助長させているからなのか。
「どう、新プログラムの出来は」
ちびちびと茶を飲むのにも限界があると思っていた最中、話題を振られた。胸の中で小さくガッツポーズをしつつ、己の消極的で他力本願な部分には「要改善」の付箋を貼っておくことにする。
「景湖さんにはまあまあって言われた。わたしもまだ完璧ではないって自覚してる」
自然と背筋が伸びた。はた、と晴月と目が合った。彼はわたしから目を逸らさず、わたしの話を頷き聞く。
「でもわたしには演技を通して伝えたい事が沢山あるから。見たい景色もあるし、見せたい景色もあるから。だからこそ、今は完璧じゃなくても今出来る全てをもって全力でやるしかないって心から思ってるよ」
肚の底からの宣言だった。言ってるうちに力が入り、いつの間にか拳を強く握っていたことに気が付いた。
依然目が離せないままでいる晴月は、しっかりと言葉を受け止めたかのように緩慢に頷いた。
「応援してる」
向けられた真っ直ぐな眼差しは心に深く溶け込むような澄んだ色で。ああ、ずっと見ていたいな。そう思える程に、その色に吸い込まれそうになってしまった。
夜明けってこんな色なのかな。静謐な世界の始まりの色。
「ありがとう」
彼のこともっと知りたい。そう思った。彼を知ればわたしの目指す夜明けを知ることが出来る。確証なんてどこにも無いのに、直感がそう言っていた。
心臓が早鐘を打つ。まるで試合前みたいだ。しかし、そこにあるのは試合前の緊張感ではない。“知りたい”という探究心から生まれた欲求、その欲を満たす一端に触れられそうだという一種の興奮からだった。
「フリーは4回転を入れる予定なんだよね」
「うん。そもそもあのフリー楽曲が楽曲だからプレッシャー凄いけど……」
「朝日さんの代名詞だった曲だよね。朝日景湖といえばこの曲だ! って感じだから、それを教え子が滑るのは相当な勇気だと思うよ。あ、でも歴史を塗り替える所は見てみたいかも」
「更にプレッシャーかけないでよ……」
テンポを取り戻してきた会話の中で、晴月のふとした仕草がわたしをくすぐる。彼の目に映る世界が、小説としてどう彼の言葉で表現されるのだろうか。わたしはただ、知りたかった。
「そう、曲といえば俺も今回小説書くにあたってどんな楽曲を使おうか悩んでてさあ。舞は普段、どうやってプログラムの楽曲決めてるの?」
急に襟ぐりを引っ掴まれて現実へと引き戻された感覚だった。
現実は小説のように色付いた世界で構成されていない。本来ならば朝日景湖のような、自分で選曲も振り付けもこなしてしまうような人間が主人公になるはずだ。日本人初のGPファイナル優勝者、若干二十歳でスケート界から姿を消すが、その15年後に今度はコーチとして再びスケート界に舞い戻る。対する氷魚舞には伝説的なエピソードなど何一つ無い、ただのモブキャラだ。
そう自覚した途端、なんだか気恥ずかしくなってしまい、口ごもりながら答えた。
「……選んでもらってる、かな。今までのプログラム全部」
「そうなんだ。じゃあコーチと作り上げていくって感じだね」
「まあ、そんな感じ……だと思う」
実際はほとんどコーチ主導だった。景湖が来てからは多少意見するようにはなったが、フョードル時代には彼の言うことを忠実に聞いていた。彼がそうさせたのではなく、わたしの自信のなさがそうさせたのだ。
勝った時の謙遜の方向も、負けた時の言い訳も、全てコーチに向けることが出来る。当時は無自覚にやっていた行いも、顧みれば自虐の対象だ。こういう小さな自虐の積み重ねから日々成り立ったわたしの人格は、主人公には値しない。
しかし後ろめたいことばかりも言っていられない。晴月はそんなわたしでも、一取材対象として見てくれているのだから。
「でも新しいエキシビションはわたしが選んだ曲なんだ」
と、比較的ポジティブになれる話題を挙げてみた。すると晴月は興味深そうに目を見開いた。
「へえ。そうなんだ。今までエキシビションまでは見たことなかったなあ。注目して見てみるよ」
「ありがとう。とても大切な_____思い出が詰まった曲なの」
わたし自身の幸福の記憶を閉じ込めて、誰もが温かな気持ちになれるよう、そう願いを込めたプログラム。景湖以外の誰かに見てもらい、評価されないときっとこのプログラムは真価を発揮しない。
世間がどう捉えるかはそれぞれだが、わたしは新プログラム全てにポジティブな希望を込めたつもりだ。
上品なノックが会話の中断を報せる。グッドタイミングだ。
湯気立った小籠包はてりてりと鈍く光り、まるでひとつの工芸品に見えた。
「ひとまず食べよっか」
「うん」
いただきます、と手を合わせて箸とレンゲを手に取った。餡からぶわりと溢れ出した熱い肉汁が、自分が空腹だったことを思い出させてくれた。
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