誰が為に夜は明ける

 生涯現役宣言から一週間。わたしは景湖に返事を問う機会を窺っていた。

「景湖さん」

「ん?」

 ふたりきりのスケートリンク。冷えがより一層身体に沁みる。

 魔法瓶に入れてきたお茶で喉を潤し、覚悟を決めた。

「わたしのコーチを続けて欲しいっていう返事、聞かせてもらえませんか」

 景湖の瞳の奥がぐらりと揺らいで見えた気がした。やはり先延ばしにされていたのだ、と直感する。しかし、触れたくても触れられないような焦れた思いはもうしたくなかった。景湖がわたしに踏み込んできたように、わたしも彼女に踏み込みたい。

「そう……だよね。ごめん。舞ちゃんの気持ちを無碍にするようなことをして」

 首を振る。しかし景湖は目を落としたままだった。長いまつ毛がつるりとした頬の丘陵に影を落とす。

「さて、どこから話そうかな」

 そう切り出した彼女は語り出した。わたしがずっと気になっていた、わたしのコーチになった理由を。


 フィギュアスケートから一線を退いてから9年ほど経過した頃、舞をテレビで見掛けた。確か、シニアデビュー初年度にGPファイナル出場という注目株としてニュース番組か何かで大きく取り沙汰されていたのを見たような気がする。彼女の演技の映像が流れ始めると、自然と作業の手が止まったのを覚えている。

 卓越したスキルも無ければ、演技に華やかさもない。しかしひとつひとつの音に対して深い理解を示していた。それは“解釈”という範疇を越えた理解だった。きっと耳が良いのだろう。寸分違わず音を拾い上げ、心と体と共に滑っている。

「楽しそうだなあ」

 氷魚舞に初めて抱いた感想は、そんな月並みな感想だった。

 引退からほぼ10年という時間が経過した身が何を偉そうなことを思っているのか。現実に引き戻され、テレビを消した。

 翌年、氷魚舞がGPファイナル優勝を果たした。同年、四大陸選手権も準優勝と好成績を残した。整った容姿と透き通るような白い肌、氷魚舞というフィギュアスケートにはうってつけな名前からいつしか彼女は氷上の白魚と呼ばれるようになっていった。

 徐々に世間の注目を集めてゆくその様を、自分と重ねて考えざるを得なかった。

 それくらいの時期だったからか、再びリンクに立つようになったのは。地元にあるスケートリンクは朝日景湖にとっての原点と言っても過言ではない。ここでスケートを始めた。所々改修を重ねてはいるが、あの頃と変わらない面影に懐かしさが膨れ上がった。

 数年ぶりの靴、数年ぶりの氷上。まばらだが人が行き交うリンクの中で、大の大人がいきなり転んだら恥ずかしいなあ、なんて思いながら怖々氷の上に降り立った。

 吸い付くように足が動く。人間というのは不思議なもので、どんなに心が拒んでも身体は記憶しているものなのだ。

 段々身体が温まってきて、羽織っていたコートを脱いだ。忘れていた歓びを、過去に置き去りにしていた感情を、フィギュアスケートが丁寧に思い出させてくれる。雨のような拍手喝采、棘のようなブーイング、どうして忘れていたのだろう。9年経った今でも、色褪せずに脳内に反響させることが出来るのに。

 それからは頻繁にリンクに通うようになった。現役の頃にやっていたメニューを掘り返して少しずつやるようになり、いつからか怠けていた食事もなるべく摂るように心掛けた。

 一体自分は何を志しているのだろうかと疑問に思わなかったわけではない。スケートリンクに立って小さな自尊心を満たすことが何に繋がるのだろうか。否、楽しかったから滑り続けた。何にもならなくて良い。人生の何に繋がらなくても良かった。もうスケート界と関わることは一切無い。朝日景湖は死んだのだ。しかし、二度と日の目の当たらない場所でスケートがしたかった。それだけで、十分だった。

「景ちゃんかい?」

 リンクに通うようになって受付の人にも「あ、常連だ」という顔をされるようになったある時。スケート靴を履くあたしを懐かしい名で呼ぶ人物が現れた。このスケートリンクのオーナーだった。

 数ヶ月前から頻繁に来てくれるようになったお客さんが居る、凄くスケートが上手でおまけに美人だ。どこかで見たことがあるような気もする。などというふんわりした噂から直感的に朝日景湖だと思い、ずっと会う機会を窺っていたらしい。オーナーはスケートを始めたての幼い頃から世話になっていた。ここをホームリンクにしたいと言い出した時も快く受けてくれたり、練習バカなあたしの為に夜遅い時間までリンクを開けてくれていたりと頭が上がらない。

 オーナーは何度も来てくれているようでありがとうと礼を述べると、早速本題へと切り出した。

「いつも閉館ギリギリに来てくれてるんだってね」

「ええ。すみません。仕事の都合で」

「なんもいいんだよ。また景ちゃんが滑りに来てくれたことが何よりも嬉しくてさ。今度から連絡くれたらあたしが飛んでくるからさ、好きなだけ滑っていいよ」

 耳を疑った。オーナーの気前の良さは以前から知っているが、あたしはもうそこまでやってもらえる立場ではない。

「いえ、そういうわけには。引退した身ですし」

「あたしがそうしたいからいいんだよ。この建物ももう古い。景ちゃんが使ってくれたら何よりも嬉しいよ。それに、あたしももうここに名前だけ貸してるみたいなもんだからさ、老人の散歩のきっかけ作りだと思ってさ」

 それからあたしは今まで以上にフィギュアスケートに没頭していった。それは趣味の範疇を越えるような、そんなのめり込み方だった。現役時代のプログラムを総ざらいし、ブラッシュアップした。それにひと段落着くと、4回転を初めとした技に挑戦し始めた。今度は現代で活躍する選手たちのプログラムをコピーし、滑るようになった。

 演技を終えても誰も拍手をしてくれない。賞賛も批判も無いただ守られた空間で数年間、滑り続けた。

 現役引退から間もなく14年となろうとしている年のことだった。氷魚舞が、世間から大バッシングを受けた。

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